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【第1部 書物の影で】20.クルト

「クルト、おまえ変だぜ」とアレクがいった。 「そうかな――そうかもな」  さあ来たか。いささか構えながらクルトは答えた。  講義の合間の暇な時間である。最終学年の学生の大半は教室にあまり用がなく、個人的に師事する教師の私室と自室との往復で過ごしていることが多いが、クルトはヴェイユ師の講義の準備のため、頻繁に学院の図書室へこもっていた。  結果、アレクとは自然に空いた教室で落ちあうことが多くなり、特に用がなければそのままだらだらと雑談することになる。  変か。変ね、とクルトは思う。アレクがいわんとすることはわかっていた。  たしかに俺はかなり変だ。最近。 「ああ。おまえ――浮かれすぎだ。おまえの放送、最近はほとんどうるさいくらいだ。止めてくれ」  その話か。アレクの言葉にクルトは肩の力を抜いた。それだけなら別に、どうということもない。 「悪いが、あれはやめようと思ってやめられるものじゃないんだ」 「だったら制御法に強い師に相談しろよ」とアレクがいう。 「そんなに困ることか?」クルトは逆に問いかけた。 「俺は困ってないし、教師も何もいわないぜ。礼をいわれたことはあったが」 「まあ、リューマチでいつも機嫌が悪いニッツ師も最近は優しいしな……たぶんおまえのせいで」  クルトはむしろ自慢げに鼻を鳴らした。 「それなら問題なんて、ないじゃないか」  実際クルトの〈放送〉は特に問題にされることではない。そもそも学院の外の念話ができない人びとには影響がないし、学院の外の訓練を積んだ魔術師たちは、この程度で集中をそがれたりはしない。  しかしアレクからクルトに届くのは、いささか困ったような思念だった。つまり本音のところ、アレクはすこしばかり途惑っているのだった。長いつきあいの親友であるクルトが、今までにないくらい浮足立っているということに、である。アレクはクルトの変調の原因にも見当をつけていたが、親友が自分にはっきり伝えないのも、彼にとって若干のわだかまりとなっていた。  クルトもそんなアレクの機敏は察していたのだ。だがいかんせん、クルトは今、忙しかった。それどころではなかった。 「問題はないとしても、どうしてそこまでお花畑なんだ? 最近つきあいが悪いのと関係しているよな。もちろん」  アレクが茶化すように訊ねるのに「おい、お花畑はないだろう」とクルトは憤慨してみせる。 「おまえの放送、きらきらした花をまき散らしているようなもんだ。話せよ。水臭い」  クルトにしてみれば、水臭いといわれるのも心外だった。だがたしかに彼は今、誰か――アレクでもニコラでも、気軽に訊ねられる友人――に助言をあおぎたいことはあった。 「実は、聞きたいことはあるんだ」とアレクへ持ち出してみる。 「どうしたらいいかよくわからなくて」 「だからいえよ」 「その……」正直なところを打ち明けようとして、クルトは迷った。 「――好きになった相手に好かれようと思ったら、何をしたらいい?」  アレクはクルトの顔をしげしげと眺め、そして大きく、わざとらしいため息をついた。  今日、クルトは地下書庫でソールをみつけた。  書庫のどこにソールがいるか、クルトはかなり見当がつくようになっている。騎士団の用向きで調査に来ているときは、地下二層で過去の犯罪記録を探していることが多い。審判の塔が直接ソールへ仕事を頼んでいるときは、地下三層の奥、魔術関係の記録を扱っている場合がほとんどだ。  クルトの方にも地下書庫へ来る用がまったくないわけではない。だから最初はなにかと口実をつくって地下書庫へ行き、ソールを探した。実際これはヴェイユ師の講義にも非常に役立った。師が言及する前に必要な項目を調べ終わるという僥倖もあったくらいである。  運よくソールが書庫にいれば、なにやかやと手を出し、彼の仕事を手伝う。ちなみにこれも直接的ではないにせよヴェイユ師の講義に役立った。結果論にすぎないが、資料を扱う方法を実地に学ぶことになったからだ。  しかしクルトの目的は本来そこにはない。彼の目的はソールだけだった。今日もソールをみつけると、いそいそと近寄っていく。  幸い、ここでクルトと出会うことにこの頃ソールは慣れたようだ。クルトをみても驚いたふうもなく「探し物はあったか?」と聞く。 「俺の用事は終わったから、手伝うことはないか?」 「本当にそうなら、いいが――」  ソールが眉をよせるのをみて、クルトは先回りした。 「こっちの勉強にもなるんだ。手伝えることがあったらさせてくれ」 「そうか? それなら、この――」と、ソールは取りかかっている紙の束をしめす。  書庫で作業できる空間といえば、壁に埋めこまれた小机か、書棚のあいだの狭い空間しかない。だからソールに触れそうになるくらい近づくのは役得、いや不可抗力というものだ――とクルトは内心思いつつ、ソールにいわれた作業をこなす。  ソールは何をするにもていねいだ。繊細な指が、まっすぐに揃った文字を紙の上にしるしていく。地下書庫独特の、古い紙や変質したインクの匂いがただようなか、ふとしたはずみにソールからふわりと香りがたつことがある。それはクルトをうっとりさせるが、多少――あくまでも多少――冷静に自分をふりかえると、ずいぶん変態じみているとも思うのだった。  しかたがないのだ。何しろクルトは、完全にソールに恋をしていた。  恋は盲目とか初恋は特別とか、世間でいわれるこの手の話についてクルトはこれまでまともにとりあったこともなかったが、いざ自分がそんな事態に陥ると、対処のすべを持っていなかった。変態じみていようがしかたないのだ。それに――と、つねに前向きなクルトは思った。  俺は恋に落ちた。それはあきらかだ。  じゃあ、俺は何をしたいか? 何を望むか?  クルトにとって答えは一直線だった。もちろん、ソールのそばにいることだ。そしてあわよくばソールにも――いや、それはまだ先の話でいいのだが、とにかく、彼の近くにいるのが当たり前になることだ。  こうして、迷惑に思われないよう、もちろん自分の内心がともすると変態じみていることもさとられないよう、細心の注意を払いながらソールの手助けをする。相手は魔力がなく、ふつうなら感じとれるはずの思念がまったく放射されないので、クルトはいっしんにソールを観察していた。作業が終わるとなんとか雑談に持ちこみ、都合があえばソールと一緒にカリーの店までいく。これが最近のクルトの「日々の達成目標」となったわけである。  カリーの店まで一緒に行けば、さらに書店の仕事を手伝うこともあるし、書庫を出るのが夕刻なら、連れ立って歩く道すがら食べ物を買いこみ、店で食べる場合もある。  横を歩く砂色の髪の男に恋をして、いかにどきどきしていようが、変態じみたことを考えていようが、クルトにとって幸運だったのは、彼が稀に見る美形だったことだろう。それに腐っても貴族の子弟だからふるまいは垢抜けている。  おかげではた目にはこれといって間抜けなこともなかったが、内実はただの恋する若者だった。  そして、恋する若者というのは基本的に間が抜けているものなのである。  地下書庫にいないとき、ソールはカリーの店にいるか、さもなければ商売の用事で出かけている。カリーの店の路地でよくパイプをくゆらせている老婆は近くの金物屋の女主人で、ソールが店に不在のときも商店街のどこにいるのか、不思議とよく知っている。クルトが頻繁にソールに会いに来るようになると、やがて行先を教えてくれるようになった。  クルトは老婆にも時折パイプの葉をおごることにした。  結果として、クルトは地下書庫だけでなく、カリーの店にも足しげく通っていた。向かうときは必ず手土産をもっていった。少し高めの酒や果物。手触りのいい布巾。弾くと澄んだ音が鳴るグラス。透かし入りの便箋。  カリーの店に贅沢なものは何ひとつなかった。もちろんソールの商売物である、高価な稀覯本は別だ。それ以外は身に着けるものから口に入れるものまで、すべてが質素だった。眠るのは書物で埋めつくされた階上の部屋で、どうみても、生活の道具や衣類、寝具より、書物の方が多いのだった。  今日はもう夕方だから、ソールはこのあとカリーの店へ帰るのではないだろうか。先週彼が気に入ったようにみえた、南の果物を買ってはどうだろう――などとクルトは考え、そわそわしそうになる。そして落ち着け、と自分にいいきかせる。  相手は物静かな大人の男だ。ソールとの最初の数回の出会いでは、クルトは物を知らない子供のように自分の愚かさを露呈したのだから、これ以上馬鹿だと思われたくなかった。  一方ソールはというと、クルトが示すおおっぴらな好意に、最初はあきらかに困惑していたようだった。迷惑というより、不思議そうな顔でクルトをみるのだ。そのたびにクルトはどうしたものかと迷ったが、拒絶されることもなかった。だからクルトは、自分がほしかったからという口実で、せっせと小さな贈り物を持ちこんだ。  ソールに自分を気に入ってほしかったし、好きになってほしかった。加えてそばにいることを許してほしかった。  しかしクルトは心もとなかった。なにしろ――アレクは涙を流すほど大笑いしたが――クルトには経験がなかったからである。誰かを好きになって、その相手に好かれようとした経験が。  それこそクルトにとって、誰かに好意を抱かれ、それをおおっぴらに示されるのはよくある出来事だった。おまけに魔力で相手が放射する情念は感じられるし、念話が可能な相手とはすぐに精妙な感情のやりとりもできる。  しかし自分だけが一方的に気持ちをよせて、しかも相手の気持ちがわからない、などという状況はおよそ縁がない。  それにソールは拒絶こそしなかったが、確実にクルトに対して線を引いていた。クルトが過剰に接近すると――ソールの髪に触れそうになったり、指と指がかすめたりしたときだ――さりげなく遠ざかり離れていく。  クルトが笑いかけると、花が咲くようにぱっと白い顔に赤みがさし、クルトの方をみつめることもあるし、ふと視線を感じて目をあげると、ソールの方がクルトをみていることすらあった。  しかしクルトが視線を返すと、表情を固くして顔をそらし、何もなかったようにふるまうのだ。  自分が男だからだろうか、ともクルトは考えてみた。精霊魔術の使い手にありがちで、クルト自身は愛しあうのに性別を気にしたことがないが、一般ではそうでないことくらいよく知っている。  だがソールもかつては精霊魔術の使い手だったのだし、何より例の騎士――ラジアンとソールの間にあるものは、本人がいくらただの友人といったところで、そうは思えなかった。もちろんふたりがつきあっていないという事実はクルトには歓迎すべきことだった。  誰ともつきあっていないのなら、早いところ告白するというのはどうだろう? ともクルトは頭を悩ませる。  しかしそれで、自分に何の興味もないとか、こんなに歳が離れていてはお呼びじゃないとかいわれてしまったらどうしよう。それならまだしばらくの間、ひたすら好意を示し続ける作戦の方がいいのではないか。  何しろ念話の通じない相手なのだ。ソールが自分をどう思っているのかはソール本人に聞くしかない。もっとも出会った当初のように嫌われてはいないだろう、と、クルトはこの点だけは確信していた。  むしろ好かれている方ではないだろうか。学院の課題を手助けしてくれるのは親切の範囲かもしれないが、クルトが笑いかけると照れくさそうに伏し目になるとか、書店の奥の小さなテーブルで向かいあって飲み食いしている最中に、たまたま触れ合った指の熱さとか……  加えて最近のクルトの夢は、きわどいどころでは終わらず、完全に一線を越えていた。夢の中にはもちろんソールが現れるのだが、甘い声でクルトの名を呼び、クルトの首に腕を回し、口づけをねだるばかりか、それ以上の行為にもおよぶ。もちろん今、目の前で静かにペンを走らせているソールからはまったく想像もつかないことだ。なのにクルトの夢ときたら、不埒もいいところだった。 「クルト?」  呼ばれる声にクルトは夢想をふりはらう。 「あ、ああ」 「僕はそろそろ終わるんだが。疲れているのか?」  ソールが机に肘をつきクルトをのぞきこんでいた。眸がはかり知れない暗い色をたたえ、ソールが何を考えているのか、クルトにはわからなかった。 「ソール、これから店に帰る?」  クルトの問いに「いや。この後は約束があってね」とソールは答える。 「約束? 誰と?」  クルトはつい追求するような声を出してしまい、まずいと思ったが、ソールは他のことに気を取られているようで、気にした様子もなかった。 「商談だ。昔からの顧客に会うことになっている」 「遅くなるのか?」 「そうだな。夕食のついでにという話だから」  残念だったが、古書の取引にクルトの出る幕はなかった。今日はこの書庫で会えただけで幸運だったのだとクルトは思い、名残惜しい気分で道具を片づけるソールを眺めていた。荷物をまとめるソールのひたいに砂色の巻き毛が垂れかかっている。  ふとクルトは前に出て、意識せずにソールへ手をのばしていた。ひたいにおちる柔らかな髪をかきあげ、うしろへ撫でつける。以前書店の上の部屋で、眠っているソールの髪を触ったように。  びくっとソールがふるえた。  はっとして、クルトはわれに返り、ぱっと手を離した。 「あ……悪い」  ソールは顔をそむけ、首をふった。何もいわずに荷物を抱え上げる。 「きみも僕につきあってないで早く帰れ」とおだやかな口調でいう。  通路を先に行こうとする後ろ姿にクルトはあわてて声をかけた。 「明日――夕方、書店に行ってもいいか?」  かすかなため息――呆れられたのだろうか?――が聞こえた気がした。そのあとに続いた言葉は変わらずおだやかだった。 「ああ。かまわんよ」

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