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遠くまで

 すこし睡眠が足りないのかもしれない。  ふらついた足を支えようと俺はとっさにカウンターを掴む。盛りつけたばかりの皿になぜか左肘がヒットして、皿はするするとカウンターを端まで滑る。次の瞬間、フローリングの床には夕食用のビーフシチューがぶちまけられていた。 「サエ、何の音だ?」  天の声が聞こえたが、俺は床にしゃがんでいてその方向はみなかった。 「サエ――」  頭の上で響く声を無視して、俺は床の惨状から取り急ぎ食器を救出した。割れも欠けもしなかったことに安堵する。大ぶりの筆で藍色に塗られた深皿はひとり暮らしをはじめたころ母にもらったもので、今は製造されていない。  どうして皿というのは上を向いて落ちてくれないんだろう。そのまま上を向いて床に着地すればいいじゃないか。 「こういうの、マーフィーの法則っていうんだっけ?」  つぶやきながら立ち上がると、入れ替わりのように天がビニール袋と雑巾を手にしゃがみ、シチューの残骸を片づけはじめた。俺もさっさと動かなければ。そう思ったのに、なぜか体が素直に動いてくれない。深皿をシンクに置いてふりむくと、天はもう床の汚れをほとんど拭い去っていた。 「俺が全部やるから、サエは座ってろ」 「ごめん。シチューはまだたくさんあるからさ」 「俺が持っていくから、座っていろって」 「でも」 「サエは無理しすぎだ」  断定する口調にムッとしたが、皿を落としたのはこっちで、片付けているのはあっちだから、文句もいえない。俺はダイニングテーブルまでよろよろ歩く。きのう――いや、もう今日になっていたが、とにかく三時間の睡眠は確保した。だからまだ眠くないし、頭の片隅は夕食後にとりかかる作業手順をくりかえすのに余念がない。皿を落としてしまったのは不注意のせいにちがいない。  個展まで三週間しかなかった。ギャラリー・ルクスのいちばん小さいスペースを使ってひらかれる「佐枝零」のはじめての個展だ。ルクスでは冬の企画展に出品したことがあるが、グループ展と個展では緊張の度合いがちがった。  個展をひらくことは半年前、天と結婚したあとに決めていた。それから数か月、怠けていたわけでもないのに、残り時間が短くなるにつれ、俺の中では焦る気持ちが強まりはじめた。この数日はとくにそうだ。作品の展示方法も詰めなければならないし、開催案内のポストカードもできあがった。これから宛名も書かなくてはならない。  案内状なんて、機械的に出せばいい。それなのに俺はここでも悩んでいる――我ながらどうでもよさそうなことで。去年の夏、天と結婚式をあげて俺は正式に「藤野谷零」になった。でも作家としては「佐枝零」で活動を続けているのだ。天もその方がいいといった。  しかし身内、特に藤野谷家にオープニングの招待状を送るとき、俺はいったいどっちの名前を書けばいいのだろう? 藤野谷零から佐枝零の展覧会の案内を送るのか? 絵描きとしての俺は佐枝零なんだから、佐枝零でいいはず――でも名族である天の両親はどう思うだろう? いや、そもそも作品がすべて完成していないのだ。それなのにこんなつまらないことで悩むなんて馬鹿みたいじゃないか。やるべきことはまだあって―― 「食べよう」  天が新しい皿を並べた。ビーフシチューは最近よく食卓に上る。作り置きを冷凍しておけばすぐに食事にできるからだ。それに同じく冷凍しておいたパンと、ちぎったレタスにミニトマト。土曜の夕食にしてはそっけないが、俺には献立を考える余裕がなかったし、名族の会合に出かけていた天はさっき戻ってきたばかりだ。 「族会、どうだった?」  俺はスプーンをのろのろと動かす。食べ物の匂いに混じって、向かい側に座る天の匂いがふと鼻につく。食べ物とはちがう意味でいい匂いだ。どんな風に「いい」のかは自分にもよくわからない。いつもはこんなこと気にもしないのだが、今日はなんだか心がざわつく。たしかにいい匂いなのに、そのことが俺を苛立たせる。  天は静かに俺を見返した。最近の天は以前よりも落ちついているような気がする。再会したばかりの頃や、一緒に暮らしはじめた頃とくらべても。貫禄――というほどのものではないけれど、ひとかどの人物と思わせるものが備わってきた、とでもいうか。 「特に波乱もなかった。鷲尾崎さんにサエの個展について聞かれた。楽しみにしていると」 「鷲尾崎さんが? まだ招待状も送っていないのに、どこで知ったんだろう?」 「銀星氏から聞いたそうだ」 「あ、そうか」  鷲尾崎家の当主は祖父と仲がいいのだ。祖父には正月に話したから、伝わっていても何の不思議もない。 「サエ、食欲ないのか?」  天がたずねた。俺はあわててスプーンを置き、パンをちぎった。 「いや。そんなことはないよ。腹は減ってる。その、頭がいそがしいんだ」  口に出してからおかしな表現だと自覚した。でもそうとしかいいようがないのだ。 「このあとの作業のこと考えてさ」 「サエ。夜は休んだ方がいい。疲れているんだろう?」 「あと三週間しかない。搬入直前まで仕上げをやるなんてことにはしたくない」 「前の展覧会の時も同じ心配をしていたぞ。でも大丈夫だった」 「あれはグループ展だろ? 今回は俺の作品しかないんだぞ」  俺はミニトマトをつまんで口に放りこんだ。天に言葉を返すたびに気持ちが高ぶってくる。体の内側が熱く感じて、いらいらするし、落ちつかない。  口の中で弾けたミニトマトは想像していたよりも甘かった。顔をあげると天が俺をじっとみていた。何かいいたいのに黙っている、という顔つきで、その気配にまた心がざわつく。 「手を動かしていないと不安になるんだ」俺は早口でいった。 「寝るまえにすこし進めるだけだよ」 「サエ」  天が急に立ち上がった。え?と思ったときにはもう俺の横に来ている。さらりとした手のひらが俺のひたいを覆う。 「ヒートがはじまる?」 「え……予定はまだ一カ月くらい先――」  俺は首を振ろうとしたが、ひたいをなぞる指の動きに惑わされてうつむきそうになってしまう。そのときふいに体の火照りを自覚し、天の言葉が正しいとわかった。どうして気づかなかったのだろう。ふらついていたのも、いらいらして落ちつかないのも、全部ヒートの前兆だ。  ああ――作業が遅れる。  たちまち俺は心の中で恨み言をつらねた。どうして今なんだ。一カ月、いや二週間前。それとも一カ月先か、それなら何の問題もなかったのに、どうして今来るんだ。 「大丈夫だ」  天がささやき、俺はさらにため息をつきたくなった。この男はきっと、たった今俺が考えたことを悟ったにちがいない。 「大丈夫じゃない」俺は前をむいたまま唇をなめた。 「こんな直前に何日かロスするなんて……これだからオメガは」 「」天が強い口調で俺を呼んだ。「今日はもう休もう。ただでさえ過労気味だったんだ。ヒートのついでにゆっくり休めってことさ」 「だめだって、天。今日はまだ続きをやりたい。ヒートがはじまるならなおさらだ。それにヒートがはじまったら――休めっていっても」  俺は思わず言葉を切る。天の吐息が耳の裏にかかり、体の中心、腹の底が熱をおびるのを感じる。  ああもう。天だってわかってるくせに。ヒートの休むなんて、ナンセンスもいいところだ。そんなことできっこない。  だが天は自信にみちた口調でいった。 「五日中断したって二週間以上ある。単純作業なら俺だってやれる。だから大丈夫だ」 「馬鹿。おまえに頼めるか」俺は思わず大きな声を出した。「単純作業ったって……」 「案内状を送るとか、細かいことがあるだろう。作品には関われないが、そのくらいなら俺にもできる」 「あのな、天。これは俺の展覧会だ。おまえに手伝ってもらおうなんて思ってない」  自分でも思いがけないほど強い口調になってしまった。熱いものに触れたように天の指が俺の肩を離れる。俺はあわててうしろに立つ男をふりむく。 「気持ちは嬉しいんだ。だけど……」  天は椅子のすぐうしろに立っていた。見上げるだけで、俺の体はヒートの悦びを思い出してしまったような気がする。まだ予兆にすぎないはず――それなのにもう、体の中心がかすかに疼く。  ああ、今じゃなければむしろ嬉しかったにちがいない。ヒートのあいだは何日も、誰の邪魔も入らずにふたりだけで過ごせる。 「天」俺は突っ立ったままの男をみあげた。 「おまえはTEN-ZEROを経営しているだろう? 俺からみれば、あの会社はおまえの作品みたいなものだ。実績があって、評価もされている」 「そんなことはない」天はむっつりした口調で否定した。俺は無視した。 「まさか。TEN-ZEROの香水があることで、この社会はすこし変わっているかもしれないんだぞ。おまえはを作ってるんだ。でも俺はまだ……まだぜんぜん、そんなんじゃない」 「馬鹿なことをいうな」今度の声は俺に負けないくらい強い口調になっている。 「俺がサエをみつけられたのは、サエの作品がよかったからだ」 「ああ、そうかもしれないさ。でも――」  俺はさらにいいかえそうとして、言葉につまった。  ちがう。こんな話がしたいわけじゃない。俺はただ……不安なのだ。展覧会までに作品を仕上げられないのではないかとか、ろくな評判を得られないのではないかとか、名族の権威をかさに着ているといったような、見当はずれの批判を受けるのではないかとか。  じっとしているとそんなことが気になってしまう。それに今の俺は藤野谷天藍の配偶者で、多くの名族は「藤野谷零」の俺にしか興味がない。展覧会はアーティストの「佐枝零」に意味を与えるが、それもうまくいったらの話だ。  うまくいかなかったらどうなるだろう? 天は俺をどう思うだろう?  再会した時、天は俺の作品を良いといい、今も好きだといった。でも、この先もずっとそうだろうか?  俺は天が好きだ。でもそれだけじゃない。  俺の作品に驚いたり、感心してほしいのだ。俺が天の仕事をすごいと思うように。  おまえもそう感じていなければ、置いて行かれるような気がして不安になる。 「サエ?」  沈黙が長すぎたせいだろう。天は心配そうな目つきで俺をみていた。俺は唾を飲みこんだ。 「天、俺は遠くまで行きたいんだ」 「遠く?」 「これまで行けたことのないところまで。俺の場合は……俺の作品で。でもときどき怖くなるんだ。おまえの方が先に……俺が行けないくらい遠くへ行ってしまうんじゃないかって」 「何をいってるんだ」  天が小さく笑った。 「そんなわけないだろう。俺を置いていくのはいつもサエの方だった」 「まさか。俺がひとりで線を引いているあいだにおまえはTEN-ZEROを創業して、成功したじゃないか」  天は呆れたような目つきになった。 「あれは俺ひとりの力じゃない。そうか、わかったぞ」    天は椅子に座ったままの俺のまえに膝をついた。彼の匂いが鼻をくすぐり、ヒートの前兆で敏感になった俺の肌がまた熱をもつ。 「俺だって時々サエを引き離したいと思うんだ。ここ最近はずっとそうだ」 「引き離すって、何から」 「サエは絵を描いている時、俺なんか眼中にない」 「馬鹿天」俺は思わず口を尖らせた。「そんなんじゃない。だからこれは俺の個展で――」 「ああ。わかってる」  天は膝をついた姿勢のまま、両手で俺の手を包みこむ。 「俺は展覧会が成功すると確信している。サエがいつも遠くをみているのは知ってる。俺もそこを――同じくらい遠くを目指したい。やっていることはちがっても、みているものが同じなら、どちらかが置いて行かれるなんてことはない」  俺はいつのまにか天のささやきにうなずいていた。もしかしたら敏腕経営者の弁舌に丸めこまれているだけかもしれないとも思ったが、すぐにどうでもよくなってしまう。天が両手で俺の指を広げ、手のひらや指のあいだをゆっくりと揉みほぐしはじめたからだ。  体の緊張がほぐれるにつれて、あらがいがたい眠気が襲ってきた。ハッとして目をあけると、してやったりといいたげな天の笑顔に出くわした。 「ほら。今日は休んだ方がいい」 「ああ、もう……」  俺はほうっと息を吐いた。 「わかったよ。今日はもう何もしない」 「風呂に入って早く寝るんだ。キッチンは俺が片付ける。ちゃんと寝たかどうか、見に行くからな」 「子供あつかいするなって」  天は俺の言葉を聞くと楽しそうに笑い、立ち上がろうとした。ところが急によろめいて椅子の背に手をつく。どうやら足が痺れていたらしい。今度笑ったのは俺の方だったが、天は顔をしかめたまましっしっと手を振った。 「サエ、風呂とベッドだ」 「わかったよ」  俺も天の隣に立ち、リラックスした体の内側にもヒートの予兆がくすぶっているのを感じた。ぐっすり眠って、朝になって目をさましたら、もっとはっきりしているだろう。 「天も早く……ベッドにこいよ」  思わずつぶやいた声は小さすぎて、聞こえなかったらしい。問いかけるような視線を感じたが、二回くりかえすなんて願い下げだった。かわりに俺は腕をのばし、天の首に両手を絡ませて唇を寄せた。キスはいつもと同じように甘かった。

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