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第6話 ウラシマさんと僕(1)
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その屋上には夜になるとベンチでくつろぐサラリーマンが現れる。そのことに僕はかなり前から気づいていた。
僕の勤務先は高層ビルの十一階だ。週に一度か二度、同僚のほとんどが帰宅してオフィスがまばらになったころ、僕は階段で九階へ降り、人目を気にしながらトイレに行くのが常だった。広い洗面所の奥の壁は足元以外はガラス張りで、夜景がよくみえる。一番近いのは向かいのしょぼいビルの屋上で、蛍光灯に白く照らされている。その下のベンチに決まって男がひとりいるのだ。たいていは缶コーヒーを片手にぼうっとしているのだった。
僕は自分とまったく関係のないその人物をどうしてはっきり覚えていたのか。答えははっきりしていた。同僚の眼を避けて九階のトイレにいる時間は僕にとって特別なものだったからだ。少なくともしばらくのあいだは。
しかしベンチのサラリーマンは、その特別な時間が終わったあとも、僕にとってけっして忘れられない男になった。
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「ここアジフライがいいんだよ、名物でさ」
屋上にいたサラリーマンはビールジョッキを片手にのほほんとした声でそんなことをいうと、僕にたずねもせずに「とりあえずモロキュウとアジフライと冷ややっこ」と注文する。二人掛けのテーブルで差し向かいになって「じゃ、まず飲みましょう。えっとその――お疲れさまです」とジョッキをあげる。
スピードと雰囲気に押されて僕はなんとなくジョッキをあげたものの「……お疲れさまって」と聞き返さずにはいられなかった。すると向かいの男はさらっとこういった。
「ほら、グーで人を殴ると疲れるから」
やっぱり見られていたのか。
「だからとりあえずお疲れさん」
まあいいや。やけくそになって僕はビールジョッキを相手と触れ合わせる。冷えたビールはうまかった。一気に三分の一を飲み干し、はあっと息をつく。
「ほら、うまいだろう」
向かいの男はそんなことをいったが、僕とちがってジョッキの中身はほとんど減っていない。一瞬臆したところに店員があらわれ「はい、モロキュウと冷ややっこでーす」とテーブルに並べていく。
「はいーどうもー」
男は呑気な声で店員に返事をして、取り皿と箸を僕のまえに配っている。三十代――はじめか半ばあたりだろうか。顔は可もなく不可もなくといった感じ、ごくごく平凡なサラリーマン。僕より背は低いが痩せてはおらず、といってもワイシャツの上からは太ってもみえない。もっともこのくらいの年齢だと服を脱げば腹が出ていたりするのはよくあることだが、などと考えたとたん、ひたいがカッと熱くなる。
きっとビールのせいだ。ノンケ相手にいったい何を考えてるんだ。だいたい僕はどうしてこんなところでビールなぞ飲んでいるのか。ゲイバーならともかく、友達でも同僚でもない人間とサシで飲んでるなんておかしな話だ。しかも会ったのはトイレときている。
そんなことを思いつつ勢いのままに傾けたジョッキはほとんど空になっていて、それをみた男はちょっと眼を見開いた。
「早いな~もう一杯いく?」
反射的に僕はうなずいてしまい、すると男はさっと手をあげて店員を呼ぶ。流れでまた生ビール、二杯目を注文するのと同時に揚げたてのアジフライがやってきた。大盛りキャベツとタルタルソースがついている。一気に飲んだビールのせいか、さっきの興奮を引きずっているせいか、フライの金色のコロモがキラキラしている。うまそうだった。
「どうぞどうぞ」
男はフライを一枚自分の取り皿にのせ、スプーンでタルタルソースをすくっている。
「喧嘩なんかすると無駄に疲れるからな。栄養補給だ栄養補給。なかなかいけるでしょう」
「たしかに。美味しい」
「この店昔からあるんだけど、知ってた?」
会社のあるオフィスビルのすぐ近く、路地に入ったところにのれんをかけている店だ。奥行きだけがやたらと長い、古びた小料理屋か定食屋といった雰囲気で、席はカウンターと二人掛けのテーブルだけ、テーブルにいるのも一人客ばかり。年齢層は少し高めだ。
「いや。居酒屋にはあまり行かないので」
そう僕は答えた。仕事の都合で待ち合わせをするのはカフェチェーンだし、飲みにいくのは決まったバーがほとんどだ。
「そうか~。たしかにそんな感じじゃないもんな」
のんびりした口調が引っかかったのか、僕は思わず「そんな感じって?」と突っこんでいた。
「ごめん、悪い意味じゃないんだ。なんていうの、ドラマに出てきそうな洒落たバーが似合いそうだからさ。なにせ――」
と、男は先を続けかけてやめた。半分まで空になった僕のビールジョッキをみて「あー」と曖昧な声を出す。「で、どうしたらいいかわからなくて誘っちゃったけど、よかった?」
いったい何なんだこの人。僕は呆れて言葉をさがしたが、そのときふと、ついさっきまで襲われていた激しい怒り――ほとんど人生初と思うくらいの怒りが自分の中から消えているのに気づいた。元上司(または元恋人または元セフレまたは元不倫相手)と口論のあげくグーパンを食らわせた時の嫌な気分、うっかりゴキブリを踏みつけてしかも逃げられたときのような嫌な気分は、いつのまにかビールの泡とアジフライに取って代わっている。
きっかけは間違いなく眼の前でビールをちびちび飲んでいる男のせいだった。彼はトイレに駆けつけてくると、僕をみたとたん頭をかきながらこういったのだ。
「あ――なんか、大変そうだけど。とりあえずビールとかどう?」
は? と僕は思った。とりあえずビールって、こんなときいうセリフか? なんなんだこの人?
「ビール?」
僕はオウム返しに口に出した。そういえば前に生ビールを飲んだのはいつだろう、ふいにそんなことを考えた。とたんに男の誘いがものすごく魅力的に思えてきた。冷たい金色の液体、白い泡、冷えたジョッキ。
悪くない。
「ビールか。ビール――どこかいいところ、知ってます?」
男はびっくりしたように眼を見開いた。
「ほんとに行く?」
これが、僕が「ウラシマさん」とつきあうようになったきっかけである。
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