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【第1部 書物の影で】14.クルト

 ソールは眼をとじて、眠ったようにみえた。  部屋の中はどんどん暗くなっていく。クルトはカップを床に置くと毛布をひろげてソールにかけた。横たわる男の上にかがみこみ、頬にかかった巻き毛を払って、うしろに撫でつける。  書物に描かれた遠い土地について熱心に話す声が消えてしまうと、なんだか静かすぎるような気がした。ふと頭のなかでメロディが鳴り、意識せずそれを口ずさむ。寝台の端に腰をのせ、ソールの顔をすぐ近くで見つめるうちに、穏やかな寝息がきこえてきた。  また手をのばして砂色の巻き毛を触った。クルトの指のあいだを柔らかく流れ、おちていく。  さっきはすこし危なかった、と思い起こす。薬を飲む、飲まないといって、結局ソールがあきらめ、小さなグラスをあおったときだ。  すこし仰向いた喉がこくりと動き、唇の端にこぼれたしずくを、舌がなめとった。  みつめていたクルトの体の芯でぞわりと立ち上がるものがあった。  あの喉に――口づけたら、彼はどんな表情をするだろう。どんな声をもらすだろう。  今もソールの髪を指にからめたまま白い顔に鼻先をよせて、クルトはその誘惑を感じていた。ソールからはほのかに甘い匂いがした。生えぎわを撫で、頬をすっと指でなぞって――あわてて離した。  俺はいったい何をしようとしたのか。  クルトは立ち上がり、階下へ降りた。認めたくなかったが、動転していた。こんなふうに誰かを求めたことは一度もない。他人に好意をよせられるのは日常茶飯事で、そうなればクルトも相手にぼんやりした好意を持つ場合もある。セックスはそれと並行しているが、結局はたがいに快楽をさがす遊びだ。自分に思慕を向けてこない誰かに一方的に欲情するなど、クルトには経験がなかった。  階下は暗く、クルトはランプを灯した。書店の奥の空間は小さなキッチンとテーブルだけだった。煮炊きの道具はごく基本的なものしかない。隅で埃をかぶっている機械がいくつかあるのにクルトは気づいていた。ろくに魔力がない者でも使えるはずの回路魔術の装置だが、ソールには意味がないのだ。  これからどうするべきか。店をあけたまま出て行っていいものか。クルトは思案した。戸棚には乾いたパンと林檎が入っている。  一度店の外に出ると、またもあの老婆がベンチに座って、パイプを叩いていた。 「すまないが、見張っていてもらえないか。店主が寝てるんだ」  そうたずねると皺のよった顔をくしゃりとさせて「いいよ」という。 「あとその、食事が買える手ごろな店はないか?」 「そっちの肉屋」老婆は路地の先を手でさした。「惣菜をあつかってる。あと、大通りまでいけば屋台が出てるさ」  肉巻きと冷えても食べられる野菜の煮込みを買いこんで戻ると、外はもう完全に暗かった。老婆はいなくなっていたが店に異常はなく、クルトはほっとした。買ってきた食べ物をテーブルに置いてごそごそ探すうち、やっと裏口と、その鍵をみつけた。無造作に釘にひっかけてあった。  いまどき見ることも少なくなった、魔術の効果も何もない、ただの鍵だ。  クルトは表の扉に内側からかんぬきを刺し、つっかい棒をした。裏口から出て鍵をかけ、表に回ると、扉の脇に据えられた書状箱の中へ落とす。  そのまま路地を行きかけて、心残りがあるような、焦った気分にかられて立ち止まった。ふりむいてカリーの店のひっそりした構えをみる。とても静かだ、と思った。いつもこうなのだろうか。こんなに静かで、ひとりきりなのか。  やっと歩き出したものの、何かを忘れていったような気がしてならなかった。

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