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【第1部 書物の影で】19.ソール

 道は白く、なだらかな坂道となってずっと先まで続いていた。  僕はすこし汗をかいている。馬車を使わず歩くことにしたら、思ったよりも道のりが長かったのだ。 「だからいったじゃないか」と僕の横を歩きながら彼がいう。「いくら気候がよくても、遠いって」  彼のひたいに汗が光る。旅行用のマントはぬいで背中の荷物にひっかけて、深緑の上着も前をあけている。 「馬車賃がもったいないだろう」と僕はいいわけがましく答える。 「着いてからヴェイユに払わせればいい」 「今さらいっても遅いよ」  この道はゆるやかに上り下りをくりかえしながらヴェイユの別荘へ続いているはずだ。坂道のむこうの景色はうつくしかった。木立が散らばるみどりの牧草地で白い点が動く。羊だ。道ばたには黄色い花が咲き、整然と畦を切った畑地に蝶が舞う。木々のあいだを抜けると、曲がった道の先にどこまでも青く海が広がる。 「ソール、そんなにめずらしいか?」と彼が笑う。 「何が」 「海。さっきからそっちばかりみてる」 「悪いか」と僕はこたえる。 「どうせ僕は田舎者さ」 「ここだって田舎だよ」 「ちがう種類の田舎だ」  彼はまた笑う。「たしかに」  ざあっと草をゆらして風が吹く。嗅ぎなれない海の匂いがする。ちらちらと光る水平線が視界に入るたび、僕は浮き足立つ。彼がまた僕をじろじろみている。 「着いたら、浜まで行けるさ」という。 「何が」僕は彼をにらみ、何の話をしているのか知らないふりをしてきく。 「海だよ。砂浜で遊べる」去年もここへ来たという彼は勝手知ったる調子だ。 「浜の先には洞窟もあるんだ。明日は小舟を出してもらおう。いい場所がある」  彼の言葉に僕は子供のような期待で心がわきたち、うれしくなるが、顔は無表情を保とうとする。もっともそんなふうにしてみたところで、彼には全部さとられている。眉毛があがったりさがったりして笑いをこらえているらしい。なんとなく悔しい。 「ほんとうは歩くのは歓迎なんだ」突然彼はいう。 「こんな風にソールと並んで歩いたり、できなくなるからな」  彼はもうすぐ王都を離れることになっている。出身地でもある西方の町に治療師として赴任するのだ。  と、わざとらしくため息を吐いて、「あーあ。課題課題でうんざりしていたのに、いざ離れるとなると教室がなつかしいなんて、不思議なもんだ」という。  僕は彼のためらいや不安、未知のものに対する漠然としたおそれを感じとる。未来は僕らそれぞれにあって、どうすることもできなくても、彼の力になりたいと思う。 「きみがいなくなっても教室はそこにある」と僕はいう。 「戻りたくなれば戻ってこれるさ。治療師の先輩だって、師に直接教わるためにときどき学院へ来るじゃないか。それに僕はなんとしても学院にいるつもりだから、また会える」 「そうだな」と彼はつぶやく。  僕らは小さな集落を通りぬける。道は石畳になり、左右は陽の光で白く照り映える漆喰壁の家々だ。窓台に赤い花が咲き乱れ、屋根は濃い青色、扉はあかるい緑に塗られている。集落をぬけても石畳の道はつづき、ゆったりと曲がって、その先に白と青の屋敷がある。 「遅いと思ったら歩きで来たのか」  屋敷の前にはヴェイユが腕を組んで立っていた。 「待ちくたびれたよ」 「ソールが馬車は嫌だというんだ」  彼は玄関に荷物を下ろし、上着をとってあおぐ。 「こんなに遠いと思わなかっただけだよ」僕はいいかえす。 「知ってたら乗ったさ」 「馬車だと景色がみえないからな。徒歩でよかったのさ」と彼がいう。 「ソールはずっとそわそわしているんだ。浜辺へ行こう」  空には雲ひとつなく、海の匂いがする風が吹きわたる。花壇をふちどる小石が白く輝き、まぶしさに目がくらむ。 「ソール?」  あやうくインクが垂れるところだった。  僕はまばたきしてペンを置き、まだ濡れている文字に吸い取り紙をあてた。ランプの光がやわらかく書いたばかりの文字を照らす。インクの匂いに嗅ぎなれた虫よけのハーブの香りが混ざる。 「邪魔だった?」  クルトが僕の顔をのぞきこんでいる。ランプの明かりでおちる影が、彼の整った面立ちを際立たせ、僕はどきりとした。かがんだ胸元からかすかに麝香の香りがただよった。 「いや。居眠りしかけていた」  僕はなんとか言葉をひねりだした。過去の記憶に一瞬意識が飛んでいたのだ。書きかけのリストを見返して汚れていないのに安堵したが、クルトの気配は去らない。  逆だ。髪が触れそうなくらい近くに寄っている。 「休憩しろよ。きっと働きすぎなんだろう」という。 「このリストを書き終えたらな」  できるだけそっけなく返して、僕は手をふった。 「すこし離れてくれ」 「邪魔?」 「近すぎる」  クルトは体を起こしたが、しぶしぶといった様子だった。 「なにか手伝えることは?」という。  僕は彼を見上げた。「何をしにきたんだ?」  クルトは床から紙袋をもちあげた。 「前に会ったとき、次はごちそうしてくれるといわなかったか?」 「聞き間違いだろう。僕がいったのは、ごちそうなんてできないが――だ」 「そうそう、そうだった。だから持ってきたんだ」   紙包みを取り出してみせる。料理のいい匂いがした。僕は急に食欲を思い出した。こともあろうに、小さく腹が鳴る。  僕は赤くなったが、クルトは邪気なく笑いかけた。 「ほら、休憩が必要だろ?」 「リストを書き終わったら、だ」 「じゃあ俺は用意するから」  止める間もなく学生は店の奥へ入りこんだ。うしろから「終わったら一緒に食べるんだからな」と快活な声がいう。 「おい……」僕は立ち上がって何かいおうとしたが、あまりにもあっけらかんとしたクルトの雰囲気にのまれてしまい、また椅子にへたりこんだ。鼻唄が響き、湯を沸かしているらしき音もする。  なんだ、あいつ――  厚かましさに苛立つ一方で、妙に嬉しい気持ちもあって、僕は混乱した。キッチンからはずっと鼻唄が聞こえている。  勝手にさせておけばいいじゃないか。  そう自分にいい聞かせ、僕はリストの続きに取りかかった。貴族の屋敷回りに備えた売りこみリストで、魔術書コレクターの系統別に売れそうな在庫をカタログから拾っていくのだ。ペンを走らせるうちに熱中して、まわりの音を忘れる。 「まだか?」  また麝香の香りがした。今度の僕は用意ができていた。ペンを置き、インク瓶の蓋を閉めて、書きおえたばかりのリストを隅によける。相手が離れるのを待つためわざとゆっくり動いたのに、まだ麝香の香りが近い。 「ほら、もういいだろう」  いきなり手がのびて僕の手首をつかんだ。 「食べようぜ」  まるで親猫がいやがる仔猫の首を咥えて運んでいくようだった。僕はするっと手を引かれ、奥へ連行され、キッチンの前の小さなテーブルに座らせられていた。焼きたての香りがするパンと、パンに塗るパテ、肉の惣菜と果物の皿があった。  クルトはワインの栓を抜いている。 「何が好きかわからなかったから、適当に選んだんだ。嫌いなものは残してくれ」  と、グラスにワインを注ぎながらいう。 「――嫌いなものなんてないが」  僕は途惑っていた。 「きみは――その」 「何?」 「いや……その、なんというか……貴族らしくないな」  すぐに後悔した。違和感をうまく言葉にできず、余計なことをいってしまった。  しかし僕の困惑をよそに、クルトはにやっと笑った。 「それ、褒め言葉だよな?」 「褒めてはいない」  思わず真顔で返すと「なんだ、そうか」とつぶやく。本気でがっかりしているらしい。 「学院の寄宿舎じゃ、貴族らしくないってのは最大の褒め言葉なんだぜ。やっと素でそういわれるようになれたと思ったのに……」 「学院はともかく外ではまずいだろう。ちがうんだ。単に――僕より食事の支度がうまいから、違和感があるといいたかっただけだ」  クルトの表情がぱっと明るくなる。 「だったらこれで良かった? 好き?」  テーブルをさして無邪気にいうので、僕は思わず笑ってしまった。 「ああ」  クルトは満面の笑みを浮かべ、僕はそれを正面から見てしまった。ズキリと痛みのようなものが走った。  この学生を嫌うなんて不可能だ、と思う。不可能なんてものじゃない、好意を持たずにはいられないだろう。 「ヴェイユの講義はどうだ? 順調か?」  どうしたらいいのかわからなくなり、僕は動揺を悟られないよう、手近な話題を振った。 「順調といえばそうだが、先週の課題で――」  クルトの話を聞きながら、これなら適切な助言ができると安堵する。十歳かそこら歳下の学生なのだ。いくら美形でも、妙な方向に煽られるのは困りものだ。  クルトはワインを注ぎ続け、僕は久しぶりに満腹するほど食べたと思う。満腹という感覚をしばらく忘れていた気がした。クルトが帰ったのは夜も更けた頃で、僕はその前に店を施錠し、裏口から彼を送り出した。 「なあ、また来ていいか?」とクルトがいう。 「聞きたいことがあればな」と僕はいった。  ワインのおかげですこし酔って、すぐ近くに立つクルトの匂いにもくらくらした。まったく、反則もいいとこだ。 「それなら、きっとすぐだ」  次の一瞬だった。クルトの両腕がのびて僕を抱きしめる。友人同士のようなゆるい抱擁なのに、麝香の香りが僕を包む。  ――全身が溶けそうだ。  僕はあわてて体をもぎ離した。いうべきことを探す。 「ヴェイユを甘く見るんじゃないぞ」 「ああ、わかってる」  明るい緑色の眸が僕を透かすようにみつめた。クルトは小さくうなずき、ふりむいて、歩き去った。

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