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第4話 慈愛の章

 北の帝国の皇帝はかつて、人をあっと驚かせるような思い切った着想と決断で国を動かすことで知られていたが、そのような思い切った方法は、単なる思いつきから生まれたものではなかった。皇帝は若い頃から、周囲が知っているより計略を好む人物だった。他人の計略にも敏感であり、彼の政治は綿密な観察と推論に基づいたものだった。  しかし皇位について三十年経った近頃、皇帝は政務に倦んでいた。帝国はいまだに拡大をつづけ、あらたに帝国の版図になった地域の支配や南方との争い、周辺諸国との調整など、為政者の仕事は多かった。現在の正妃とのあいだに最初に生まれた息子を跡継ぎとしたものの、皇太子は軽薄でふかく物事を考えることをせず、ときにひどく愚かな一面を見せた。  正妃の一族は、娘が皇帝に嫁して妃となるまで、帝国でさほど重要な存在ではなかった。正妃が皇子を三人生んだあとは増長する一方で、皇帝自身に対しても不遜なふるまいをみせることがあった。  もちろん皇帝は、絶対的な権力で彼らを叩き潰すことができたが、近頃はそれにも倦みつつあったのだ。帝国の長い冬は活力にあふれた為政者ですらときに気鬱にさせる。皇帝が白雪と遊戯盤の話を聞いたのはそんな折であった。  皇帝は、性愛の対象として男子をことさら好んだわけではなかった。その一方で、後宮に差し出された男子は正妃をあまり気にせずに訪れることのできる相手でもあった。跡継ぎを産む野心を持ちようがなかったからである。だから皇帝はときおり、男子に寵愛を与えることもあった――特に正妃が身ごもっていたあいだは。  とはいえ、最初に白雪のもとを訪れたとき、皇帝は夜伽ではなく遊戯盤による余興を楽しむだけのつもりだった。皇帝自身も遊戯盤の強い指し手として知られていたし、白雪の美しさは男とはいえ記憶に残るものだった。美しい指し手と一度対局するのも悪くなかろうと思ったのである。  白雪王子は雪の結晶模様が刺繍された長衣で皇帝を迎えた。夜伽は所望されないとの先触れがあったので、肌の透ける薄衣は着なかったが、長衣の下の準備は怠らなかった。  皇帝は長椅子に、白雪は足台に座り、盤をはさんで最初の対局がはじまると、白雪が慎重に駒を動かすなか、皇帝はその隙をついて勝った。次の対局はすこし長引き、皇帝は接戦の末に勝った。しかし三度目の対局の途中、皇帝は白雪が指す手をいぶかしく思った。白の駒を彼が置こうとしたとき、皇帝は指をつきつけてそれを止めたのである。  白雪は驚いたように駒を落とし、盤上にあった他の駒もばらばらと倒れた。 「申し訳ございません」  皇帝は白雪の謝罪を受け入れず、鋭くいった。 「そなたいま、わざと悪手を打とうとしたな」  白雪はしずかに皇帝を見返したが、肩で切りそろえられた黒髪がわずかに揺れた。 「とんでもございませぬ。わたくしはおのずから可能な手を打つのみでございます」 「ちがうな」皇帝は憤然としていった。「私を手加減せねばならぬ相手と思っておるのか」  皇帝の怒りを目の当たりにしても白雪は動じなかった。 「まさか。このままでは陛下が勝つことは決まっておりました」 「決まっていただと? 」 「わたくしに陛下の駒をいただけませぬか」  白雪の手はすばやく動き、皇帝の前にたちまちばらばらになる前の盤面があらわれた。白雪は黒の駒をとり、二手、三手と動かした。皇帝は驚きに目をみはった。みずからは気づいていなかった勝機があらわれたからである。 「ではそなたは、私に勝てないと見たゆえに、あの駒を置こうとしたのか?」 「実際のところ」白雪はおだやかな微笑みをうかべていった。「あの局面で白に可能な最善の手でありました。それに陛下は勝機に気づいておられなかった」 「私が怒らなければどうしていた?」 「あの駒を置くことで陛下を攪乱し、対局を長引かせ、わたくしに有利な局面を作り出そうとしたでしょう」 「そうすればそなたは勝てたのか?」 「いえ、それはどうでしょう。陛下はたいへん強い指し手でおられますゆえ」  白雪の眸が皇帝のそれとあった。皇帝が強くみつめつづけても白雪は目をそらさなかったが、赤い唇だけがかすかにひらいた。皇帝は手をのばし、人差し指の先で白雪の唇に触れた。乾いていて、紅も塗られていない。皇帝はそのまま指を滑らせた。吸いつくようにきめ細やかな肌を、線を引くようにまっすぐ指でなぞる。白雪はじっとしていた。思わず強く顎をつかむと白雪はあわてたように身じろぎし、肘がいくつかの駒を床に落とした。今回、白雪は無言だった。皇帝が唇を重ねたために話すことができなかったのだ。  腕にひきよせた白雪の肌からは林檎と馴染みのないスパイスの香りが漂った。背中に手を回せば、しなやかな痩身のしたに女子とはちがう筋肉があるのが感じられたが、皇帝にはむしろ好ましいことだった。  重なった唇の、わずかにひらいたところから舌を差し入れると、いったん怯えたように奥へ退いたが、やがて皇帝の舌と絡んで、情熱的な口づけになった。白雪の方からも舌をおしつけ、絡ませてくる。そのうち単なる欲望ともちがう、久しく感じなかった甘い衝動が生まれて、皇帝はさらにきつく白雪の舌を吸った。ようやく唇を離したときには白雪の首も頬も紅く染まり、腕の中で喘ぐような吐息をついている。  白い長衣の前をあけると、ぷくりとふくらんだ薔薇色の尖りがあらわれた。舌で左右を順番に舐めころがし、あいた一方を指でくすぐると、白雪は自らの声を恐れるように喘ぎをこらえたが、体は耐えられないようにぴくんぴくんと震え、皇帝をさらに昂らせた。  申し訳程度に前を隠した下穿きをそのままに、皇帝は白雪の尻に手を這わせ、丸い双丘のあいだの蕾を指でおしひらく。そこにはすでに香油が塗りこめてあり、白雪は美しい眉をひそめただけで、従順に皇帝を受け入れたが、さらに蕾の奥をさぐるとあっ……と小さく声をあげた。  白雪の、はじめて男を受け入れるような反応に皇帝は気をよくした。みずからの前をくつろげると長椅子に白雪の手をつかせ、背後から猛った雄を蕾に突き入れる。中の襞がうねるようにからみ、奥を突くと白雪は甘い声をあげて、下穿きをつけたまま前を濡らしたが、うかつな嬌声を発しないようにこらえているのがわかった。そう思ったとたんさらにそそられて、皇帝はこの美しい男をもっと啼かせようと思い決めた。  その夜、寝台で白雪をさらに抱き、皇帝は久しぶりに心の底からの満足をおぼえていた。白雪は皇帝に気づかせたのである。皇帝は政務に倦んでいたのではなく、ただ飢えていたのだと。  こうして白雪王子は皇帝陛下の寵愛を獲得した。  皇帝は連日王子のもとを訪れるうち、もっとよい区画へ王子を移したいと思うようになった。しかし白雪は猛烈に反対した。 「わたくしは小国の末子にすぎません。身の程をしらない場所にいれば、不都合がおきるだけです」  そして後宮と宮廷、後継者をめぐるあれこれに皇帝の注意を向けさせた。  白雪が拒否したのは、犬を飼っていたせいもあった。白雪の住まう区画には石壁に囲まれたささやかな庭があり、装飾の少ないその場所は犬を遊ばせるのにちょうど良かったのである。  季節がいくつか過ぎ、仔犬が凛々しい若犬に成長したころ、白雪は後宮にいながらにして帝国のさまざまな事情に通じるようになっていた。皇帝が白雪に後宮内部や外の官人との遊戯盤の対局をゆるしたので、宮廷内外や地方都市の状況など、さまざまな話を聞くことが可能になったのである。  夜になると皇帝もまた白雪を相手に遊戯盤に興じ、それから白雪を抱くのだった。皇帝は白雪だけでなく、白雪の犬も愛した。そして白雪の方も、しだいに皇帝を愛するようになったのである。  もっとも王子のその愛は、母国の騎士に対して白雪が抱いていたような、心の底からわきあがり、自分も相手も暖かく包もうとするような、安心感と信頼をもたらす愛ではなかった。どちらかといえば孤独をわかちあった同志に対して抱く友愛の情だった。広大な北の帝国を治める為政者は途方もない孤独を抱えていたのである。  白雪はできるだけ皇帝の助けになろうと心に決めた。  そうして数年が経った。  母国の王や、騎士たちへ白雪は定期的に手紙を書いたが、返事は白雪のもとに届かなかった。皇帝は白雪の母国に下賜品を送らせたが、礼状が届いても渡さなかったのだ。それでも白雪は手紙を書きつづけた。手紙は母国へ送る前に官人に検閲されたが、母国の慈愛の騎士は、剣の稽古のかたわら白雪に兵士が使う暗号と符牒を教えていたのである。  白雪は帝国のあちこちに憤怒、嫉妬、強欲、傲慢、暴食、色欲、怠惰という悪徳がのさばっているのをみてとり、そのことを暗号で手紙に書いた。また、皇帝には寛容、慈愛、分別、忠義、節制、純潔、勤勉という美徳――母国の騎士たちの美徳を身をもって示した。  白雪は後宮でひそかに慕われるようになった。官人や使用人、それに属国から召し上されて後宮で暮らす者たちも、皇太子を産んだという理由で好き勝手にふるまう正妃ではなく白雪を選んだのだ。  正妃が白雪王子に嫉妬し、憎むようになるのは、時間の問題だった。

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