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【第1部 書物の影で】17.ソール

「宝珠の器」の主人が僕のことを覚えていたのは予想外だった。  なにしろ十年以上も前、数回訪れただけにすぎない。いつもヴェイユと、僕と、そして――「彼」の三人だった。進級や、三人のうちの誰かが賞をもらったときの祝いでしか来なかったし、金を払ったのはいつもヴェイユだった。  古い貴族の家柄であるヴェイユはどんな高級店へ行ってもうろたえなかった。びくびくする僕らふたりを堂々と連れまわして、いつも気前よく支払った。そう、クルト・ハスケルのように。  出世払いにしてくれよ、そう僕と彼はヴェイユにいったものだ。もう二度とかなわなくなってしまったが。  ヴェイユはいまだにこの店に来るのだろうか。教授になったのだから、常連かもしれない。主人に聞けば教えてくれただろうが、そんなつもりはなかった。会釈をかえしただけで精一杯だった。  思いもかけないところで昔の僕を知る人に出会ったとき、いまだにこんなふうになるなんて、まったく成長していないのだな、と僕は思う。きっと人間が成長するとか、変わるなんてことは幻想なのだろう。  そういえば「宝珠の器」でルイスに会ったのも予想外だった。変わる変わらないでいえば、彼もまったく変わらない男だ。僕がカリーの店で臨時雇いをしていたころから知っているが、昔も今もがめつくて狡猾で、商売がうまい。同業者には下品で粗野な態度をとるが、顧客となる貴族には絶妙なへつらいと丁重さで対応する。相手をほめそやしながらも自分の半端な知識をひけらかして、欲望をかきたてる技術は最高ときている。  彼の前に出ると僕はいつも、自分が不自然に頭でっかちなだけの不器用な敗者なのだ、という気分になる。半分以上真実とはいえ、これをいやらしいほどあからさまに突きつけた上で、無力さを思い知らせるのが彼の手なのだ。今回の書物――例の箱から出た対の本――にしても、僕がなんとしても手に入れたいと思っているのを確実に予想して、五倍の値段を吹っかけてきた。さっさと買わなければ貴族のコレクターへ売りこむぞ、とほのめかしながら。  しかもクルトについてまで……ルイスのいった、パトロン、という言葉にまた腹の底が熱くなる。もちろんクルトは見るからに羽振りのいい貴族だが、年下の学生にたかっていると思われるなど、心外なだけでなく屈辱的だった。しかも……と僕は思い出し、今度は赤面した。あの日は結果的にクルトにおごってもらうことになってしまった。  まあ、ただの昼食というには安くない金額だったからありがたかったが、あんな顔で笑いかけないでほしい、と僕は思う。  ほんとうに誤解してしまいそうだ。彼が僕に……気があるのではないかと思ってしまう。  そんなみっともない勘違いだけはしたくなかった。まったくもって、みじめだった。  それにしても、くだんの書物の意味をほとんどわかっていないくせに、はったりをかけて大きく出れるのが、ルイスのルイスらしいところだ。封蝋の印章で察しはついただろうが、ルイスには魔術書の真の力が感じ取れるほどの魔力はない。しかし彼のような「書物の猟犬」にありがちな特徴として、値打ちがあるものへの嗅覚は抜群なのだ。  一方僕はというと、木箱から油紙の包みを拾い上げて数日間、手元にある片割れを仔細にしらべた結果、この対になる魔術書はかつて学院から失われた書物と同時に作られた「双子」だと断定した。こちらの本は内容はもちろん、装幀、版木、紙の質、インク……どれをとっても僕の記憶にあるものと同じだったが、ひとつだけちがう部分があった。  表紙をひらいたしるしの下部に、拡大鏡で仔細に調べなければわからないくらい、小さく刻まれた記号があった。太陽と星を象徴するふたつの記号がつながれたもの。  僕の知っていた本は順序が逆だった。  限定本の制作者がよく使うしるしだ。対になる本の対になる双子。  僕は思わずため息をついていた。十年前に失ったあの本はやはり、燃えて永遠に失われたままなのだという単純な事実がここにある。これが発見された屋敷の来歴は調べる価値があるとはいえ、たまたま保管されていた双子の書物がいま発見された、ということにすぎない。  しかしたいした偶然ではないだろうか。いま、僕は失った書物と実質同じものを半分取り戻したのだ。ルイスの手にあるもう半分だって、取り戻せるかもしれない。金策さえつけば、だが。  例によってその金策が問題なのだった。  僕が扱う商品はきまった売上がつねに立つわけじゃない。運転資金はつねに確保しておかなければならない。商店会の融資枠を使い切ってはまずい。捜索を頼まれているコレクター向けの稀覯本リストを眺めても、結果はついてこない。新規で融資を受けるにしても―― 『道楽でしかない学問だの書物だのにしがみついて、それでひとかどの人間になろうなんてのが私の倅だとは、まったく情けない』  おやじの声がいきなり脳裏によみがえった。  そうなのだ。新規で融資を受けるにしても、どこに頼むべきか。  あたりまえだが金融業者は計画と担保を求める。そしておやじのように余剰資金の投資先をさがしている商人には、理由を説明するだけでひと苦労だろう。  なにしろ今回の書物の購入には大きな問題があった。どれだけ高値でルイスから買い取ろうと、僕に転売する意思がないことだ。無償で学院の図書室へ戻したいと思っているのだから。  どのみち、おやじに融資を頼むのは論外だった。面汚しの三代目から学院進学によってただの息子となった僕は、事故のあと勘当されていた。  勘当の件については、僕は感謝すらしていると認めなくてはならない。最終的に僕が「カリーの店主」を引き継げた理由のひとつだからだ。学院へ進学した時も経済的援助は一切なかったが、叩きこまれた上流階級向けの礼儀作法や帳簿のつけ方は、のちのち役に立った。  おやじは塩と穀物、織物の取引で財をなした二代目だった。王都でこそ知られていないが、南へ行けばそれなりの名士だ。僕が顔も知らない一代目はボロ船一隻と馬一頭、川のほとりの小さな店舗しか残さなかったから、どうもおやじの商才は祖母の血筋らしい。僕の商才のなさはきっと一代目から来たのだろう。魔力や学問、書物への執着がどこからきたのかは完全に不明だ。まったくこの世はめちゃくちゃにできている。  ともあれ、どう金策したものだろう、と僕はふたたび頭を悩ませた。この際だから、めぼしい在庫のカタログを持って貴族の屋敷回りをすべきだろうか。  交渉下手な僕にうまくやれるとも思えないが、ルイスに支払う元金くらいは作れるかもしれなかった。同業者からの借入は泥沼への輝かしき第一歩だが、僕という器自体がすでに泥船も同然なのだ。いったい誰が気にかけるというのか。僕が気にかけるものにしても、書物の他には何もない。いま僕の手元にあるこの書物と、その片割れを取り戻すことができるのなら……  眼を閉じると、海の音がきこえる気がした。書物でいっぱいの店に座ったまま、僕は深く遠いところから響く波の音を思い出す。頭の芯をつかんで遠くに投げ出していくような轟音、波のへりで砕ける白い泡、うちよせられては戻っていく貝殻。曲線を描いてよこたわる海藻と、水にぬれた小石のあざやかな色彩。砂浜の水たまりに映る、まだ若い僕の顔……そのうしろに誰かの影がたち、僕はなつかしさでいっぱいになるが、その顔を直視できない。影だけをみつめたまま、この記憶を閉じたいと願う。  と、水面がゆれ、みるとそこに映るのは僕の現在の顔にほかならなかった。そしてうしろにはクルト・ハスケルの美貌があって、僕に笑いかけている。  僕は目頭をおさえ、奥の方からこみあげる何かを押さえつけようとする。あの海はもうないのだ。そこにはもう、誰もいない。

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