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星に祈りを
「きましたよ」
渡来の声に俺は目をさました。車の後部座席で待っているあいだ、ついうとうとしてしまっていた。車寄せに天が降りてきてドアをあける。さっと隣に乗りこんでシートベルトを締めた。
「サエ、どうだった?」
開口一番たずねるので俺はつい笑ってしまう。
「順調だって。待合室からメール送っただろ。みてない?」
「読んだが……」
「写真もらったから帰ったら見せるよ」
「ああ」
天の手のひらが俺の手首を覆い、手のかたちをなぞるようにして指先を包む。車の中は涼しいが、天の指は梅雨明け間近の外の空気で汗ばんでいる。
「そんなに緊張するなよ」
「ああ、そうだな」
天が心配する理由は重々わかっている。俺は長年抑制剤を使っていた上、オメガとしては高齢で初産を迎えることになる。それに俺の産みの親の葉月は出産後長く生きなかった。でも今は葉月の時代ではないのだ。
「天、産むのは俺なんだぞ。おまえはどんと構えていろよ。らしくないぜ」
バックミラーのなかで渡来が微笑み、車はすべるように動き出した。左右の歩道には浴衣姿のカップルや家族連れが歩いている。
「お祭りでもやってる?」
俺は誰にともなくたずねた。間をおかずに渡来がこたえた。
「七夕祈願祭だな。寄りたいなら停める場所を探そう」
「そうか。今日は七月七日ですね」
この先にお祭りをやっている神社があるのだろう。赤信号で車は止まり、俺は夕暮れの歩道をのんびり歩く人々を眺めた。オフィス帰りらしい服装の男女にまじって、浴衣や涼しそうなワンピース、Tシャツに短パンが混じっている。学生服の男子二人連れもいる。高校生だろうか。車が走り出した瞬間、ふたりが手をつないでいるのがみえた。そのとたん懐かしい風景が頭に浮かんだ。
*
終業のチャイムが鳴っている。
「テストどうよ~」
「立つ鳥跡を濁さずよ。あとは知らん」
「それ使い方あってるか?」
「何でもいいだろ。午後どっか行く?」
教室も廊下も期末試験最終日の解放感にあふれている。俺は鞄にノートを押しこむ。
「サエ、このあと用事あるか?」
藤野谷がすぐ前に立っていた。俺はもうロックオンされている。大袈裟かもしれないが、そんな気分になるのだ。ロックオンされると逃げられない。
逃げたいと思ってるわけじゃないけど。
「べつに何も」
そう答えると藤野谷はにやっと笑った。
「試験も終わったし、どこか寄って帰ろうぜ」
「いいよ」
俺は周囲をみまわす。藤野谷と「どこか」に行きたい生徒は他にもいそうなものだが、教室には誰もいなかった。藤野谷が誘ってくるときはいつもそうだ。これで何度目だろう。
「どこか」を決めるのはだいたい藤野谷だ。
中学まで田舎の学校に通っていた俺は、他の生徒のような都会育ちの感覚にいまだに慣れなかった。この高校は生徒の自主性を重んじる校風で知られていて、制服を着るのは行事のときだけだ。今日のように期末試験が終わったあとの午後なんてそのまま遊びに行けといわんばかりだが、こんな雰囲気も中学までとはぜんぜんちがった。
俺なんて、電車に乗って学校に通うのもはじめてだというのに。峡と一緒に暮らしているマンションから学校まで、俺は地下鉄と私鉄線を乗り継いでいく。藤野谷の家の方向はちがうのではないだろうか。でも俺を誘った日は、藤野谷はいつも俺と一緒に乗り換え駅で降りた。
俺たちはぶらぶらと歩き回り、目についた店を冷やかす。藤野谷に引っ張り回されているような気がすることもあったけれど、本音のところでは彼と一緒にいるのは楽しかった。藤野谷が有名な一族のアルファだからじゃない。藤野谷がいつもアイデアとやる気でいっぱいだから。藤野谷と話していると俺にも面白い考えが浮かんでくるから。
「どこに行く――あ」
今日も乗り換え駅で降りて地上に出る。すぐにいつもと違う様子に気づいた。
「どこかでお祭りやってる?」
道をいく人のなかに色とりどりの浴衣姿がいくつも混じっている。細長い紙をひらひらさせている子供もいる。
「このあたりは神社もないし、イベントかな」藤野谷は興味のなさそうな声でいった。
「今日、七日だろう。七夕イベントだよ」
「あ、そうか……」
実家では毎年、佐枝の母さんが笹飾りと短冊を用意していたのに、今年はすっかり忘れていた。もとは機織りや裁縫の上達を願う行事だからね、と手芸の好きな母がよくいったものだ。
「天はどんな願い事をする?」
交差点で立ち止まって何気なくたずねた時、隣にいる浴衣の女子たちが藤野谷をちらちらみているのに気づいた。口を押さえて何かささやきあっている。こんなに人がいるなかでも、藤野谷は目立つ。
しかし藤野谷はそんな女子たちを完全に無視した。
「七夕の願い事なんて、小学生じゃあるまいし」
「でも俺の母さん、毎年笹飾りやるよ。大人だけど」
「へえ」
藤野谷の眸がすこし広がる。そのとたんまた、ロックオンされたような気分になる。でも悪い感じはしなかった。藤野谷を気にしてささやいている女子たちがいるそばで、藤野谷が俺だけに注意を向けているのは。
信号が変わった。女子たちはまだちらちらこっちをみている。藤野谷は彼女たちにぜったい気がついているのに、何も反応しない。注目されることに慣れているのだ。
ときどき、これ以上親しくなってはいけないと思う。
俺がこの学校にいるのは一年だけ。転校先では俺は「オメガ」になる。そうなるともう――どこかでばったり会ったとしても、藤野谷には気軽に話せなくなる。
藤野谷はオメガが嫌いだから。
「あれ、こんなところあったっけ」
見慣れない建物をみかけて俺は足を止める。それなりに大きいのに、オフィスビルのようなそっけない入口に区立科学館の表示がある。小さな立て看板に「プラネタリウムリニューアルオープン」というポスターが貼ってあった。
「入る?」藤野谷がいった。
「うん。涼しそうだし」
プラネタリウムは科学館の最上階で、学生は無料だった。上映が始まるまで藤野谷と並んでぶらぶら歩く。太陽系のしくみ、銀河系とはなにか、宇宙の構造。模型やCGの展示の最後に「星の伝説」とタイトルのついた映像が流れていた。俺が前に立ったとたんにナレーションがはじまった。今日が七月七日だからにちがいない。内容はおなじみのものだった。天の川の対岸に引き離されたアルファとオメガ、運命のつがいの物語だ。
『織女は天帝の娘で、毎日、天の川のほとりで神々の着物のための布を織っていました。遊びもせず恋人もいなかった彼女はある日、天の川の対岸で牛を飼っているまじめな青年、牽牛に出会いました。対岸にいたにもかかわらず、ふたりはおたがいを運命のつがいだと悟りました』
『ふたりが天帝に結婚を願ったところ、天帝はまじめなふたりを祝福して天の川の一方の岸で一緒に住まわせました。ところが結婚した二人は毎日遊び暮らし、働かなくなってしまいました。織女が機を織らなくなったので、神々の着物は擦り切れてしまい、牽牛が牛の世話をしなくなったので、牛はやせて病気になりました。怒った天帝は二人を天の川の両岸に引き離し、仕事をするようにといいつけました』
『しかし運命のつがいと引き離されたふたりは悲しみのあまり毎日泣き暮らし、元のように働くことなどできませんでした。哀れに思った天帝は、ふたりが毎日まじめに働くなら、年に一度、七月七日の夜に会わせると約束しました』
「この話、ひどいよな」
立ったままスクリーンを眺めているといつのまにか藤野谷が横にいて、不満そうに口をとがらせていった。
「しょうがないんだろ。神様が困ってるわけだし」
「全員ろくでもない」藤野谷は断言した。「天帝もダメだし運命のつがいもダメだ」
俺は首をすくめたが、ちょうどプラネタリウムへの入場がはじまったので何もいわずにすんだ。平日の昼間なのもあってか、中は空いていた。俺は藤野谷と並んで硬い椅子に腰を下ろす。背もたれがぐっと下がった。七夕当日とあってか、上映テーマはやはり「七夕と銀河」だ。俺は藤野谷の横顔をチラッとみた。
「なんだ?」藤野谷が小声でいった。
「いや、また七夕の話だからさ。どんな顔をしてるかと思って」
「……こんな顔だよ」
両手で目尻を引っぱって変顔をした藤野谷に俺は吹き出しそうになり、あわててこらえた。上映がはじまって、柔らかな声のナレーションが流れる。
『織姫はこと座の一等星ベガを、牽牛はわし座の一等星アルタイルを指します。夜空の暗い場所では、ふたつの星の間に天の川が横たわっている様子を観察できます』
『一方、五節句の1つに数えられる七夕は、日本古来の年中行事「棚機 」と、中国から伝わった「乞巧奠 」に由来するもので、ふたつが融合して「七夕 」という宮中行事になりました。ここでは織姫と彦星の逢瀬と詩歌・裁縫の上達を願い、五色の糸や金銀の針、山海の幸を供えて、星に祈りを捧げました……』
ナレーションのリズムは気持ちよかった。丸い天井は人工の星の光で埋め尽くされている。だんだん眠くなってきて、俺はうとうとしはじめた。体が揺れたような気がしてハッと目をさます。藤野谷の手がだらりと下がった俺の腕に触れて、すぐに離れた。
さては寝顔を見られたか。いや、暗くて藤野谷の顔はみえないから、気づかれてないかも……。
上映が終わって外に出るときもそのことがまだ気になっていた。ちらっと藤野谷をうかがうと、逆に「何?」と聞き返される。
「いや、俺さ、上映中ちょっと寝てた。なんか気持ちよくて」
「ふうん」
「おまえ気づいてた?」
藤野谷は大きくまばたきした。
「いや? 見てない」
*
俺は車の中で思い出し笑いをしていた。
「サエ?」
天は怪訝な目つきだ。そりゃそうだろう。
「どうする、お祭り」
「いや。人も多いし、いいよ」
「じゃあうちに帰って――笹と短冊を飾ろうか」
真顔でそういった天に俺は思わず吹き出してしまった。
「どうしたんだ? 何かおかしいか?」
天は納得いかない口調だ。俺はあわてて顔をひきしめる。
「なんでもない。思い出し笑いだよ。高校生が歩いていたから、昔のこと思い出して」
「昔のこと? 思い出し笑い? 何を?」
「気にするなって。じゃあ、帰ったら天も短冊に願い事を書く?」
「そうだな」
「何を願う?」
「きまってるだろう、そんなの――」
天は俺の腹のあたりをちらっとみて、もごもごと口の中で何かいった。バックミラーの中で渡来の目が笑っている。
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