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【第1部 書物の影で】21.ソール

「これ、美味いぜ?」  上目づかいの得意げな顔で、クルトがスプーンを差し出した。赤い果実が埋めこまれた焼き菓子がのっている。層になった金色の皮に果実の赤が照り映え、宝石のようだ。 「焼き菓子なのにやわらかいから、すくって食べないと」 「そうか」  突き出されたスプーンへ手をのばすと「いいから、そのまま」と口元へ先端を押しつけてくる。  夕刻になるとカリーの店へクルトがあらわれるのがすっかり恒例行事になってしまった。彼は勝手知ったる様子でキッチンを使い、僕の仕事が落ちつくのを待って休憩に誘ってくる。奥の小さなテーブルで向かいあわせに腰をおろし、お茶を飲みながらクルトと雑談するのは悪くない気分転換で、僕も断れなくなっていた。  毎回クルトは商店街や屋台でみつけたという茶菓子やつまみを、まるで料理人のような解説を加えながら供するのだが、時たま、今のような暴挙に出ることがある。 「ほら、口をあけて」  とクルトがいう。  緑の眼はどこへ向かっているのかよくわからない期待でいっぱいだ。拒絶など考えてもいないらしいが、実際、絶世の美男子にこんなことをされた日にはどうしたらいいのか。  そんなわけで僕はなし崩しに受け入れてしまう。口の中でほろりと皮が崩れ、酸味のある赤い果実と、その下のクリームが混ざった。 「なあ、美味いだろ?」 「そうだな」  スプーンを奪おうとしたが、さっとひっこめられてしまった。いきなりクルトの指がのびて僕の唇をぬぐう。 「クリームがついてる」  クルトはぬぐった指をなめ、邪気なく笑った。僕は頬が熱くなるのを感じてうつむいた。まったく何を考えているのか。自分の行為が他人にどんな効果をあたえるのかくらい、当然知っているだろうに。 「貴族らしくない礼儀作法だな」わざとそっけなくいった。 「そう、学院仕込みさ」クルトは平然としている。 「親御さんが泣くんじゃないか?」 「いや、礼儀作法というのは状況に応じて使い分けるべきだ。父の屋敷で客人に対するのと下町で物を買うのとじゃ、それぞれに応じた作法を使うもんだろ?」 「ずいぶん口が減らないな。それがこの店での礼儀作法か?」 「うん?」  クルトはなぜかまた右手をのばしてきて、僕はそれを払おうとしたが、反対に捕まえられた。指相撲の形で僕の手を握りこむと、クルトはにやにやしながら早口で十数え「勝った」という。  今度こそ僕は彼の手をふりほどく。手のひらから伝わる熱が心臓まで達したかのようで、動悸が速くなる。 「何が勝っただ」 「うん?」  クルトはまた笑う。今度はさっきのいたずら小僧のような笑みではなく、どきりとするような官能的な笑みだ。見透かすような緑の眸から僕は視線をそらし、テーブルに置かれた彼の手をみつめる。手のひらは大きめで、指は長く、爪がきれいに整えられている。僕はうっかりその指が自分の唇に触れたことを思い出してしまう。まえに、おなじ指が僕のひたいに触れ、髪を触ったときの感触も。  いいかげんにしろ。僕は自分にいいきかせる。妙な誤解をするな。自分からおかしなゲームへ巻きこまれる気か? クルトは――遊んでいるだけだ。精霊魔術の学生がどんなものかなんて、よく知ってるだろう。 「ソール、今日はまだ終わらないのか?」  クルトがたずねてくるのに、ぶっきらぼうに答える。 「もうすこしだ」 「俺に手伝えることがあれば……」 「今日はきみ向きの作業はない」僕は立ちあがる。 「ここで遊んでいるのはきみの勝手だが、学院の方は大丈夫なのか?」 「あんたのおかげでとても快調だ。感謝してる」  さりげなく投げられたその言葉に胸がつまった。まったく大袈裟な反応だと、僕はまた自分にいい聞かせる。クルトは僕がいられなくなった教室にまだいるのだ。だからといってつまらないきっかけで感傷的になっているなんて、馬鹿馬鹿しい。  とはいえこのごろの僕は、クルトにずいぶん感心していたのだった。いちばん最初に会った時こそ無礼で傲慢だと思ったが、クルトはよく勉強していた。僕に質問する内容も要点を押さえたもので、たずねられることで逆にクルトの理解が深いことがわかる。  クルトはヴェイユやかつての僕が専攻していた魔術理論とはまったく異なる分野、つまり政策の専攻だったはずだから、たいしたものだ。もともと頭の切れる若者なのだろう。しかも精霊魔術の使い手だから当然、人心を把握し、動かす技術はお手の物だ。さらにこの外見と身分ときている。  そんな彼が、何を思ったか頻繁に僕の前に現われ、質問をしたり僕を手伝ったり――クルトにいわせると、これもヴェイユの講義では役に立つらしい――するなら、心が傾いていくのは当然というものだ。  危険な兆候だった。 「終わったら食事に行くか、ここで食べようぜ」とクルトは快活にいい、僕はうなずく。  先代から続く顧客名簿の前に戻り、作業をつづけながら、僕はときどきクルトがいる方向をみてしまう。均整のとれた体はいつも上質の服に包まれて、立っているだけでも絵になる。腹立たしいくらいだ。クルトのちょっとした動作から目が離せなくなり、つい追ってしまう自分をどうにかしたかった。彼に気づかれないように、最近僕は意識して視線をはずしていた。  もっともクルトの方は、こんなふうにみられることなど日常茶飯事で気にならないのかもしれない。彼が僕をどう思っているのか僕にはわからなかった。もちろん興味は持っているだろうが、それはどんな興味なのか。魔力を失くす前であれば、他人が何を感じているのかわかりすぎてむしろ困ったくらいなのに、今の僕には縁がない。  クルトが近くにいるといつも嬉しさと歯がゆさのまじったもやもやした気分になる。僕のすぐ近くで彼が棚の書類を取ったり、整理したり、差し向かいで食事をすると、ときおり麝香のような、すこし甘い官能的な香りが漂う。  そのたびに僕は体の芯がうずくのを感じ、思わず身を引く。  クルトはここへ来るたびに何か持ってきた。果物や酒だったり、ちょっとした物――「自分が飲むための」グラスや、刺繍のついたテーブルクロスなどだ。彼が持ってくるのは上質なものばかりで、色彩も肌触りもよく、心が浮き立った。  彼はいつも「自分がほしかったから」といったが、僕に気をつかっているのは明らかだった。それに僕の店にはクルトが慣れ親しんでいるような上質なものなど、何もないのだ。いろいろと持ちこみたくもなるのだろう。    困ったことに、最初の出会いこそ剣呑だったが、今の僕はクルトの存在に慣れてしまった。これはほんとうに危険だった。僕は彼の周囲にいる人間の中ではずいぶんな変わり種だろうから、その興味も結局のところ、好奇心や目新しさに過ぎないだろう。そしていずれ、彼は飽きるのだ。  周りの学生たちやこれから彼が出会う人々に紛れ、僕はやがて忘れられる。そして僕だけが覚えていることになる。クルトが目の前で僕に笑いかけ、自分の失敗談を面白おかしく語って僕が思わず吹き出してしまったときのことや、店の書棚を整理する僕を手伝っているとき、すぐ近くにクルトの顔があり、手が触れあって、僕らふたりともがなぜか沈黙してぎこちなくなった瞬間のことを、僕はひとりでこの店で思い出すのだ。  誰もがクルトに惹かれるのは当然だった。彼は愛されるために生まれてきたような人物だ。けれど僕自身がどうしようもなく彼に惹かれてしまうとなると、それは癪な話だった。なにしろ逆はない。クルトが僕を――など、想像しがたい。  十年前、魔力を失う前の、愚かな自負と自信にあふれた僕なら違ったかもしれない。しかし今の僕は魔力欠如者で、しょぼくれた、しがない古本屋の店主だ。  いずれにしても、クルトがここへ来なくなればさびしく感じるのは目に見えている。だからそもそも彼を意識するべきではない。まるで恋でもしているかのように、眼で彼を追うべきじゃない。  そう理性は判断するのに、ともすると彼の腕に抱きしめられたいと感じている自分自身にも僕はうすうす気づいていた。これも癪に障ることだった。なにしろ相手は十歳だかそこら年下の学生なのだ。  ちくしょう、と僕は内心悪態をつく。反則だらけだ。ほとんど屈辱的だ。だからといってべつにクルトが僕を侮辱しているわけではない。僕が僕の人生にうんざりしているだけなのだ。  自分の人生に責任をとれるのは自分だけだというのに。 「最近よく出かけるけど、どこへ行ってるんだ?」  クルトは肉の煮込みを皿に盛っている。いつのまにか彼と懇意になった金物屋の女主人が鍋ごと差し入れてくれたものだ。彼女はうちの店の近くでよくパイプを吸っているが、僕は世間話もろくにしたことがない。クルトはいつの間に知り合ったのだろう。 「古くからの顧客を回ってるんだ。在庫の売り込みに」 「へえ。売るんだ、本を」 「本屋だからな」 「俺にはなかなか売ってくれなかったくせに」 「相手はコレクターだ」  煮込みはこってりして美味だった。食べながら僕は顧客について簡単に話した。  カリーの店の客は三種類だ。学生、魔術師、そして収集家。収集家はさらに貴族と羽振りのいい商人に分けられる。商人は投資のために買いあつめている場合もあるが、貴族のコレクターにそんな半端な者はいない。  魔術書にかぎらず、書物を美術品と同じように集め愛玩する人びと、憑りつかれてしまう人びとがいる。彼らの手に渡った書物はほぼ手放されることがない。個人や家系の宝として保管されてしまう。そうなった書物は他の誰にも読めなくなってしまう。  本音をいうと、僕は貴族のコレクターにあまり売りたくなかった。売る時はもったいをつけてできるだけ高値で売ったが、なぜかその方が彼らも喜ぶのでおあいこだろう。  だから僕がリストを片手に彼らを訪ねるのは、稀というよりむしろ非常事態だった。これもルイスの手元にある例の片割れを手に入れるためだ。売り込みの結果はぼちぼちというところだった。定期的に取引のある貴族には、古典魔術のとある三冊揃い(作者の死後に「書き換えられた」伝説のある特異なエディション)が売れ、返事待ちも一件ある。しかし、貴族の多くは仲介者を通さずに直接訪ねられるのを疎んじる。それほどの売り上げにはならないだろう。 「金の工面をする必要があってね」  皿に残ったソースをパンでぬぐいながら、僕はそうもらしていた。店の内情など他人に話すことではないのに、クルトに対して僕はずいぶん無防備になっていたようだ。  クルトは眉をひそめた。 「そんなに大きな支払いが?」 「欲しい書物があって、頭金がいるんだ」 「あまり……余裕はないんだろう?」 「これに関しては特別だ」  飲んでいた酒のせいもあったのかもしれない。僕の口はゆるんでいて、クルトに対になる魔術書について話した。失われたと思われていた書物がまだ存在し、対になる双子もあわせて奇跡的に発見された経緯について。 「学院の図書室に再収蔵できればほとんど歴史的な事件といえる――僕にとってだが」  クルトは黙って僕の熱弁を聞いていた。 「でも高価なんだろう?」 「ルイスは真の価値を知らないからぼったくっているつもりだろうが、今の話を知ればもっと上げてくるだろうな」 「その本、ソールが買うべきなのか?」  クルトはさらりといった。特に意見をする口調ではなかったが、僕は黙りこんだ。 「あ、悪い」あわてたように付け加える。「歴史的な価値があるものなら、ソールが買い戻すのではなくて、むしろ学院や王宮まわりに出資させればいいんじゃないかと思っただけだ」 「学院――は、たしかに協力してくれるだろうな」 「この手の文化的な出資で外聞をよくしたい宮廷貴族もいるだろう。よかったら俺が調べてみようか? 父を通じて紹介できるかもしれない」  さりげない申し出だった。悪くない話でもある。同時に、クルトの立場でなければ思いつかないことでもあった。  僕はふと傷ついたような気分になった。学院に協力をもとめるくらいなら僕でも考えられるが、宮廷の権力者を通じて出資させるなど、しがない下町の古本屋に思いつけることではない。仮に思いついたところで、つてのない僕に実行できることでもない。  急に自分がひどく無力な存在だという気がした。僕は食べかけのパンを置き、ワインを飲み干した。どのみち本音をいえば、他の誰かの手にあの本を渡したくないのだ。うつむいて皿を眺めながらつぶやく。 「そうかもしれないが――僕がほしいんだ。僕が買い戻したい」  なぜならかつて図書室にあった本が失われたのは僕のせいだからだ。だから僕が取り戻したかった。取り戻して学院の図書室へ帰したかった。そうすれば僕にもすこしは何かが戻ってくるような気がしていた。錯覚でもいいから、その感触がほしい。 「だったら、俺が貸すのは?」  またさらりとクルトがいった。 「父の金じゃない、俺の信託財産がある。そこから出せると思う」  僕はクルトをみつめ、ぴしゃりといった。 「きみがそんなことをするいわれはない」 「でもソールには、俺は教授料を払ったっていいぐらいだと思うんだ。ヴェイユ師の講義をうまく泳げているのはソールのおかげだと思う。だから……」 「それはきみ自身の努力だろう」僕は苛々といった。大金を貸すだのなんだのと、さらりと口に出すクルトが信じられなかった。 「きみの学業に僕は関係ない。それにこの書物についても、きみは関係ない。余計なことをいうな」  ひどく落ちこんだ気持ちになった。自分の無力さと、あっけらかんとしたクルトの余裕を思った。悔しいというのでもない。ただ力の差を見せつけられてみじめになっただけだ。  これだけはっきり告げたのだからクルトは黙ると思っていた。だが彼は僕をまっすぐにみて、さらにいいつのった。  「でもソールは本当はコレクターに売りたくないんだろう? そのリストにある本は、もっと別の人に渡ってほしいんだろう?」 「どうせ僕は商売が下手だからな」  もう黙ってくれ、と心の中ではクルトに願っていたが、また苛々と僕はいう。 「コレクター向けにきちんとやればもっと売り上げは立つんだ。販路を開拓して……」 「俺が貸せば当面その必要もなくなるじゃないか。無理をする必要もなくなる」 「僕がどんなふうに働こうがきみの知ったことじゃないだろう」 「駄目だ、ソール」  何が駄目だというんだ。  眼の奥に熱いものが上がってきて、いつしか僕は激昂していた。そもそもなぜこんな話になっているのかもよくわからない。クルトが金を貸す、などというのがいけないのだ。僕に対して彼がそんなことをする何の理由もない。ちょっとした物を恵むこととは次元が違う。 「何をいってるんだ、クルト。だいたいきみは何の権利があって僕に指図する?」 「権利――」クルトはテーブルの向こうからまっすぐ僕をみていた。 「権利なんてない」 「じゃあ、なんだ」 「そんな話じゃない。俺は――俺はあんたが好きなんだ」  僕はぽかんと口をあけていたような気がする。  クルトは僕から視線を動かさなかった。 「何だって?」と僕はいった。 「聞こえなかったか? あんたが好きなんだ」  クルトがまたいう。僕を刺すようにまっすぐにみつめている。 「指図したつもりはなかった。好きだからいったんだ。あなたが好きだ。ソール」

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