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8話(上)

「………しんど、今日マジでお客さん耐えなかったっすね。」 「マヤ、まだ終わってないよ。」 「でも人いなくなったしぃ…。」 マヤの弱音を店長のハルオがいなす。その横でタケルもヘナヘナとキッチンとの隙間にしゃがみこむ。 「一応ラストオーダーまで一時間あるからなあ。」 三人が喋りつつ食器を拭いたり洗ったりとしていると ギッ、と木の扉が開いて女が二人入ってくる。 「いらっしゃいませ。こんばんは。」 「いらっしゃいませー。」 マヤは皿を片付けていたこともあり、扉の音で即座に立ち上がったタケルをハルオが小突く。 「タケル。」 「こんばんは。こちらのお席へどうぞ。」 女は二人、イケメンだとか、アタリだとか小声で言いながら席へ着く。 タケルがおしぼりとコースターを置く。 「お飲み物、いかがされますか。」 「ロングで飲める、フルーツ系の爽やかなカクテルで。みたいなリクエスト出来ますか?」 「大丈夫ですよ。苦手な柑橘類やハーブ、お酒は無いですか?」 「特にないかな。」 「私は、」 そこにまた扉が開く。 「いらっしゃいませ。っ、あ」 マヤが急いでカウンターに顔を出すと弥生が立っていた。 「弥生サン…」 「マヤ、知り合いならよろしくな」 立ち尽くす真矢を置いて、ハルオはさらりとバックへ消える。 「マヤくん、ごめん。男が来たら浮くかなと思ったんだけど…」 「そんな。こちらへどうぞ。」 カウンター席に案内しつつ、男性のお客様もいらっしゃいますよ、と続ける。 それと別に真矢の思考は弥生の、思ったんだけど…の伏せた続きを必死に探る。 もし続きが、会いたくて来た、なら嬉しい。さっき髪を切りに行ったお礼で来た、なら構わない。それからネガティブなものも必死に探す。弥生サンの店に来ないでくれ?これきり会いたくない?そんな話をするために来た…は、いくらなんでも急だしそんなことは無いだろうけれど…グルグルと考えつつオーダーをとる。 「何飲みますか?」 「こんな感じって言うリクエストもできるの?」 「できるよ。」 少しソワソワしている弥生に、真矢は可愛いなと感じた。先日美容院で見た背筋が伸びて凛とした弥生は、恐らく一番自信のある、ホームでの弥生だったのだろう。 「えっと…甘さが強いのは得意じゃないかも。それから、今日はあまり度数の強くないのにしておきたいかな。」 「フルーツは柑橘くらいなら?」 「うん。甘すぎなければその他も別に。」 「うん」 反対に弥生は、真矢の真剣な表情に見入る。見るほど切なくなる。 弥生は真矢の髪に触れてから、自分の恋の輪郭を自覚すると同時に、それを止めなければならない使命感に駆られていた。 「それで……マヤくんの好きなベースがいい。」 「…俺が好きなベースだとジンベースとかだけど、好き嫌いない?」 「大丈夫と思う。」 「分かった。」 自分の止められない思いも利用して、思わせぶりな酷い大人だと思われよう。その日の弥生の計画はそれであった。 思わせぶりどころか事実想っているのだが、そして甘やかにそれが叶えばという一縷の望みをまだ捨てきれてもいないのだが、それでも弥生は、24の、恐らくゲイではない若い男の、恋や愛として果たさないかもしれない好意に身を焦がす歳ではないと自制が働いていた。 それから、その男が愛する女と歩くのを見るような未来に耐えかねるならば、先に逃げてしまいたかった。同じ過ちは繰り返せない。 とはいえ自分好みな髪型、どころか見た目もそもそも好みなわけで、そんな男が自分に出す酒をシェイクしているのを見て、何も心が動かないほど廃れてはいない。ただ、その手を、指を、腰を順に目に焼き付ける。もうすぐこの残酷なまでに優しい好意から放たれなければならない。 真矢が最後にソーダを加えて、くるりとステアする。手際よくレモンを添え、コースターの上にグラスを置き、弥生の前へ差し出した。 「…お待たせしました。」 「ありがとう」 レモンの香りを弾く金色の炭酸は、透明に近く、残暑の夜を爽やかにする。 「ジンフィズ、です。」 客が酒を口にする瞬間は相変わらず少し緊張する。あまり見るものではないと分かっていても、それが想い人ともなれば反応を確かめずには居られない。 弥生が一口飲んでグラスを置く。 「飲みやすい。」 「よかったぁ…」 肩の力が抜ける。 そこからいつもの他愛のない話をする。ラストオーダーの近づく店内は、先程来た女性客二人と、弥生の他、新しく客が来ることは無かった。 ジンフィズを飲み終えた弥生に、真矢が次の酒を尋ねる。 「そう言えば、マヤくんも飲んでもいいの?」 「大丈夫。」 「それなら同じのを飲みたいな。」 真矢は頷いて、どんなのにする?とニコニコと答えを待つ。リクエストを心待ちにする笑顔を弥生は、なんだか懐いている犬のようだと感じた。 「じゃあ、ブルームーンってお酒、できる?」 「え?」 真矢はその言葉に固まる。 何も急に出された“具体的なオーダー”に驚いたわけではないのは、弥生にも分かった。それから白々しく付け足す。 「うちのお客さんが、好きなお酒なんだって。スミレリキュールっていってたはず。それが気になって。」 「でもまたジンベースになっちゃうから、」 真矢は“ブルームーン”を出したくないようだった。 「うん、大丈夫だよ。貰える?」 弥生は飄々と続けるが、真矢は困ったように、ああ、だとか、うーん、と唸る。 「弥生サン。」 「ん?」 「本当はお客さんのオーダーを断るべきじゃないんだろうけど俺、弥生サンにブルームーンは、出したくない。ごめん。」 はっきりとした真矢の拒絶に、弥生は気圧される。 「ブルームーンは、叶わぬ恋って意味のお酒なんだ。スミレリキュールのパルフェ・タムールは、フランス語で完全な愛。お酒には意味があって、それだけで選ぶものじゃないけど、でも俺は今の弥生サンにブルームーンを出したくない。」 真矢は真剣な目で続ける。 「もしパルフェ・タムールが気になるなら、似てるバイオレットフィズがある。またロングになっちゃうし、さっきのジンフィズとも似てるけど、それからちょっとだけ甘くなっちゃうけど、ジンの量で調整するから。だから…、だからそれにしてよ。」 「…分かった。」 弥生は真矢の長ゼリフに圧されて、頷く他なかった。 「ありがとう。」 紫色のリキュールが、トロリと動く様は艶めかしく美しい。 二人分のカクテルを手際よく作るとまた弥生のコースターの上に、とん、と乗せた。 「どうぞ。」 弥生がグラスに伸ばした手を、真矢の手がカウンターの上で捕まえる。びくりと弥生の肩が震える。 「バイオレットフィズの意味はね、」 カウンターから少しだけ乗り出すようにして、真矢が顔を近づける。 「“私を覚えていて”。」 そう言って弥生の手を離し、カウンターの内側で、同じように自分のバイオレットフィズを持ち上げた。 弥生もそれに習い、グラスを少し持ち上げて音を鳴らさずに乾杯をする。 酒に口を付け、喉を潤すと真矢は弥生にだけ聞こえる声で続けた。 「俺の事、忘れさせないから。」 弥生は狼狽えた。青年のあまりに真っ直ぐに突きつけられた好意に、自分の浅はかな打算が、逃げたい気持ちが、彼から離れなければならないという決意が、見透かされ打ち砕かれる。 そこから二人はカウンターを挟んで斜めに向き合って酒を飲んだ。

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