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第5話 忠義の章

 北の帝国の正妃は、少女のころから一族のなかでとても軽んじられていた。とくに美しい容貌を持って生まれなかったというだけでなく、ひたいの生え際に星型のちいさな痣をもっていたためである。  これでは後宮に入れても皇帝のおぼえめでたくなれるのか、皇子を産めるのかと周囲は落胆し、父親も母親も痣のために少女をことあるごとに貶めた。しかしこの一族には女子が少なかったから、そうやって少女を侮辱する一方で、後宮で皇帝の寵愛を得ること、男子を産むことを強く要求したのである。  後宮へ召されるまで少女の味方は乳母とメイドだけだった。彼らは少女を励まし、役に立ちそうなことをいろいろと教えた。乳母は化粧で痣を隠す方法を教え、メイドはどんなふるまいが男の気をひくかを教えた。彼らはともに、競争相手となる他の少女たちをどうやって出し抜くかで知恵を絞った。後宮には絶世の美女と名高い者も多かったのである。しかしどんな美女も皇子は産んでいなかった。  少女は後宮で皇帝のおぼえめでたくなるだけでなく、皇子を産まなければならなかった。乳母はかつて北の帝国が征服した黒い森の出身者だった。黒い森には魔法使いがたくさん棲んでいた。彼らは人々の要望にこたえてまじないや薬草を調合するのだ。  乳母は少女のために黒い森の魔法使いを紹介し、少女は皇子を産むためのまじないを手に入れた。さらに少女の境遇に同情した魔法使いは、ひたいの痣を消す魔法もかけてくれた。  痣の消えた少女は鏡をみて、生まれ変わったように感じた。それまでの少女にはどこか暗い影があったが、その日を境に自信をもち、溌溂とふるまえるようになったのである。後宮で少女は皇帝の寵愛を得た。そしてついに皇子を産み、正妃の座についたのである。  魔法使いのまじないが本当に効いたのかはさだかではない。ともあれ、両親をはじめ一族は全員手のひらを返したように彼女を褒めたたえ、ちやほやするようになった。彼らは帝国内の重要な役職を手に入れ、黄金をたくわえた。  周囲に大事にされるようになって、正妃は変わった。贅沢を好み、驕りが生まれ、かつての自分のように、わずかな瑕疵のために不当に扱われている者を平気で虐げるようになったのである。  少女のころ親身になってくれた乳母やメイドは変わりようを悲しみ、忠告しようとしたが、逆に怒りをかって後宮から追放された。乳母はメイドを連れて黒い森へ帰った。  少女の頃からの味方を失っても、正妃は気にもとめなかった。もうひたいに痣はない。かつて必死で練習した化粧は、彼女をさらに美しくみせた。傲慢にふるまっても誰も止める者はいない。なにしろ皇帝に皇子をもたらしたのは彼女だけなのだ。  白雪王子が後宮にやってきたのは、そんなときであった。  最初のうち、正妃は白雪を警戒しただけで恐れはしなかった。たしかに美しくはあるが、しょせん男子である。それに最近の皇帝は、美姫とほまれの高い子女が後宮に差し出されてもとくに寵愛をあたえることはなかった。  ところが白雪はちがったのである。  正妃は白雪に嫉妬したが、それは皇帝の愛が原因ではなかった。正妃はそもそも皇帝を愛していなかったからである。正妃の嫉妬の原因は、白雪が美しさ以外の点でも、後宮や宮廷の者たちに求められていることにあった。  皇帝の寵愛をうけるようになっても、白雪は後宮の片隅にくらし、変わったことといえば護衛が強化された程度だった。表向きは誰に命令する力もなかったし、正妃のように権力を求める一族もいない。  ところが、白雪王子は誰にも命令できないかわり、自分がこれと見込んだ者には「頼む」のだった。そして頼まれた者はみな、白雪の頼みをきくのである。  おまけに彼らは白雪が願った以上のことも進んでやろうとする。白雪が頼みごとをするのは、役割はちがえども優秀な者ばかりだった。そのせいかやがて、白雪に頼りにされることを望む官人まであらわれる始末だ。  正妃の嫉妬はやがて、もっと現実的な不安に変わっていった。これほどまでに皇帝の寵愛が白雪に傾き、白雪王子を支持する者が増えたいま、自分の子は無事に次の皇帝となれるだろうか。つい先日も皇帝は白雪のよけいな一言をききいれて、正妃の一族の事業に苦言を呈したばかりだった。皇太子はこのままでも、白雪に味方する官人が白雪を摂政にするようたくらまないともかぎらない。そうすれば正妃の一族の事業はさらによけいな干渉を受けるだろう。  あるいは白雪自身が皇帝の継承者を望んでいればどうか。そう、考えてみれば白雪の生まれた王国は南の帝国とも国境を接している。白雪がもし南の帝国の手の者であったらどうか。わが帝国の皇帝を骨抜きにするためにあらわれたのだとしたら……。  正妃の不安はやがて妄想の域に達した。そして、白雪王子を後宮から排除しようと思い決めたのだった。  白雪は正妃が何かを企んでいることをうっすらと察していた。  王子は母国へ向けて、暗号を使った手紙を書きつづけていた。これほど皇帝の寵愛を受けても、後宮の規則で母国からの返事は白雪には与えられなかった。  白雪が頼めば誰かが規則を破ってくれたかもしれない。しかし、白雪は自分を慕う者をそんな風に使うことをよいと思わなかった。母国の騎士たちへ書いた手紙の内容が彼らに伝わっているのかどうか、まるでわからないまま、白雪は手紙を書きつづけた。  一方、正妃は白雪が気に入らないとあからさまに示すようになった。後宮のほとんどは白雪に同情していたから、正妃のささいな嫌がらせは白雪に届く前に阻止された。皇帝の寵愛は圧倒的に白雪に向けられていたし、白雪は自分に味方する者が多いのも知っていた。  白雪としては、おなじ後宮にくらす者として、正妃に同情するところもあったのだ。正妃の一族は彼女よりずっと悪辣でがめつく、さまざまな悪徳をなしていた。それに後宮の孤独は人間を蝕む。  それでも白雪は多少の不安を感じていた。日に日に正妃の感情が昂っていくのがわかったからである。  皇帝に直接この不安を訴えることはできなかった。たとえ愛情がなくとも皇帝は皇太子を産んだ妃を邪険にすることはないだろう。白雪が皇帝を愛するのも、彼がそのような人間だからだ。  それに実際のところ、白雪は後宮でよく守られていたのである。正妃は白雪を排除するために頭をひねり、いくつかは実行に移されたが、どれもうまくいかなかった。食事に毒を入れようとしても誰かが途中で捨ててしまうし、人を雇って白雪を襲わせようとしても、護衛や護衛でもない者たちが進んで彼をかばう。白雪の犬も厄介だった。主人の身の危険を感じるのか、正妃に対して歯を剥きだすのである。  他人に命じた襲撃や毒殺の試みが失敗したあと、正妃はついにみずからの手を汚すことにした。そして遠い昔自分を助けてくれた、黒い森に棲む魔法使いのことを思い出した。  その老婆はぎっしりと林檎を詰めた籠をもち、白雪の部屋からほど近い後宮の庭をよろよろと歩いていた。黒い長い裾と袖、フードのついた長衣で体は隠れていたが、曲がった腰や荷物の重さに呻く様子から、相当な年寄りなのは明らかだった。厨房に林檎を届ける途中で迷ったのだろうと白雪は思った。 「大丈夫ですか。その籠、わたくしが持ちましょう」  老婆は白雪に見下ろされてよろよろと顔をあげた。 「親切な方じゃ。だがこれはわしの仕事。人に任せるわけにはいかんのです」  老婆は皺だらけで、歯も白目も黄ばんでいた。正妃の化粧の技術は後宮に入ってからも進歩し続けていたのだ。  白雪王子は目の前にいるのが正妃だとは思いもしなかった。また、自分の仕事を自分で成し遂げようとする人間によけいな手助けをすることで、相手の誇りを傷つけるのもわかっていた。それなら厨房まで案内しよう――そういいかけたとき、老婆がうっと呻き、籠を落とした。  林檎が庭に転がった。老婆は大袈裟な呻き声をあげ、白雪の護衛の者たちもやってきた。籠はすぐにひろいあげられ、白雪は率先して林檎を拾うのを手伝った。 「ほんとうに親切な方じゃ、どうもありがとう、ありがとう」  籠にすべての林檎が拾われると老婆は白雪に深く頭をさげた。そして黒い長衣の胸元に手をつっこんだが、長い袖のおかげで老婆の指先しかみえなかった。 「この林檎は特別に美しい。自分のためにとっておいたのじゃが」  老婆は真紅の林檎を白雪に押しつけた。 「お礼にもらってくださらんか」  白雪はあわてて首をふった。 「まさか、もらえません。当然のことをしただけですから」  しかし老婆はひかず、林檎を白雪の手に持たせた。 「この色をごらん、あんたの唇とおなじ色をしている。これはあんたのものだ」  断ると気を悪くしそうだ。そう思った白雪は林檎をうけとり、持ち帰った。  誰と会う予定もない午後だった。白雪は犬をかたわらにおいて読書をはじめた。三時のお茶の時間がきて、白雪は空腹を感じた。  老婆がくれた林檎がテーブルに置かれていた。  白雪は林檎をとりあげ、しげしげと眺めた。艶やかな真紅の皮は宝石のような色あいで、新鮮だが懐かしいような甘い香りを放っている。美味しそうだった。  白雪はハンカチで林檎を磨き、歯を立てた。みずみずしい果実が舌に触れる。懐かしい味だと白雪は思った。少年の頃、故郷で食べた林檎のようだ。  次の瞬間、喉が痙攣し、白雪の呼吸を奪った。  王子はその場にくずおれた。犬のぬくもりを感じたのが最後だった。  白雪王子が亡くなっているのが発見されたのは、それからまもなくのことである。  犬がそばで鳴いていた。王子はまるで眠っているかのようだったが、呼吸はとまり、心臓も動かない。  皇帝は悲しみにくれ、白雪を慕う後宮の者たちもふかく王子を悼んだ。皇帝は硝子の棺に白雪の遺体をおさめ、一年中解けない氷でつくられた宮殿の墓所へ安置した。自分が生きているあいだは、白雪の顔を見ることができるようにと考えたのだ。  しかしまもなく王子の母国から、遺体を迎えに来るとの知らせがきた。  皇帝は反対しようとしたが、遺体を引き渡すのは後宮の規則であった。正妃もそうするべきだと主張した。白雪王子は、皇帝がこういったことで規則をまげるのを好むとは思えない、と彼女はいった。生前あのかたは、私の一族がささいな規則違反をしたと、よく告げ口したではありませんか。  実は正妃は林檎を探していたのである。自身が老婆に化け、白雪が食べた林檎の残りだ。あの林檎を王妃に売った黒い森の魔法使いは、一口で十分だと請け負った。どこかに残りがあるはずで、みつかれば誰がこれを持ちこんだのか、という話になる。しかし白雪が齧った残りの林檎は、後宮のどこにもみつからなかった。   白雪の遺体を迎えに来たのは、七人の騎士であった。  彼らは沈鬱な表情で硝子の棺を馬車にのせた。白雪の犬が馬車を追うように飛び出し、騎士のひとりにまとわりついた。 「その犬も連れて帰るがよい」  皇帝はいった。白雪とすごしたあらゆる記憶が頭をよぎり、悲しみから解放される日がいつになるのか、皇帝にはわからなかった。この犬の姿をみて声をきくたびに白雪のことを思い出してしまう。もはや棺もないのに、そんなことは耐えがたかった。 「白雪が連れてきたものだ。共に帰るとよい」  犬は皇帝に向かって尻尾をふった。騎士たちはうやうやしく礼をして、北の帝国をあとにした。  棺をのせた馬車は忠義の騎士が御した。犬は彼の隣に座っていた。国境を越えて森に入るころ、夜になった。狼の鳴き声が遠く響く。七人の騎士は森の猟小屋へ馬車をつけ、硝子の棺をおろした。  節制の騎士が透きとおった重い蓋をあけた。白雪王子は眠っているかのように穏やかな表情だった。騎士たちが知る十八歳の王子より、ずっと美しくなっていた。  しかし体は冷たく、人形のように硬直している。 「これでよかったのだろうか」節制の騎士はいった。 「王子は目をさますのか?」忠義の騎士もいった。  ほかの騎士は黙ったまま、白雪王子をみつめていた。  寛容の騎士が銀の枠を嵌めた箱を棺の横においた。蓋をあけ、黒いびろうどから青い硝子瓶を取り出す。 「犬よ、林檎を出しなさい」  犬が吠えた。一度、二度、三度。さらに奇妙な唸り声をあげ、顎を大きくひらいた。  小屋の床に真紅の林檎が転がり落ちた。白雪が齧った歯型もそのままの林檎だが、犬の口から飛び出した瞬間は宝石のように輝いて見えた。白雪の十八歳の誕生日、忠義の騎士が贈った仔犬に、寛容の騎士は魔法をかけていたのだった。  魔法は他にもあった。寛容の騎士は棺に横たわった白雪の胸に林檎をのせ、硝子瓶の中身をふりかけた。真っ白の灰であった。この七人と白雪王子が母国を発つまえに行った、守護の儀式の灰であった。  寛容の騎士はゆっくりと灰に息をふきかけた。灰は白く林檎を覆い、液体のように林檎から流れ、白雪の胸まで垂れた。七人の騎士が見守る中、白雪の胸が一度動いた。もう一度。  紅い唇が動く。王子は横たわったままくるしい咳を繰り返し、しまいに林檎のかけらを吐きだした。  七人の騎士は、王子が後宮で陥った危機を王子より理解していたのだ。正妃は何としても王子を殺すつもりだと。  殺される前に、王子を取り戻さなければならない。  正妃が黒い森の魔法使いをさがしたとき、毒林檎と偽って王妃に林檎を売ったのは、寛容の騎士だった。毒林檎ではなく、七人の儀式でつくりだした守護の林檎をあたえたのである。 「この魔法は王子の時を止める」と寛容の騎士はいった。 「王子は眠りつづけるのか?」純潔の騎士が不安な声を発した。 「いや、目覚めるはずだ。我らの息吹によって」  七人は顔をみあわせた。それから棺にかがみこみ、順に王子に口づけして、息をふきこんだ。純潔の騎士、寛容の騎士、分別の騎士、慈愛の騎士、忠義の騎士、節制の騎士、勤勉の騎士。王子の胸がゆっくりと規則正しく呼吸をはじめる。七人が固唾を呑んでみまもるなか、王子の目がついにひらいた。  ところが魔法は完全には解けなかったのである。  目覚めた白雪王子は、自分の名も、北の帝国の後宮で過ごした日々も、七人の騎士たちのことも、何ひとつ覚えていなかった。肌は血が通ったようなぬくもりをおびて柔らかくなったが、胸に耳をつけても心臓の音はきこえなかった。  寛容の騎士はもういちど魔法書を読み直した。七人の騎士の守護の魔法はいまだに王子を守っていたが、王子の体は時を止めたままであった。

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