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【第1部 書物の影で】16.クルト
地下書庫へ行けば、つい砂色の髪をさがしてしまう。
彼がいるのではないか、と思ってしまう。
しかし今日も彼はいないようだ。職員が彼を呼ぶ声も聞こえない。
あちこち歩き回ったおかげで、クルトはすっかり書庫の地理に詳しくなってしまったが、彼はみつからない。
彼。ソールだ。
自分でもおかしなことをやっている、とクルトは思う。それなのに――いや、だからこそここ数日、悶々としていた。
もちろん、店主の顔を見たいのならカリーの店へ行けばいいのだ。しかしたいした話もなく、買うべき書物もないのにたずねていくのはためらわれた。
何しろ、ソールのことだ。もともと学院にいただけに学生のカリキュラムなど熟知していそうだし、ヴェイユの講義を取る前は店に立ち入ったことが一度もないクルトの、みえすいた嘘などすぐに見抜くだろう。またも、必要もない人間に本は売れないなどといいだしかねない。
もっと自然にさりげなく、偶然のように会いたい、とクルトは思う。いや、偶然のようにではなく、まさしく偶然に出会いたい。もしもそのへんでたまたまソールと行き会えたなら、天上から祝福の鐘が鳴りひびくも同然だ。
それだけではない。毎日彼を見たいし、声を聞きたい。考えこむとき、細いあごを触る、あの指に触れたい。
誰かに突然発生するこのような心理的事件について、世間は「恋におちた」とか「春がきた」などと呼びもするのだが、哀れにもクルトは知らなかった。経験がなかったからである。
そんなわけで、クルトは審判の塔を出て城門へ向かっていた。ちょうど昼時で、近くの店からいい匂いが漂ってくる。上の空で歩きながら、あれから五日たった、と考える。
五日もたてばカリーの店へ行ってもなんとかなるのではないだろうか。そうだ、口実はあるだろう。例の書物との「絆」について質問するのはどうか。
そのとき突然、視界に砂色の髪が見えた。はっとしたクルトは、自分が王城のよく知らない区域にいるのに気がついた。回路魔術師の塔がある、北東の区画だ。
ぼんやりしていたせいで城門とちがう方向へ向かっていたらしい。だがあそこに彼が見える。いつもの痩せたシルエットで、眼鏡をかけている。暗色のローブを着たひょろりと背の高い男と話をしていた。
「ソール!」
クルトの頭の中で鐘の音が鳴った。ソールがこちらに目を向ける。その口元にうっすらと微笑みがうかぶのに胸が高鳴った。
ソールは隣にいた男に何かいい、手をあげると、こちらへ近づいてきた。
「クルト。こんなところにも来るのか?」
「あ、いや、これはたまたま…」
クルトは口ごもった。ソールが自分を見ていると思うと鼓動が速くなり、まったく心穏やかでいられない。
「えっと、その、地下書庫へ行った帰りなんだが、ぼうっとしていて迷ったらしい」
「きみでも迷うのか」
ソールは穏やかな顔で、また微笑んだ。クルトの頭の中でまた鐘の音が鳴る。ソールは今日、師団の塔で眼鏡を再調整してもらったのだという。楽になったと話す快活な調子がクルトの鐘の音と和音をつくる。
「ヴェイユの講義は順調か? 困ったことがあったら聞きにくるといい」
「ああ、うん。大丈夫だ。今のところ。いや、大丈夫だが……」
クルトは自分が何を口走っているのかわからなくなりそうだった。
「えっと、その、ソール。もう昼だ」
「うん?」
「その、どこかで昼食でも、その……」
なんて不格好な誘い方だ、とクルトは歯噛みしたくなった。この駄目な口はもっとこう、いい感じに話せないのか。だがソールはそんなクルトの思いを知ってか知らずか、軽い調子で返事をかえした。
「ああ、いいよ。僕も何か食べようと思っていたところだ」
クルトの頭ではたくさんの鐘が鳴りっぱなしだ。そこにオルガンの音色が重なって、メロディを奏ではじめた。
「じゃあ、どこへ行く? この辺りで? それとも…」
「そうだな」ソールの眉がかすかに寄せられる。
「できれば、城下へ出ないか。城内は落ちつかないんでね」
「俺がよく行く店でいいかな?」
「あまり外で食べないんだ。おすすめがあれば連れて行ってくれるとありがたい」
「宝珠の器」は学院入学以来クルトがなじみにしている店で、アレクや他の学院の仲間もよく食事をする場所だった。夜は教授たちも訪れる。ふところが寂しくなった経験のないクルトは考えたこともなかったが、じつは城下の高級店のひとつだ。
クルトにしても、平民の学生をみかけないことは知っていたが、気にかけたこともなかった。ソールは平然と中に入っていくクルトの背後で眉をあげたが、ひとことも発さず、だからクルトは気づかなかった。
ソールはゆっくり、ていねいに食事をした。フォークをあつかう繊細な指は長く、小さく切った肉片を運ぶ様子は優雅で美しい。城下の小さな書店の主人に似合わず、きちんとした作法の教育を受けたとわかる手つきだ。
クルトはといえば、ソールの唇や、咀嚼するたびこくりとさがる喉もとをみつめすぎてしまわないよう、何度も視線を泳がせていたが、それでも目の前の男を眺めていられるのが嬉しかった。
すこしうつむいた白い顔の、ひたいに巻き毛がおち、それを上に撫でつけるソールの指に心を惹かれる。そしてクルトの眼をみながら話をしているのに、ときどきふっと視線がそらされたときの、長いまつ毛にも。
一緒に食事をすれば堂々と見ていられる。誘ってよかった、とクルトは思う。
デザートを待つあいだ、地下書庫におさめられた事件記録についてソールに問いかけると、即座にクルトが消化できないほど内容の濃い話が返ってきた。カリーの店主に数日前の落ち込んだ様子はなく、なめらかな声の響きをクルトは純粋に嬉しく思いながら聞いていた。
横から突然見知らぬ男の声がかかったのはその時だ。
「ソールじゃないか。こんなところに来るなんて珍しい」
ソールは話をやめ、声の方向をみあげた。
「ケチなあんたのことだ、たまたまってわけじゃないんだろう? 俺を探していたか?」
彼らのテーブルの側に立っているのは、着ているものこそ金がかかっていたが、優雅さのかけらもない話し方をする、みるからに無礼な男だ。
クルトは思わず口をはさもうとしたが、ソールは手をあげて彼を制した。
「いや、別にあんたなぞ探していないさ。ルイス」
男はソールを無遠慮に眺めやる。クルトはその視線に苛立ち、放射された猥雑な悪意に、思わずテーブルの下でこぶしを握った。
「例の書物、返事はどうした? そちらさんの都合はついたか?」
ソールの声はさっきまでとはうってかわり、固かった。
「その話は――いずれ知らせる」
「あまり返事がないようなら、こっちにも都合があるぜ」
「買う気はある。準備ができていないだけだ。待ってくれるとありがたい」
男はクルトの方へちらりと視線を流した。
「それでパトロン探しか? ずいぶん若いのを、ご苦労だな――」
「そんなんじゃない!」
ソールの声が小さく、だが鋭く立ちあがった。冷たく男を見あげる眼つきにクルトはひやりとした。
「食事の邪魔をするな。いずれ返事をする」
相手の男は肩をすくめた。
「そうか、邪魔か。そりゃ悪かった」
男は左右に体をゆすりながら店の外へ出ていき、ソールは小さくため息をついた。クルトへ向きなおり「すまなかった」という。
「古書の仲買人でね。商売敵同士、いろいろある。食事を不味くしてしまったな」
「そんなことはないさ」あんたを見ていられればいい、という言葉をクルトは飲みこんだ。
「デザートが来る。口直ししよう」
ソールは何かいいかけて、思い直したように口を閉じた。また口をひらく。
「きみは――よくこの店に来るのか?」
「ああ。なぜ?」
「……昔、何度か来たことがある。変わらないと思ってね」
「ずっと同じ主人がやってると聞いてる」
「そのようだ」
果物とクリームを飾った冷菓がテーブルへ運ばれたが、もう話は弾まず、食器がふれあう音だけが響いた。席を立つときにクルトがソールの分も払うというと、ソールは首をふる。
「やめてくれ。学生の、それも客におごってもらうなんてありえない」
「今日は俺が誘ったんだ」クルトは正面からソールに笑いかけた。
「なあ。今度、あんたの店で何か……ごちそうしてくれ」
思いもかけないことに、ソールは一瞬で赤くなった。ぎこちなくクルトから顔をそらし、何度かまばたきする。
「きみは、まったく……やめたまえ」
「何を?」
「店にはいつだって来ていいが、たいしたものは出せない」
「それで十分なんだ」
すばやく勘定書きをとりあげてクルトはさっさと出口に向かった。支払いをすませ、先に出ようとすると、店の主人がソールに声をかけるのが視界に入った。主人からソールに向けて放射された感情はあざやかだった。驚きと安堵、それに慰め。
何度か来たことがあるといったが、ふたりは知り合いなのか。ソールはこわばった顔で主人に微笑みを返している。
無言のまま店の外へ出てきた彼の横顔をクルトは盗み見た。とまどってさびしげだが、それ以上のことはまったくうかがい知れない。
「今日はどうもありがとう。ごちそうになった」とソールがいう。
「――ああ」
「お返しといってはなんだが、聞きたいことがあったらいつでも店に来てくれ。ごちそうなんてできないが、課題で困ったことでもあったら、すこしは助けになるだろう」
「もちろん!」
力をこめて答えると、ソールは驚いた顔をした。
「わかった」
そしてそのまま、下町へ向かって歩き去った。
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