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8話(下)

弥生は酒を飲み終える頃にはぽわぽわとした心地に浮かれていた。 先程までの飄々と突き放す、真矢を試す感情は今はどこかへ消えたようだった。 閉店の時間が近づく。 真矢は弥生に水を差し出しながら話しかける。 「弥生サン、あのさ。良かったら下で待っててくれない?すぐ着替えて俺も出るから。」 「うん?」 「家までおくらせて。」 こくりと頷いた弥生の目は、一日の仕事とつまらない打算の疲れ、それから好きな男と酒に酔わされたせいで、とろりと眠たげで、それでいて幸せそうだった。 足元が覚束無いようなことはなく、会計を済ませて弥生は店の階段をとたとたと降りていく。 「弥生サン、ちゃんと待っててね」 念を押す声が階段の上からする。 バックヤードに駆け込むとハルオがニヤニヤと笑っていた。 「店長、最後サボってましたよね?」 「は、俺は精算してたんだよ。」 真矢の抗議をあしらってハルオは話を変える。 「マヤ。あれ彼氏か?」 「違いますよ。店長って、デリカシー死んでますね。」 制服をテキパキと脱いでハンガーに吊るしてロッカーに入れる。 「はは、今更。でもお前がゲイだとは思わなかったわ、女いなかったか?」 「自分でも驚いてます。彼女?最後一年以上前ですよ。」 「否定しないのか。…あれ、そんなもんか」 ハルオは話を振っておきながらあまり興味が無いかのような素振りだった。ハルオが着替えのためにシャツを脱ぐと肋の浮く不健康な痩せ方をしていた。 タケルが女の客を外へ見送り、表を施錠して戻ってくる。 「タケル、おつかれ。」 「おつかれさまです。はー!つかれた〜!」 タケルが乱雑にシャツやボトムを脱いで洗濯カゴに投げ込む。 「マヤちゃん、俺明日シフト前に洗濯回すけど。」 「お、じゃあ俺のもよろしく。」 真矢はロッカーにしまったばかりの制服をカゴに押し込み、カバンを肩にかける。 「さっきの女の人たちなかなか帰らなくてさ、…ってマヤちゃん帰んの?早。」 愚痴を言いかけたタケルが、真矢の帰り支度の速さに拍子抜けする。 「タケルお前さっきの客見てなかったのか、あれ彼氏だよ」 「え、そうなの?仲良さげではあったけど」 「だから店長、そうじゃないから。」 好きだということ自体は、最早隠す気がなかった。 「でも下で待ってんだろ?」 「………っ、お疲れ様でした!!」 「はは、次明後日よろしく〜」 からかう側は呑気なものだ。真矢はその声を背中に店を出て階段を勢いよく降りる。 「弥生サンっ、」 弥生は煙草を咥えてスマートフォンをいじっていた。 「良かった。待っててくれて。」 「うん。」 弥生は煙草を向かいのコンビニの灰皿に押し込み、真矢の隣に並んだ。 「水とか買って来ましょうか?」 「買った。」 言葉通り弥生の腕にはコンビニのビニールが下げられている。 「そっか、家まで送ってもいい?」 改めての確認にこくりと弥生が頷く。 「うちまで裏から行こう。」 繁華街の表通りは深夜二時でも人通りがパラパラとあって、弥生と真矢、そのどちらの客とも、会わないとは限らなかった。 路地に入り歩みを進める。会話は少なかったが、ただ隣を歩いているだけで真矢は幸せに浸れた。 「弥生サン明日休み?」 「そう。じゃなかったらあんな時間にお酒飲めないからね。」 「そっか、そうだよね。」 真矢は右手でそっと弥生の左手を握った。瞬間驚いた顔はしたものの、抗うことはなく弥生は握り返した。 先日のパスタ屋の近くをぬけ、たどり着いたマンション。弥生がここで、と口にするのかと思っていたが、弥生は真矢の手を離すことはなく、オートロックを抜け、エレベーターに乗った。 部屋の前で足を止める。 「ここ?」 弥生は頷き、ガチャリと上下の鍵を開けると 「…上がっていってもいいよ。」 扉を開いた。 「いいの?」 「少し片付いてないかもだけど、」 真矢は素直に従うことにした。 「じゃあ、お邪魔します。」 部屋はところどころ出しっぱなしの雑誌やカタログがあるものの、基本的には清潔に片付いていた。正確には仕事の忙しさで、散らかす暇もないのかもしれない。 リビングに通されてソファまで手を引かれる。 二人隣同士に腰掛けると、真矢は弥生の肩に腕を回す。弥生は頭をもたげて真矢の肩へ乗せると、真矢の拍動が分かった。 少しして弥生はベランダへ出る。 夏の残り香が肩を撫で、弥生は煙草に火をつけた。 酔いは覚めつつあった。そもそもはあの二杯程度で酔うはずもなく、緊張すると回るというのは事実だったのかと噛み締める。 そこへ真矢が同じようにベランダに出て、煙草を咥える。真矢はライターを忘れたことに気づいた。 「弥生サン、火ちょうだい。」 弥生は一度ライターを差し出しかけてそれを止め、ん。と咥えたままの燃える煙草の先端を突き出す。 「そっから貰うの?」 「そ。」 と口の端で答えて笑う。 直後に煙草を口から離して 「なんてね。冗談だよ。」 という声と 「着かないから動かさないで。」 という声が重なる。 「え、するの?」 「弥生サンが言ったんでしょ。」 顔が近づく。咥えた煙草を支える指は少し震えて見える。無意識に瞼を閉じる弥生が真矢は愛おしかった。 「着かね。弥生さん、ちょっと吸って。」 弥生の煙草の先端が強く赤らんで真矢の煙草に火がつく。 2人並んで煙草を吸う。 弥生は酔いが覚めてきたことと、ニコチンとメンソールで頭が冴えたことで、自身の自制心の無さに呆れていた。 傷つきたくないために突き放すと決めて店に行き、思わせぶりにして嫌われて終わるつもりが、気づけば流されて、いや、自分で選んで家にあげている。どう振り返っても、止められない恋に振り回されていて、どう考えても真矢の好意を都合のいい方にしたがる自分に従っている。 弥生の葛藤などつゆ知らず、真矢が煙を吐き出し口を開く。 「ねえ、抱きたい。」 予想外の唐突な話に弥生は動揺する。 「な、にを」 「俺に本気になってよ。」 本気になったら、責任を取ってくれるんだろうか。責任って、なんだろうか。弥生は考えを放棄した。逃げたい。 「あ、はは。マヤくんやめてよ。酔ったおじさんをからかうなんて趣味が悪いよ。」 「おじさんって歳じゃないよ。それに弥生サン綺麗だし。俺、抱けるけど。」 至って冷静に真剣な真矢の瞳。その好意が憧れでもない恋情なのはもう否定する気はなかったが、それでも弥生は踏み切れなかった。 「そういう問題じゃないんだって、大人は。」 「どんな問題なの。」 「マヤくんみたいな未来のある若者は、こんなダメな大人とエッチしないで、未来ある愛する恋人とそういうことをするべきなんだよ。」 相手の心を否定するような酷い、尚且つ間抜けなセリフだ。真矢の手元の煙草が吸われずに灰になっていく。 「は?何未来あるとかないとかって。」 「だから、好きでもない人と」 「好きだよ。わかんない?」 弥生の手を掴み、真矢は自分の胸にあてる。切実という言葉は、今の真矢の表情のためにあるのかもしれない。 弥生は目を逸らし、空いた手で煙草を思い切り吸った。そして煙に乗せて吐き出す。 「…俺がどうかわかんないでしょ。」 無意識に声が小さくなる。 「好きでしょ」 「…………」 真矢の言葉に弥生は答えない。 「手も繋いでくれたし、家にあげて、さっきの煙草の火だって。」 「…っ…全部冗談だよ」 真矢はなぜか、弥生の伏せた瞼や震える指、もたれかかってきたソファでのことは本心なんだと確信していた。 それでも目をそらされると、胸の奥が切なさで握りつぶされそうになる。 「ずるいよ。」 「狡いんだよ、大人は。」 全部冗談だと言うくせに、弥生の表情は強ばり、突き放すことの躊躇が微かに感じられる。 ともあれもう二度と来ないであろうチャンスに真矢は振り切る他なかった。 「なら、ずるい大人には、罰があってもいいよね。純粋無垢な俺を騙した罰で抱かれてよ。」 決意するように真矢は煙草を吸い込み、煙を吐きつつサイドテーブルの灰皿でもみ消す。 「そ、うなるの?」 「なるよ。俺は弥生サンを好きで、犯したくなるほど絆されてんだから。」 弥生の肩を押さえると自分の方を向かせる。 「あ、えっと」 「誑かしたなりにセックスで応えて」 若さとは恐ろしいものだと弥生は怯えた。こちらの拒絶や虚勢をまるで無いものに取り払っていく。 「うそでしょ…」 「ホンキ。」 真矢は弥生の煙草も取り上げ、灰皿に沈めた。 「あっ、」 抗議の声をキスで塞ぐ。腰を抱き寄せて、右手は弥生の投げ出された手の指へ滑るように絡ませる。 舌で唇を割って入ると、弥生は言葉に反して舌を少し出して応えた。 弥生は空いた手で真矢の胸板を押して離す。 「ここ、ベランダだから、」 弥生の抵抗に、真矢は意地悪く笑い、耳元で囁く。 「中ならイイんだ。」 そして窓を開けて弥生を室内に入れる。 「変な言い方しないでよ」 「してないよ。期待してるの?」 後ろ手で窓とカーテンを閉めて弥生を抱き寄せる。 「期待なんかしてないよ。」 「してよ。」 立ったままのキス。真矢が弥生の腰と後頭部を両手でロックする。 角度を変えて何度もリップ音を執拗に鳴らし、頬や瞼へもキスを落としていく。 弥生の片足が圧を逃すように一歩後へ動くと、真矢は弥生を抱えてソファに座るよう下ろす。 「マヤくん、」 「弥生サン、お願い。シンヤって呼んで。」 シャワーと言いかけた弥生の言葉を真矢が制する。 「真矢くん…。」 弥生が初めて口にする真矢の本名。 真矢はソファに座らせた弥生の足元に跪く。 「弥生サン、俺、弥生サンが好きだよ。大事にしたい。一緒にいたい。触れたいし、触れられたい。それから、めちゃくちゃに抱きたい。好きなんだ。お願い、ダメならダメって、はっきり言って」 ストレートな言葉をこうも何度も言えるものなんだろうか。弥生は逃げ場を無くして観念するように答えた。 「シャワー、浴びてからじゃないとダメ…」 真矢は嬉しそうに笑って頷く。 「真矢くん、先浴びて。タオルとか出すから。」 「わかった、」

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