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【第1部 書物の影で】12.クルト
実際のところ、それは偶然ではなかった。
なぜならクルトは探していたからだ。砂色の髪、暗い眸をした痩せた男。魔力の放射がなく、クルトが知るかぎり、自分が探知できない唯一の人間を。
発端は審判の塔の地下書庫だった。ヴェイユの次の講義までに必要な資料をさがして塔を訪れるのは二回目だが、今回クルトには求めるものがはっきりわかっていた。授業が進んで講義の意図がわかってきたせいもある。前回のような情けない敗退はないだろう。
たしかに敗退はしなかった――しかし、思ったほど簡単ではなかった。
今回も書庫の広さと物量を甘く見ていたのだ。何しろ広すぎるし、深すぎる。おまけに書架の迷路をさまよっていると、好奇心を惹かれる題名につい眼がとまり、思わず広げて読みふけったりもする。おかげで予定の倍以上の時間がかかったが、とにかく今回、クルトは目的の資料をさがしあてることができた。
よくやったとクルトは満足し、書庫の壁の凹みにしつらえられた小机で写しを作った。つまらないことかもしれないが、自分がこれまでやれなかったことを達成したと思うといい気分だ。だいたい、こんな巨大な書庫に収蔵された内容を把握している人間などいるものだろうか。
そのとき前にここで会った職員がカリーの店の店主を「地下書庫の神様」と呼んでいたのを思い出した。いったい塔の職員から「神様」扱いされるとはどれほどのものなのか。
こんなときに彼に――ソールに教えを乞えるといいのに。昨日店に入れてもらったとき、この書庫の話をもっとくわしく聞いておくべきだった。
そう思ったとたん、クルトは急に店主に会いたくなった。
あの声を聞きたい。なめらかで流れるようで、興がのるとかなり早口になるが、かといって耳ざわりではない、抑えた声。
ときたま語尾に王都ではあまりきかない独特の抑揚がまじる。質問をするとクルトの眼をじっと見つめるから、集中して聞いているのがよくわかる。そしてあごに細い指をあて、しばし考えてから言葉をつむぎ、ときおりひたいに落ちる巻き毛をかきあげる。
昨夜はカリーの店で、どのくらいの時間だろうか、店主と話した。クルトが想像していたよりはるかにソールは博識だったが、それ以上に、学院の下手な教師よりも話がおもしろかった。単に書物から知識をためこんでいるだけではないのだ。これまでクルトがろくに気にしたこともないありふれた事柄について、思ってみなかったような考えがぽんぽん飛び出す。
ソールの話が興味をかきたてた、というだけでもない。クルト自身にも不思議だったのは、ソールとふたりでいるとき、彼から魔力を感じないことがむしろ心地よい、ということだった。クルトはいつになく落ち着いて眼の前の男をみつめることができ、そうやって誰かを眺めることそのものが快かった。
実をいえば、そんな経験はクルトにはほとんどなかった。魔力の強さゆえに、クルトは他人と共にいるとき、相手から放射される気分や自分へ向けられた感情、記憶の像を直接受け取ってしまうのが当たり前だった。日常的に防壁を張っているが、他人から放射されるそれは陽の光のようなもので、すべて防げるようなものではない。そのせいか、離れたところにいる相手と念話で話す方が楽だと感じる場合もあるくらいだ。
しかしソールからは一切そんな放射がなかった。ただその痩せた体の気配だけが眼の前にあり、そのことがクルトを安心させた。
もっと見ていたい。声を聞きたい。
そう思うと矢も楯もたまらなくなった。クルトは地下書庫を出ると城下へ向かった。商店街を抜けて路地を急ぎ、カリーの店の前へ来る。ひらいた書物のしるしを押す――が、扉は閉まっていた。
「開いてないよ」
横から声をかけられる。路地のベンチに腰を下ろして老婆がパイプをくゆらせていた。見覚えがあった。最初にクルトがこの店を飛び出してきたときに居合わせて、驚いていた人物だ。
「カリーの店主なら、昼にどこかへ行ったよ」
「どこへ行ったか知らないか?」
「さあ。こんな小さな店の主人ってのは忙しいものだからね」
「そうか。――ありがとう」
さて、出かけているのならいつかは帰ってくるだろうが、ずっとここで待っているわけにもいかない。
クルトの答えは単純だった。
探そう。
クルトはまず〈探知〉しようとした。得意技である。集中すればクルトはこの世界のはるか遠くまで、また深部まで〈視る〉ことができ、求める相手を探せるのだ。しかしカリーの店の前で、いざソールの存在を魔力で捉えようとして、自分が馬鹿なことをしているのに気がついた。
相手は魔力を放射していないのだ。だから〈視えない〉。
ソールはクルトが放つ魔力の光から抜けおちる、見えない穴のようなものだ。反射する影ができなければ、探知のしようがない。ではどうしたら探せるのだろう?
引き算すればいい。
ふと途方もない考えがクルトの頭をかすめた。すべての存在を探知して、この世界から引けば、彼が残るのではないか?
いや、とクルトは頭をふり、さすがに馬鹿げていると思い直した。普通に考えればいいのだ。昨夜ソールは何といったか。たしか眼鏡を調整してもらうといったはずだ。回路魔術の特注品だとも聞いたから、王城に行ったにちがいない。回路魔術師団の塔へ行ったのだ。
それならまた城へ戻ればいい。調整とやらにどのくらいの時間がかかるものか知らないが、ひょっとしたら、こちらが向かう途中で会えるかもしれない。もちろん師団の塔だけでなく他の場所へ寄った可能性だってあるが、どうせこちらも学院の寄宿舎へ戻るのだし、それなら方向は同じだ。
城へ戻ることになるのならもっと早く思いついて、地下書庫から師団の塔へ直接行けばいいようなものだったが、クルトはまったく意に介さなかった。道はいくつか前にあるが、ひとつを選んで進んでいけば、ときおりまわり道をすることになってもいつか目的地へたどりつけるだろう、くらいに思っている。おかげでアレクに単純だと笑われるわけだが、欲しいものがはっきりしているのなら当然のことだとクルトは思う。
そこで今度は来た道を逆にたどり、ふたたび王城へ向かった。昨日ソールが歩いた道をそのまま行くよう気をつけた。魔力の放射がないことにも気をつけなければならない。クルトの視界では、生き物はすべて魔力の放射でふちどられているが、いま彼が求めているのはそれと真逆の存在なのだ。
しかしあいにく、道で店主と行き会うことはなかった。城門にたどりついたのは早じまいの職人たちが門を出るころで、クルトはどの方向へ向かおうかと考えた。さっき頭をかすめた「引き算」のことを思った。城の一部のごく狭い範囲ならそれほど馬鹿げたことでもないかもしれない。
城門の中に入り、警備の騎士に会釈して、歩きながら両手を組む。うつむいて親指をみつめる。
即座に眼でみる視界とはべつの視野がクルトの中に円を描いた。
網をひろげるようにゆっくりと、その円を大きくのばしていく。道の上、建物の中……人、犬、猫……存在が円のなかに浮かび上がる。そこに見えないはずの人を見るには――
と、そのときクルトは強い困惑と焦りの感情をとらえた。どこかの誰かが保護欲とかすかな怒り、優越の感情をないまぜにして放射している。そいつは自分のすぐ隣へ、矢のようにはっきりとこの感情を向けているのに、向いているはずの対象が視えない。
いや、そんなはずはない。誰かいるはずだ。
しかもクルトはこの「視える」人物には覚えがあった。あいつだ。昨日のあの騎士だ。カリーの書店にもいた……。
――きっとあそこにソールがいるのだ。
早足どころか、ほとんど走っているようになった。向かう先には警備隊の詰所がある。突然叫ぶような声が耳に入る。「いいかげんそんな眼で僕をみるな。僕はそんなに哀れか? かわいそうか?」
「俺はそんなつもりじゃ……」
クルトは一瞬立ち止まり、そして前に出た。建物から走り出てくる書店主をみつめる。
みつけた、と思った。鼓動が速くなる。
――ここにいた。
「いったいどうした?」そういって痩せた男の腕をつかむ。
ソールはつんのめるようにして前にかがみながら立ち止まった。ひとみが驚いたようにみひらかれ、「クルト……」とつぶやく。
「きみとは、よく会うな」
名前を呼ばれてクルトの胸のうちがざわついた。馬鹿げている気がしたので探したとはいいたくなかったし、それよりも後ろにいる騎士が気になる。ソールの両肩をそっと押さえるようにして「何があった?」とささやく。
「……いや、たいしたことじゃないんだ。僕は店に帰らなくては――」
「それなら俺と行こう」クルトは急いでそういった。
「さっき店に行ったんだが、閉まっていた」
「それは――悪かったな。何か用があったのか?」
「いや、その……」クルトは何と答えたものかと口ごもった。
「地下書庫で調べものをしたんだが、あんたの力が借りれたらいいのに、と思ったものだから」
「そうか。……僕はさっき少し、気分が悪くなってね。それであそこで休んでいたんだ」
「だったらなおさらだ。一緒に店へ行こう。いいだろう?」
ソールの眼をみつめて笑う。笑顔には自信があった。よほどのことでもないかぎり、人はクルトの笑顔に陥落するのだ。
書店主の顔色は冴えなかったが、こわばった腕の緊張はすこし解けたようだった。
「きみは……まったく」と、ため息のような声を吐く。
「わかった。いっしょに行こう」
「ソール、そいつは――」
うしろから声をかけてくる騎士を振り払うように、クルトはくるりとふりむいた。
「約束があったんだ」周囲に聞こえるように大きな声でいう。「行こう、ソール」名前を呼ぶとまた胸がどきどきした。
「眼鏡は?」城門の方へ歩き出し、ふと気がついてたずねる。
小さな声が返ってきた。「今は使えない」
「昨日みたいに腕を持っていようか? それとも、俺の腕をつかんでもいい」
「そうだな……」痩せた男は疲れ切った表情だった。
「いや、迷惑だろう……すまない」
「そんなことはないさ。ほら」
クルトは左腕をさしだした。おずおずと相手の手が腕にかかるのを待ってから、もっと近くに寄る。ほとんど腕を組んでいるような格好になって、隣の男がためらい、体をひこうとするところへまた笑いかけた。
「この方がいいだろ?」
ソールの顔がぱっと紅潮し、そらされた。
「ああ。ありがとう」
書店に帰る道すがら、眼鏡の調整がうまくいかなかったのだとソールはいった。
「セッキはこの眼鏡をライフワークと呼んでるくらいで、いくつ作ったかしれない。落ち着いたらまた塔で調整してもらう」
ソールに歩調をあわせてゆっくり足をすすめつつ、クルトはたずねる。
「気分が悪くなったといったが、よくあるのか。その……」
「まあね。虚弱体質みたいなものだな」書店主は自嘲するように笑った。「大の男が倒れるなんて、情けないが」
クルトは深く考えもせず「べつにいいじゃないか」といった。
「たまに倒れようがなんだろうが、あんたが学院でも一目おかれるカリーの書店主なのに変わりはないんだ。倒れたからって本が逃げていくわけじゃない」
ソールは黙った。しまった、とクルトは思った。繊細な話なのだから、もっといいようがあったはずだ。こんなところで脳天気なことをいってどうする。
しかし一瞬おいて隣から響いてきたのは、くっくっと押し殺したような、乾いた笑い声だった。クルトは思わず横をみた。あいかわらず顔色は悪かったが、ソールは笑っていた。
「そうだな。ありがとう」
書店の鍵をあけたとき、突然ソールの気力は尽きたようだった。
ぐらりと倒れかかるのをクルトはあわてて支える。腰を抱いて「大丈夫か?」とささやいた。
「悪いな……」
「あんた、横になるべきだ。寝室はどこだ?」
「かまわないでくれ……」つぶやきながらソールはクルトから離れ、暗い店の奥へ行こうとする。とっつきの扉の向こうに階段がみえた。
「寝室は上か?」
戻ってきた声はほとんど聞こえないくらいかすかだった。「ああ」
クルトはソールを支えながら狭い階段をのぼった。階上の部屋へ入り、目をみはる。寝室――これは寝室か? ほとんど書物に埋もれている。
斜めの天井に切られた窓から夕方の光がおちている。その中に文字通り、本でつくられた山に埋もれるようにして、寝台が置かれていた。
「あんた、こんなところで寝てるのか」
「ああ。……はは、呆れただろう」
糸が切れたように寝台に崩れながら、ソールは自虐的につぶやく。
「ラジアンにいつも呆れられるんだ。いくら書店をやってるからって、これはないだろうってな……売り物になろうがなるまいが、僕は買ってしまうんだが。ラジアンもこんな僕にずっとつきあって、ご苦労なことだ」
横になったせいか、ソールの口数は多くなっていた。
「ラジアン――って」
「事故以来の友人でね。あいつも偉くなったもんだ。最初はペーペーの騎士だったのに」
「事故……あんたの――」
「それで魔力を失くしたんだ。僕を尋問したんだぜ、あいつ。下手くそで、怒られてさ……それが今では小隊長どのだ。婚約だの結婚だの、そういう歳になるなんて、まったく、あきれるよ」
クルトは眉をひそめた。青白い顔で横たわる男にあの騎士の話をさせたくなかった。
「あんた、何か食べたり飲んだり、したほうがいいんじゃないか」
「たぶんね」ため息がきこえた。「いや、いいんだ。どうにかなるから」
窓の光はあっても薄暗い部屋で、ソールは片腕で眼を覆いながら、つぶやくように話す。
「きみには悪いことをした。昨日もだ。まったく……店の鍵はあとでかけるから、このまま帰ってくれ。客にこんなことまでさせて、商売人失格だ。申し訳ない」
「そんなんじゃないんだ」
クルトは寝台の横で膝をついた。横たわる男の顔のすぐ近くで、そっと腕に触れる。
「何か食べるものを持ってこよう。下にあるんだろう?」
「いいから――帰れ」
片腕で顔を覆ったまま、男の唇がかすかに動く。
クルトはどうするべきか迷った。
「今日は、その――」と小声でいった。
「ただ、俺がこうしたかっただけなんだ。あんたに会いたかった」
ふとソールの顔を覆い隠していた腕がずれた。震えているのだった。濡れたまなざしが膝をついたクルトの顔をちらりとかすめ、そむけられる。
「頼むから、帰ってくれ。ちくしょう……」
頬を光るものが流れた。押し殺した嗚咽がもれ、ソールは両腕で顔を隠した。握った両手のこぶしをひたいにつけ、ころりと丸くなった。
クルトはためらい、また迷った。意を決して片手を伸ばし、顔を隠したまま嗚咽をもらす年上の男の手を覆う。
触れたこぶしがわずかにゆるみ、指と指が触れあった。
「何か……持ってくる」
そうささやくと、立ち上がり、部屋を出た。
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