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第9話 王子様と俺のさらなる展開(2)

 その日はただの暑気払い、になるはずだったのだ。  その日俺は約束通り王子様と並んで彼のマンションへ向かっていた。空はまだ夕方の気配を残してうっすら明るい。王子様の住居は以前俺がタクシーで連れて帰ったマンションである。地名だけで家賃の高さがわかる地区にどかんと建つ高層マンションのひとつ。足元には坂道のあいだに寺が点在し、古い石塀からこぼれる緑には意外なほど風情がある。  最近なんとなく知ったのは(名刺をもらったわけでもないのであくまでもなんとなくだが)王子様は「二十代で年収が大台に乗りますよ」といわれるタイプの会社、いわゆるコンサルの社員らしいということだ。なるほど、外見も経歴も収入も一直線。遊園地のちゃちな迷路みたいにジグザグの俺とは天と地の差だ。  ふつうなら何の接点もないはずの俺たちが宅飲みにGOとはちょっとおかしい。しかし正直いうと俺はこの状況をけっこう楽しんでいた。人生、たまには意外なことが起きる方がいいと思う。酒もつまみもありますからという王子様に「あとで割り勘にしましょう」と俺はいう。  王子様への口のききかたが俺はいまひとつ定まらない。何せ相手は王子様だし、年下でも赤の他人だし、丁寧に話してくるから俺も丁寧に返すべきだと頭では考えるのだが、ときおり妙に可愛くみえるときがあって、つい言葉が崩れてしまう。大学の後輩や非実在の弟のような存在に思えるのだ。  要するに俺は油断していたのだ。思いがけないところから知り合いができて――この年齢になると仕事とも家族とも無縁なただの友人なんて、めったにできるもんじゃない――なんとなくいい気持ちだったから。  王子様のマンションは天井が高く、インテリアもほどほどに高級で、かつ整理整頓されていた。入ったとたんにロボット掃除機がサーっと視界を横切った。さすが王子様。俺のアパートでこいつを飼おうと思ったら、その前にまず俺が床掃除をしなければならないだろう。大画面の液晶TVの前にはでっかいソファが鎮座している。 「へえ、住宅展示場みたいだ」  俺は思わずそういった。 「住宅展示場?」 「あ、悪い。褒めてるんだよ。住宅展示場って行ったことない?」  「ないです」 「そうか。俺には絶対建てられそうにない広い家が並んでる。家なんか建てる気がなければ楽しいところで」 「建てる気があったら楽しくないんですか」  口がすべったと思った。俺は苦笑した。 「そりゃ、予算も土地も住む人間も自由なら楽しいだろうけどね。手伝います」 「あ、大丈夫ですよ。ビールとウイスキーとワインのどれにします? それいつですか?」 「いつって」 「家ですよ」  話を変えようという俺の空気を王子様はまったく読んでくれなかった。俺は彼のさしだすグラスをうけとり、ウイスキーとソーダを適当にまぜる。 「たいした話じゃないですよ。別れちゃった人とね」 「ウラシマさん、結婚してたんですか?」 「いやいや、結局そこまで行かなかった。二世帯住宅がどうとかいってたんだけど、俺の仕事とか実家とか、いろいろもめてね。そのうちダメになっちゃって」 「ダメに」 「そ、全部。すべては水に流れましたとさ。俺の話はいいから何か見よう」  王子様は俺と並んでソファに座り、リモコンを操作した。彼の膝と俺の膝の間隔は三十センチ。TVは大画面だしソファは長いんだからもっと離れてもいいように思うのだが、エアコンも効いているし暑苦しくはない。久しぶりに飲んだウイスキーはうまかった。ソーダで割るのがもったいないくらいだ。ビールを外で飲まないというのも道理だなあ、と俺は納得する。  俺と王子様の応援するチームは今季も鳴かず飛ばずである。そんなチームを応援して何がいいのかという向きもあろうが、べつにいいのだ。そもそも野球とは理屈とデータ分析のスポーツであり、他の野蛮なスポーツとは異なるのである……などという与太話で盛り上がったのは、酒だけでなく宅飲みの気安さもあったにちがいない。  うっかり住宅展示場みたいな部屋といってしまったが、王子様のリビングは居心地がよかった。ふだんとちがう酔い方――そもそも俺は酔った自覚をもつことがほとんどないのだが――をしたのはそのせいだったのか。 「これからどうしたもんかなってのは、たまに思わんでもないんだが、社長には拾ってくれた恩もあるし、いまさら転職ってもなあ」  気がつくと俺は愚痴めいたことを喋っている。王子様は長い足を組み、すぐ横で格好よく座っている。 「ウラシマさんって何歳なんですか」 「俺? 三十九」 「ええ?」  王子様は愕然とした表情になった。 「もっと――下だと思ってました」 「あーよくいわれるんだよねえ」  俺は苦しまぎれに頭をかく。 「フラフラしてた年数が長いんでちゃんと年をとれてない」 「何やってたんですか」 「いろいろ。イベント運営したり、海外行ったり、大学入り直したり」 「大学?」  俺は王子様の質問をかわそうとしたが、酔いもあってか適当に濁すのが面倒になっていた。古い友人には俺のような経歴の連中は少なくない。だが時には俺を完全に異物とみなす人たちもいて、脳天気な出たとこ勝負が身上の俺も数年前のごたごたはいささか堪えたのだった。思い出さないようにしていた昔の女の顔が浮かんできて、サーっと正気が戻ってくる。おっとこれはまずい。 「それから誰とも付き合ってないんですか?」 「まあねえ」俺は知らないうちにため息を吐いている。 「いまさら婚活したってな……若い子がいいなんて思わないけどさ……なんていうか……デートとか結婚とかいう話になったら、どうしてもやらざるをえないのが」 「何を?」 「その、シモの方だよ」 「? ウラシマさん介護が必要なんですか?」  俺は吹き出した。 「ああいや、ごめん。そうじゃなくて、俺アレなんだ、たぶんできないんだ」 「……」 「プレッシャー強すぎて勃たなくなってさ」  王子様は無言だ。俺は立ち上がった。 「トイレ借りていい?」 「廊下出て右です」 「サンキュ」  トイレもその横の風呂も広くてキレイだった。王子様は掃除好きなのか、掃除が好きな女の子――はいないんだった、と俺はまた思い出して苦笑する。しゃれたデザインの洗面台で俺は顔に水をかけた。鏡の前には髭剃りローションや洗口剤の他に見慣れないボトルが何本も立っている。このごろ流行りの男性用化粧品だろうか。  気配がして顔をあげると、鏡に王子様が映っていた。洗面所の敷居に立って腕を組んでいる。 「大丈夫ですか?」 「ああ? うん、悪いな。辛気臭い話して」 「ダメっていう話ですけど」 「いやだからいいよそれは」俺は笑った。「戻って飲もう」  王子様は話を聞いているのかいないのか、戸口をあいかわらずふさいだままだ。 「ほんとにダメなんですか?」という。 「何が」 「セックス」 「あー」俺は口をあけたりしめたりした。イケメンの口からズバリこの言葉をきくと、バズーカ砲を打たれた気分になる。 「知らんけど、無理かも。一生」  ハハハっと笑って、だから全部冗談みたいなもんだからといいたかったのだが、王子様は「ほんとに?」とまた聞いてくる。眼が怖かった。真顔もいいとこだ。 「それ単に、前の人がダメだっただけかもしれないでしょう」 「いやもちろん、その可能性はありますけどね……」  けどね……とこだまを心の中に響かせながら俺はいう。 「そんなに好きだったんだ」 「いや、そういうわけでもなくて」  俺は言い訳のように呟いた。あの手の感情的な経験というのは度を超すと好きとか嫌いとかを超えるのである、といいたかったのだが、うまくいえなかった。 「でも勃たないってだけなら、単にそれだけの経験がないだけかもしれないですよ」 「経験」 「今までもほんとに気持ちよくなったこと、ないんでしょう。単に射精できたってだけで」  おいおい王子様、頼むから射精とかいうな! 俺はそう叫びたくなったが、ふと好奇心をそそられた。 「あのさ、そっちは経験豊富みたいだけど、そんなにちがうもの?」 「僕は男しか知りませんけどね」 「あっ――いや、その――」 「気持ちよくなりたいですか?」  いつの間にか鼻先十センチのところにあるイケメンの顔圧がすごかった。俺は無意識にこくっとうなずいてしまう――しまったのだと思う。  おかしな話だが、自分の行動の認識が実際の行動より何秒か遅れてやってくる感じだったのだ。 「――そんなにいいものかよ」  思わず漏れた言葉は多少反抗的だったかもしれない。 「ウラシマさん、僕ね、キスがすごくうまいんですよ」  はい? そう思ったとき王子様の顔が視界いっぱいに広がって、唇がやわらかいものでふさがれた。

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