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【第1部 書物の影で】13.ソール

 床がきしむ音がして、学生の気配が部屋の外へ消える。  行ってくれただろうか。行ってしまっただろうか。  僕は馬鹿馬鹿しいくらいくたびれはて、なのに気分だけが昂って、涙がとまらなかった。学生の笑顔がまぶたの裏にちらつく。あの美貌でやられた日には反則ものだと思う。なにか勘違いしてしまいそうだ。  クルトに帰らないでそこにいてほしかった、という気持ちと、このまま消えてしまいたいという思いが重なる。僕は体をまるめて顔を覆ったまま、心の片隅に棲んでいる暗い思考と格闘する。何日かおきに耐えられない昼と夜がきて、それを必死で耐えることにいったい何の意味があるのだろう。この世から人ひとり消えたところで、どうせみなすぐに忘れて、いつもの日常に戻るだけなのに。生きるというのはそういうことだ。  僕は敷布に顔をおしあてて嗚咽を殺し、施療院の薬を飲まなければと思うが、起き上がることもできない。以前教わった通りに呼吸しなければならない。呼吸というのは、息を吐いて、それから吸うことだ。これをくりかえせばいい。簡単なことだ。まったく、馬鹿馬鹿しい。  背後でカチャっと音がして、僕ははっと緊張した。 「お茶を持ってきた」  学生の声が聞こえる。また床がきしみ、まるめた背中を温かい手でゆっくりさすられた。くしゃくしゃの髪におなじ手がさしこまれる。僕の頭をそろそろと撫でる。 「起き上がれるか?」  僕は乾いた唇をなめた。 「どこかそのへんに……置いてくれ」 「勝手に火を使った。悪い」 「いや……ありがとう……」  頭を撫でていた手が離れ、僕はそれを残念に思い、即座にそう感じたことを悔いた。クルトのような若者がよく知りもしない人間をこんな風に扱うのは罪作りというものだ。正直いって、完全に反則だ。さっさと置いて出て行ってくれればいいのに。  僕の思いをよそに、学生はのんびりした口調でいった。 「なあ、体を起こせないか? お茶を飲もう。俺も飲みたい」  背中にかがみこむ気配がする。「ほら、起こそうか」声とともに肩に手がかけられた。 「ブランデーあったから入れたけど、よかったかな」などという。「あんたの本の上にこぼしたくないから、起きようぜ」  本という言葉に僕は反応した。起き上がって背板に寄りかかると、クルトがカップを差し出しながら満面の笑顔をみせている。 「すごいな。本ってきけばあんたは動くんだ」 「悪いか。商売だ」僕はおちてくる髪をかきあげた。「汚しちゃかなわん」 「それだけ?」  お茶は濃く、ほのかにブランデーが香った。クルトが支払った金で買った酒だ。お茶に入れるなんてもったいない気もしたが、うまかった。クルトは寝台の端にすわり、自分もカップを口につけながらじっとこちらを見ていた。  どうしてそんなに僕を見るのだろうかと思う。物珍しさや好奇心からだとしても、少々度が過ぎる気がした。この部屋の本の山に呆れているのは納得できるし、キッチンへ行ったならろくな食べものがないのにも呆れられたかもしれない。回路魔術を使った便利な機械が使えないために、僕の食生活は豊かとはいえない。  いくらかおちついたのか、薬を飲むことを思い出す。ちょうどクルトが座る、裏側の棚に置いてある。すこし迷ったが、頼むことにした。 「その棚の奥に……瓶があるだろう。ふたつ。取ってくれないか」 「ん?」学生はうなずいてかがみこんだ。「何?」 「こういうときのための……薬だ。施療院で調合してもらってる」 「ああ、そんなのあるんだな。よかった。飲めよ」  瓶を僕におしつけ、安心したような口調でいった。柔らかい笑みを浮かべている。この笑顔の威力に彼自身は気づいているのだろうか。まさか、そんなに無邪気ではないだろう。だったらわざとやっているのか。 「いや、あとにする」と僕はいう。 「駄目だ。飲まないと」 「きみが帰ったら飲む」 「どうして」  僕はしぶしぶいった。 「酔ったみたいになって……近くにいる人に迷惑をかけることがある。でなければ眠ってしまう」 「べつに大丈夫だろう。それに、ソールが眠ったら俺は帰る」  微笑みに抗えなかった。僕は背板にもたれたまま薬を飲み、そのあいだもみつめられているのを意識した。顔に血がのぼる気がする。クルトにしてみれば、どうということもないはずなのに。 「どうしてそんなに書物が好きになったんだ?」  唐突に彼がたずねた。 「さあ。わからん」  僕は反射的にいったが、これではそっけなさすぎると思った。すこし考えてから言い直す。 「書物は裏切らないからだろう」 「裏切らない?」 「ああ。僕を裏切らない。いつも知らない世界への扉をひらいてくれる」 「だが、書かれた内容が間違っていることだってあるだろう」  僕は微笑んだ。書物のことを考えると、僕は嬉しくなる。さっそく薬が効いているせいもあるのだろう。 「書き手には限界があるからな。でもいいんだ。連れて行ってくれるから」 「どこへ」 「僕が一生行けない場所だよ」  僕はこのまえ読み終わった博物誌の話をした。熱帯の不思議な植物や、色彩鮮やかな鳥のこと。ふたつの大河がまじわるところでは水の色が二色に分かれること。波に磨かれた砂が堆積し、歩くだけで鳴くように足元がどよめく、歌う砂浜について。  喋っていると眠くなった。僕は目を閉じた。頭ががくりと前におち、座っていられない。 「眠れよ」とクルトがいった、ような気がする。  枕に頭をつけると、うしろむきに遠くの空へ落ちていくような感覚に襲われる。ずっと高いところから歌がきこえてくる。低い声のゆるいハミングで、波のようによせてはもどる。この波に乗って遠い海まで行ければいいのだが。  ハミングにあわせて鳥が鳴く。きれいな声だった。この声はただの想像にすぎない、と僕は夢うつつで考えていた。文字で読むだけではわからないことはある。もちろん、たくさんあるのだ。

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