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【第1部 書物の影で】18.クルト
ドサっと鈍い音がきこえた。
あわてて伸ばした手が空振りする。書棚の裏側へ本が落ちたのだ。
クルトは棚から数冊本を抜き取り、向こう側をすかしみた。落とした本は棚と棚の隙間から奥へすべりおちたようだ。壁と書棚のあいだにひっかかっているだろうと手をつっこんでみたら、またも空振りした。
どうやら棚の裏側には意外に広い空間があるらしい。この書棚は学院の図書室の一辺を天井まで覆う重厚なもので、クルトはずっとこの裏側が壁に接しているものと思いこんでいた。
『クルト、どこだ?』
間が悪いことにアレクから念話が届く。
『図書室だ。もう終わる』
『また歌っていただろう』アレクからは快活なからかいの響きが伝わってきた。
『今日は例の会だぞ。忘れてないか?』
クルトはおざなりに返事をする。『すぐ行く』
『最近よく図書室にいるな。そんなに授業の準備、大変なのか?』
『いや? 講義が面白くなっているだけだ』
クルトはつとめて気分を出さないように心がけた。最近の自分はどうもおかしいという自覚くらいはある。
『もうじき出るから待ってくれ』
窓際の机まで戻ると広げていた資料を重ねて山にした。窓の外は薄暗く、図書室も閉室の時間だ。司書も忙しそうにみえる。
声をかけようかとクルトは迷い、結局ひとりで先ほどの書棚の前へ戻った。
あらためて観察しても、書棚にはこれといって他と変わったところはなかった。ぴったり壁に接しているとしかみえない。クルトはとなりのセクションへ移り、ためしに本を数冊抜き取ってみた。書棚の奥は板で仕切られ、叩くと堅い音が鳴る。空白があるようにはきこえない。元の場所へ戻り、同じことを試す。こちらも音は堅く、背後に空間があるとは思えない。いったいさっきの感覚はなんだろう。第一、落とした本はどこかへ消えてしまった。
面倒だ。探知してみよう。
クルトはうつむき、指を組んで眼をとじた。第二の視界が脳裏に広がり、ふだんは遮蔽されている、図書室内部を流れる力のみちが描き出される。
壁を沿う微細な魔力の渦が感じられた。跳ねかえって戻ってくるのではなく、書棚の向こうまで続き、広がっているようだ。
たしかに空間がある。だがその中が見通せない。もっと分厚い遮蔽があって――
「何をしている?」
突然声をかけられ、クルトは顔をあげた。すらりとして冷たい顔立ちの魔術師が立ち、鋭い目つきを向けていた。
「ヴェイユ師」クルトは途惑いながらもごもごと返事をした。
「その――この棚の奥に、書籍を落としまして。どこへ行ったか探していました」
「それなら職員にいいなさい。彼らが後で片付ける」
「はい」おとなしく答えたものの、クルトはふといぶかしく思った。
「ヴェイユ師?」
「なんだね?」
「先ほどからここにおられましたか?」
「いや? いま来たところだが」
「そうですか。失礼しました」
司書に本を落としたことを謝り、クルトはアレクが待つ方向へ急いだ。歩きながらもひっかかるものを感じて、いましがたの出来事を反芻する。いったい何がこんなに気になるのだろう。
「よう、クルト」
なかば暗くなった教室を迷いなく通りぬけ、まっすぐ友人が待つ部屋へ入った瞬間、違和感の正体がわかった。
――ヴェイユ師はどこにいたのだろう。
図書室で彼が近づいてくるのにクルトはまったく気づかなかった。声をかけられるまで、ヴェイユの魔力の放射を一切感じなかったのだ。
その日は以前から約束していた学友たちとの集まりがあった。場所は「宝珠の器」だ。
いくら貴族でも、学生の身分で夜にこの店を訪れることはめったにない。昼間にくらべ、値段も格も三段は上がるからだ。だが今夜は特別で、寄宿舎で一緒にすごした仲間のうち、森の施療院へ進路を決めた数人の祝いの会だった。王宮をめざすクルトたちと違い、彼らは学生の身分のまま卒業まで王都を離れることになっていた。
小部屋に集まった学生たちはにぎやかに飲み食いした。学院へ来てからの思い出話に花を咲かせ、教師たちの噂をし、たがいの未来について予想する。やがて、念話で密やかな会話を交わしながら連れだって外へ消える者たちもあらわれ、酔って無遠慮になる者も出てくる。
クルトはというと、それほど解放的な気分ではなかった。こんな席ではいつも陽気で快活に冗談ばかり飛ばすのが常だが、今夜は黙って飲みながら友人たちの話をきいていた。頭の片隅でぼんやりとハミングが浮かび、それを追う。
「クルト、また歌ってるんだ」
顔を赤らめ、とろんと酔った目をしたニコラがもたれかかってくる。
「最近毎日聞こえるけど、いったいどうしたの。歌でいい気分になるのは歓迎だけど」
「俺も不思議に思っていた。こんなに毎日放送しているなんて、新入生のとき以来だろ?」
ニコラに腕を絡めながらサールがいう。このふたりは数年ごしのつきあいで、周囲もまとめて夫婦扱いしていた。
クルトは苦笑した。入学時に一気にクルトを有名にした〈放送〉については、あまり触れてほしくない。
「自分じゃ意識していないからわからないんだ。図書室で集中していることが多いせいかもしれない」
「ずいぶん熱心に勉強しているらしいな」と隅の方からも声が飛ぶ。
「ヴェイユ師の講義でしょう」
「受講した以上は落とせないし、がんばらないとね」
「彼の厳しさは有名だからねえ」
「歌えるくらいなら楽勝なんじゃない?」
励ましと共感にみちた、快い笑い声が一座から湧く。クルトも一緒になって笑う。ここにいる者たちの数人は施療院へ行き、数人は王宮をめざす。アレクのように自領へ帰り、統治のために精霊魔術を使う者もいる。そして数人は学院に残るだろう。
未来がどちらへ進もうとも、この場にいる者は生涯つづく絆で結ばれ、友人が危機に陥ったときには、即座に助けの手を差し出すだろう。
学院の友人とはそういうものだ。
「そういえば、ヴェイユ師は最年少で教授になったけれど、私は彼の同期の話を知らない」
ふと思いついた様子でニコラがいう。
「ヴェイユ師は学院での経歴が変わってるんだ。途中で大陸に留学していたというし、ここでの卒業も事故で少し後ろにずれたらしい」
たちまち、学院の歴史を掘り起こすのが趣味のサールが解説をはじめた。
「事故?」興味をひかれてクルトは口をはさんだ。「どんな?」
わが意を得たりとばかりにサールが話しはじめる。
「十年前、図書室で火事があったらしいんだ。逃げ遅れた学生がひとり亡くなった。学院の創設以来、学内で亡くなった唯一の死者ということだ。他の学生も火事に巻きこまれ、ヴェイユ師も施療院に通ったと聞いた。貴重な蔵書も何冊か焼けたって」
「でも、図書室でそんな火事があったなんて、まったくわからないわね」とニコラ。
「そこなんだが、火事のあとで魔術関連の記録が一部、王城の審判の塔へ移された。学院の図書室はその後大規模な改修を行って、今にいたるということだ」
「さすがに詳しいな」とアレクがつっこむ。
「ああ、俺はいずれ学院史を書くよ。そしてきみらの恥ずかしい話をすべて盛ってだな……」
「やめろよそんなこと!」
わあっと笑いが起き、サールは周囲から背中や頭をぽんぽん叩かれてもみくちゃにされる。だがクルトにはもっと聞きたいことがあった。
「なあ、サール。その十年前の火事だが――生き残った学生がいたんだろう?」
「生き残った? どういう意味だ?」
「その――ひどい怪我や火傷から、という意味だ」
「うん? いや、そこまではさすがの俺も知らないな」サールは怪訝な顔をしたが、すぐに何か思いついたらしい。
「そういえば記録に齟齬があるとは思った。最終学年の秋を越えれば、たとえ卒業できなくても、俺たちは少なくとも魔術師の資格は得られるし、学院の記録に名前が残される。だがこの火事の年は人数が合わないんだ。記録も欠けていてはっきりしないが、魔術師になれなかった者がいるらしい」
ニコラはすぐに察して続ける。
「火事のせいで何かが起きて、魔術師になれなかった、っていうこと?」
「ああ、そうかもしれないな。怪我で魔力を失くすとか、そんなこともあったのかも」
サールがそういったとたん沈黙が落ちた。ぎこちない沈黙で、各人の居心地悪さがあたりに放射する。
生まれつき強い魔力を持つことは、学院に所属するための必須条件だ。学院に入学を許された時点で、学生たちはすでに普通の人間とはちがっている。〈力のみち〉をとらえる強力な知覚に適応するとは、逆にいえばそれ抜きの生活を想像したことがない、ということでもある。
だから魔力を失うような事態など、彼らにとっては想像を完全に超えることで、考えただけでも落ちつかないのだった。
「……もしそんなことが起きたら、どうする?」ぽつりと誰かがいった。
「俺は自信ないな」隅に座った者が喉を搔き切る仕草をする。「考えてもみろよ――」
「いや、そんなこともないだろう。施療院ではそんな患者の治療だってするし、高齢になれば誰だって魔力がなくなることは――」
「しかし今、この時期に起きたとしたら? 魔力がなかったら、この眼が見えなくなるも同然じゃないか。もし俺たちに……」
「そもそも魔力を失くすなんて簡単に起きる話じゃない。制御できなくなることはあっても器はそんなに壊れないさ。教わっただろう?」
たちまち何人かの間で議論がはじまったが、クルトは聞いていなかった。自然と思いがソールに向かっていたからだ。脳裏にうかぶ砂色の髪の男は、学院にいたころ、いったいどんな存在だったのだろう。
想像しようとしたがうまくいかなかった。クルトの中でソールは最初から「カリーの店主」だった。魔力の放射が一切なく、学識と経験があり、物静かでさびしげな眸をした薄い影。
「クルト? そこにいる?」
ニコラが腕に手をかけ、クルトは我に返った。ニコラは真顔で彼をみつめながら「あなたが心を閉じているのはめずらしいわね」という。
そして突然、クルトの顔を両手で正面から包むようにした。
「いやだ! クルト、どうしたの。あなた――恋をしているの?」
その晩、当然のようにクルトはソールの夢をみた。
夢をみながら、たしかにソールの夢をみるとわかっていた、とクルトは思った。ニコラのいうようにこれが恋かどうかなんて、どうでもいい。これだけソールのことを考えているのだから、夢に出てこないほうがおかしい――と、夢のなかでクルトは何度も思う。
夢のなかでクルトが見守る中、ソールはあの大柄な騎士、ラジアンと楽しそうに話をしていた。まるで恋人同士のようにソールの手が騎士の顔を触り、騎士がソールの手首をとり、その指に顔をよせる。
クルトはその光景をみて憤りを感じた。いや、真正面から嫉妬した。それどころか、あれはおかしい、と強く思った。
ソールの前にいるのは少なくともあいつじゃないはずだ。あれは間違っている。
あいつはソールとつきあっていない。だいたい、俺の夢なのにどうして俺はあんな騎士をみているんだ? 夢なんだから違うものがみえていいはずだ。少なくともあそこにいるのはあいつじゃない。
――俺のはずだ。
と思ったとたん、クルトはソールの前にいて、彼の手をとっていた。細い指に口づけるとソールはさびしげに微笑み、その唇が動くが、声は聞こえない。
声を聞きたいと願いながらクルトはソールの肩に手をまわし、抱きよせて髪をなでる。ソールは口をあけ、たしかに何か話しているが、クルトには聞こえてこない。らちがあかない、と焦ったクルトはソールの頭に手を回すと、あごをとらえて唇を重ねる。
腕の中で痩せた体が硬直するが、かさねた唇のさらりとした感触を味わうあいだに解けていく。クルトはもっと深く口づけようとソールを抱く腕に力をこめる。薄くひらいた隙間に舌を差し入れ、内側へ侵入して粘膜に触れる。抱きしめた体がふるえるのを感じ、背中から腰へと腕をおろし、手のひらで愛撫する。口づけのあいまにソールから熱い吐息がもれる。クルトの中心はすでに堅くなり、ソールの体温で追い上げられて爆発しそうだ。唇をずらしてソールの喉へ舌をはわせ、強く吸い、歯を立てる。甘い声がきこえる。名前を呼ばれたような気がする。内部の熱が高まっていき、クルトは抱いた腰に自分の中心を強く押しつけ、ゆすりあげて――
そして目を覚ました。
まだ興奮が残るなか、汚れた下着が気持ち悪かった。
「ええっと、つまり、俺は――」
なんだか間が抜けている、とクルトは思った。
しかも声に出して確認しているなんて、いったいどうしたんだ、俺は。俺は――
「ソールが好きなんだ」
そのとたん、またも頭のなかでたくさんの鐘が鳴った。
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