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後日談 バレンタインハック
王子様に就職先がきまったと話したのは、先週の土曜日のことである。
「よかったですね」
王子様は素っ気なく答えたが、その時の俺は大袈裟な反応など期待していなかった。ただ、昨年末に俺が失業した事情を知っているのは彼しかいなかったから、報告すべきだと思っただけだ。
しかし王子様はお気に召さなかったらしい。きっとタイミングが悪かった。
「あのね、ウラシマさん、どうしていま話すんです?」
冷たい声とともに腰をもちあげられ、すると尻の中をぐるんと何かが動く。俺はヒッと呻いた。
「え、だってぇ……忘れそうだったから……」
「だから、僕にこんなことされてる最中にする話ですか? 集中が足りませんよ」
「えっあっそれは――いま思い出したからぁ……あっ」
「こんなにビクビクさせてるくせによくそんな余裕がありますね」
「あっごめんなさいっゆるしてっお―――」
俺は王子様、と口走りかけた口をなんとかつぐむ。たしかにこんな姿勢で(俺はベッドにあおむけになり、足をM字に広げている)尻にいろいろ突っ込まれている(さっきまでは王子様が持っている玩具で、いまは王子様自身)ときに報告することではないかもしれない。でもほら、思い出したらすぐに話しておきたいことってあるじゃないですか。
「ウラシマさんって、僕にいじめられるのがほんとうに好きなんですね」
「そ、そんなこと……」
「生意気ですよ。ウラシマさんのくせに」
まったく筋が通らないが、相手は王子様だから仕方ない。ベッドの上では容赦がないのだ。俺は奥を突かれるたびに全身をヒクヒクさせているのに、王子様は容赦なく前の方もしごきあげる。あっ――やめて、イク瞬間に奥をそんなにされちゃ、あっ、あっ、あっ――
ぼんやりした頭で目をあけると王子様の顔が俺のすぐ上にみえる。きゅっと閉じたまぶたやひそめた眉は、なんというか、とても綺麗だ。
突然俺は妙な気分になる。王子様は眉目秀麗だ。しかしそれだけじゃなく、最近の俺の視界には、王子様が割り増しで良くみえるフィルターがかかっているような気がする。
「よかったですね」
バスルームからあらわれた王子様は、シャンプーのいい匂いをさせながらさっきと同じことをいった。
「あ、うん?」
「転職ですよ。そういえば住むところはどうなったんですか?」
「引越ならきまったよ。木曜に移る」
とたんに王子様の眉がすっと寄った。眉目秀麗な男というのはどんな表情もさまになる。
困ったことに、出会った時(この場合は一方的な観察の印象というべきかもしれないが)に一度固まった印象というのはなかなか消えない。王子様には瀬名貴元 という名前があるのに、俺はいまだに彼のことを心の中で王子様と呼んでいる。
もちろん口に出すときはちゃんと名前(苗字)を呼ぶようにしているのだが、セックスの最中などは心の声がもれてしまうこともあり、そうすると王子様はここぞとばかりにお仕置きにかかる。
自分にマゾッ気があるなんてこれまで思ったこともなかったのだが、王子様にお仕置きされるのは悪くない――というかぶっちゃけ気持ちいい。
こういうのを「新しい扉が開いた」と表現するのかもしれないが、近頃の俺はどうも、王子様にお仕置きされすぎている。
言い訳するならば、これは昨年十二月にとつぜん失業したせいだ。週に五日、どうかしたら六日、会社へ行き働いて深夜に帰って寝る、という生活が突然なくなった。その後住んでいたアパートを別のアクシデントで急遽出ることになったから、昼間はそれなりにやることがあったものの、それでも暇だったのである。
だから土曜の夜になるとつい、俺は誘われるままに王子様のマンションへ行き、新しい扉を開きつづけていた。こんなことでいいのだろうか。
時々俺はおそれおおくも、俺たちまるでつきあってるみたいだな、と思ってしまうことがある。
しかしそのとたん、勘ちがいするなよ――と、俺の中の俺がいう。コレをつきあってるなんていうのは王子様に失礼ってもんでしょう。つきあうってのはやっぱり、もっと何かあるでしょ? 少なくとも女の子とはそうだったよな? デートしたり、誕生日にプレゼントあげたりとか……。
飲んでエッチしてはい終わりってんじゃないでしょうが、つきあうってのは。
そうですよねえ。
でも、たとえばこのさき王子様に彼氏ができて、彼が俺に興味をなくしたら、俺はけっこうがっかりするんじゃないだろうか。
そんなことを考えたのが先週の土曜日だ。そして今日、二月十三日。王子様は俺の新居をしげしげと眺めている。
「これ。就職祝いと引っ越し祝いです」
「お、ありがとう」
俺はありがたく紙袋を受け取った。中にはふたつの箱があった。ひとつは酒にちがいない。もうひとつはなんだろう。引っ越したのが木曜日なので、新しい住まいはまだ雑然としているが、日用品は揃っている。王子様は物珍しそうに部屋を見渡している。
「見せてもらっていいですか?」
「ああ」
「そこ、お寺ですよね。この建物って寺の一部なんですか?」
新居はちょいと珍しい建物だ。寺の裏手にあって、俺が借りた部屋の外は境内への通用口と住職の住まいに面している。
「長屋門っていうらしい。そんな古い建物でもないらしいんだが、昔は手伝いの人が住んでいたり、倉庫に使っていたそうだ。貸すつもりはなかったというんだが、空けておくとまずい事情があるとかで借りられることになった」
「保証人ってどうにかなったんですか」
「どうにかしたよ。つてを頼ってね」
「どうしてこんな変わったところにばかり住むんです?」
「そんなことないだろう。前のアパートだって、古くてシロアリが出ただけだ」
王子様は疑わしそうな表情で新居の検分を終え、引越のついでに買い替えたソファに座った。
「住所が寺になってるから、いよいよ出家したのかと思いました」
「無理無理。煩悩がありすぎる」
王子様の長い足を見下ろしながら俺はふと思い出す。そういえば、努力しても勃たなくなっていたころは、俺の煩悩も種切れかと思っていたんじゃなかったっけ。最近はどうも……それどころじゃない感じだが。
「どうしました?」
王子様が怪訝な顔つきでいった。
「あ、いや……これって酒?」
「ワインです」
「せっかくだからあけていいかな」
「もちろん」
差し入れの紙袋ごともちあげようとしたら、すばやくワインの箱を渡された。もうひとつの小さい箱はなんだろうかと思ったが、まず必要なのは栓抜きである。キッチンへ行ったついでに平たい箱を持って戻ると、王子様は目ざとく気がついて「それは?」と聞いてくる。
「チョコレート。コンビニで買っておいた」
「どうして?」
「美味そうだったから。最近のコンビニは馬鹿にしたもんじゃないんだろ」
これは事実だ――少なくとも俺の舌にとっては。
「チョコ、好きなんですか?」
「こういうタイプのチョコはね。自分ひとりで全部食って、怒られたことがある」
俺は立ったまま包装紙を剥がして箱をあけ、ワインの栓を抜いた。
「怒られたって、誰に」
「当時の女。でもさ、貰ったのは俺なんだからいいと思うだろ。あ、瀬名君は食べていいからね」
「それはどうも」
王子様がニヤッと笑った。何だか含むところのありそうな目つきだった。
「ウラシマさんがチョコ好きとは思いませんでしたけど、よかった。実は僕もとっておきのチョコレートを持ってきたんですよ。明日がバレンタインだから」
「え?」
固まってしまった俺を尻目に王子様は箱を開け、ハートのマークがついた焦げ茶色のボトルを取り出した。あろうことか俺の心臓は急にドキドキしはじめた。いくらバレンタインだからって。
「ウラシマさん、これ」
「はい?」
「チョコ味なんです」
「は、はい――」
俺は鼻先に突き出されたボトルのラベルを読んだ。
『ラブローション、温感チョコ味。舐めても安心!』
「バレンタイン限定発売なんですよ」
王子様はまたニヤッと笑った。やたらと綺麗な笑顔だ。手を引っ張られるまま、俺はソファに尻を落とした。
「このあとじっくり味見しましょう。チョコレート、好きなんですよね?」
は、はい。好きです。
口には出さなかったのに、王子様の目にはお見通しのような気がした。
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