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【第1部 書物の影で】15.ソール

 手足を折り曲げれば僕自身もすっぽり入ってしまえそうな大きさの木箱だった。くくられた本の束を引っ張り出すたび、白いほこりが宙に舞い、僕は何度か派手なくしゃみをした。  箱の中身の大半は、古典となった魔術書や技術書が山ほど、初学者向けの教本、さらに屑本――ありふれた物語やさまざまなハウツー本――の束だった。古い地図もある。  昔、回路魔術師が住んでいたという取り壊し中の古い屋敷から出てきた箱だ。蓋に釘を打った三箱が一箱ずつ競りに出ていた。僕が落札できたのは一箱だけで、他の二つは知り合いの雑物商が競り落とした。挿絵本以外は転売するのだという。  年に一度か二度、この手のものを仕入れる。たいていそこそこの利益にしかならないが、意外な貴重品が入っている場合もあるから古書店商売の面白みが味わえる、と僕に教えたのは先代のカリーだった。生活費の足しにするため、僕がこの店で臨時雇いをやっていたころだ。 「びっくり箱みたいじゃないか。愉快だろう」  どうしてこんな中身も由来もはっきりしないものを仕入れるんです、と不満げにたずねた僕に、彼はいった。 「それから、屑本だらけでも油断するなよ、ソール。つまらない本の芯材にとんでもない古文書が使われているときがある。学者のおまえなら判別できるだろう」 「僕は学者じゃありません」 「いずれそうなるんだろうが」カリーは僕に向かって指を立てた。 「ソール、どれだけ偉くなってもまずこの店を贔屓にするんだ。わかってるな」  僕がその名を継いだ先代のカリーは、出会った当初は気難しく口うるさい初老の男だった。僕は学院に入ったその日から毎日のようにこの店に通い、貧乏学生の例にもれず屑本のカゴをあさっては持ち帰っていたが、カリーはずっとそんな僕を観察していたらしい。  魔術教本のたぐいはなんとか金を工面して手に入れていたものの、それ以外はとうてい手が出なかった僕にとって、棚にあるまともな売り物は、毎日ため息をつきながら眺めるだけのものだった。  一年たったある日、僕は屑本のカゴをみて目をみはった。例によって羨望のため息をつきながら背表紙だけを眺めていた書物が、カゴの底に無造作におちている。ガイウスの『魔術と法』だ。  僕は本を拾いあげ、何度もひっくり返したあげく、カリーのところへ持って行った。 「これ、ちがう場所に入っていますよ」 「ああ?」  カリーは僕とその書物をじろりとみた。 「いや、間違ってない。そいつは屑本だ」 「そんなことありえないでしょう。ずっと――」僕はふりむいて書棚をさした。 「あそこにありました」 「今は屑本なんだ。だからカゴに入っている。いらないならそのまま入れておけ。誰か拾うだろう」  僕は息をのんでカリーをみつめ、反射的に彼の心の気配をさぐろうとした。カリーの気分はいつも静かで何にも動じなかったから、魔力に敏感すぎた当時の僕にとって、この店はいつも城下の他の場所よりはるかに気分の落ちつく場所だった。しかし、断りもなく他人を〈探知〉するのはルール違反だ。それなのにあの時はあやうくルールを破るところだった。 「ソール、馬鹿なことはやめろ」  カリーは僕をまっすぐに見返した。僕の名前を彼が呼んだのは、そのときがはじめてだった。 「疑わなくていい。持っていけ」  僕がカリーの店の臨時雇いになったのはそれから間もなくのことだ。そのときは自分がいずれ「カリー」になるなど、思ってもみなかった。商売人にとうてい向いていない僕がどうにか「カリー」でいられるのは先代のおかげだ。彼を思い出すのは楽しかった。教えてくれたことはすべて覚えている。  しかし今回競り落とした箱は先代がいう「びっくり箱」ではないらしい。たいしたものは出てこない。悪くはないが貴重なものも見当たらない――と思ったとき、底で何か光った。  油紙の包みに、金色の封蝋が押してある。  僕はほとんど箱の中に落ちそうになりながらその包みを拾い上げ、封蝋の印章に思わず目を疑った。  この日は目覚めたときすでに昼近かった。いつになくぐっすり眠った気分で、体が軽かった。  僕は知らないうちに毛布にくるまっていた。薬の瓶は元の位置に片づけてあったが、そんなことをした記憶はない。  クルト・ハスケルがお茶のコップを持ってきたのは覚えている。僕は眠りにおちる直前まで彼に、いろいろつまらないことを話したのではなかったか。  さぞかし呆れたことだろう。大の男があんなふうに崩れてしまうなど。  店へ降りるとテーブルに惣菜が置いてあった。僕は一瞬ラジアンを思いうかべ、そんなはずはないと首をふる。では、誰だ。  考えられるのは彼しかいない。クルトだ。  しかし、なぜだろう。  僕にはさっぱりわからなかった。昨日の僕があんまりで、みかねた、というところだろうか。キッチンはきれいに片づけてあって、これにも驚く。彼は裏口から出たらしく、鍵は書状箱の底にあった。学院は身分の違いが問われないとはいえ、貴族の子息がこんな雑用を進んでやるとは信じがたかった。 「あんたに会いたかった」  突然、僕にささやいた彼の言葉がありありと思い出された。まるでこの場にいるかのように。  胸のうちが熱くなり、腰の中心にうずきが走る。想起されたクルトの声は低く、官能的で、昼の光のなかでもぞくりとした。  あわてて僕は顔を洗いにいった。冷たい水を顔にかけながら、いいかげんにしろと自分にいいきかせる。クルト・ハスケルだって、いいかげんにしろというものだ。相手などよりどりみどりのくせに、妙な誤解を与えかねない行為はつつしむべきだ。  僕はクルトが置いていった食べ物をひろげ、彼に対して腹を立てようとしてみたが、うまくいかなかった。冷たくなっていても、汁気のある肉巻きや野菜の煮込みのおかげで、何日か前のパンもおいしく食べられた。  きっと――ありえないくらい面倒見が良い奴なのかもしれない、クルト・ハスケルという男は。だが、美貌と身分と金があってこれでは、ほんとうに反則じゃないか。  そんなことを思いながら僕は書店へ行って仕事をはじめ、しばらく前に競りで落とした箱を開けたのだ。  座って、金の封蝋を慎重にナイフで削り取り、油紙の包みをひらく。  中身は思った通りだった。これは焼けたはずだった。あの日失われた書物のひとつ。僕らの罪のひとつ。  どうしてこんなところから出てくるんだ? 僕が知らなかっただけで、誰かがあの事件の前に持ち出していたのだろうか。あるいは他に写しがあったのか?  いや、それでもまだ足りない。なぜならこの書物はあと一冊、対になったものがあるはずだった。僕はどちらも完全に焼け、灰になったと思っていた。あの愚かな事件のあと、ついに発見されなかったからだ。  僕は表紙をひらく。内側にしるしがあった。片割れが消えればこちらも消滅するように仕組まれた、強力な回路。指をはわせても僕には何も感じられない。だがしるしがある以上、対になったもう一冊が残っているはずだ。両方がそろわなければ読み解けないように作られているのだから……  僕は椅子を蹴とばして立ち上がった。同じような箱があと二つあった。雑物商のカールが競り落としたはずだ。  古い眼鏡をひっかけ、できるだけ急いで商店街の中心へいったが、カールの店についたときはもう遅かった。 「ああ、本ね。もう分けて売ったよ」  パイプをくゆらせながら、のんびりと彼はいった。 「誰に?」 「骨董屋や王宮の仕入れ人。いつもの連中さ」 「油紙の包みがなかったか? 封蝋がついたやつだ」 「あったよ」カールはゆったりした口調でこたえた。 「中も見ずに、ルイスが買っていった」 「ルイスが?」 「そう。言い値で買うというから、競りの三倍は吹っかけたのにその場で払われてしまってな。どうせこっちには価値がわからんし、悪くはない取引だと思ったが」  うなずいて礼をいい、僕はカールの元を離れた。  書店に戻り、僕の手元にある片割れを検分しながら、強烈な悔しさに足がふるえた。貴族向けの仲買人であるルイスは僕の商売敵で、これまでもこっちが探していた魔術書をかっさらわれたことがある。  彼はこれが対だと知っているだろうか?  知らなければまだ僕にもチャンスはあるかもしれないが、ルイスから書物を手に入れるのは至難の業だった。何しろ根っから商売がうまい男で、僕のように書物そのものに愛着があるわけじゃない。彼が貴族相手に稀覯本を取引するのは、一にも二にも金のためだった。  僕はきっとまた金策に悩むことになるのだろう。  そんなものほっておけ、というラジアンの声――僕が金に悩むたびかけられる言葉――がきこえるようだった。むしろ、自分が持っているこの片割れをルイスに高く売りつければいい。よかったじゃないか。  たしかにそうだが、僕は売りたくなかった。手元にある片割れを完全にして、この書物が本来あるべき場所に戻したかった。  本来あるべき場所――学院の図書室へ。

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