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【第1部 書物の影で】22.クルト
その瞬間のソールはまるで彫像のようだった。みひらいた目がクルトをみつめている。次の一瞬で息をふきかえし、まばたきをした。ついで出てきた言葉はひどく平坦なものだった。
「馬鹿をいうな。嘘だろう」
こんな反応を望んだのではない。クルトは焦った。
「ちがう。ソール――」
「僕をからかってるのか? それともほかに何か目的があるのか?」
「ほかの目的? そんなものはない。俺は――」
クルトはもっと気の利いたことをいおうとしたが、言葉がうまく出てこなかった。そもそも、こんなふうに告白するつもりもなかったのだ。先ほどからのやりとりの間になにかを間違ったのは感じていた。自分ではいい考えだと思った提案が逆にソールを苛立たせ、しかも怒らせてしまっていた。
たぶん告白するには最悪のタイミングだろう。それなのにもう言葉は唇を離れてしまった。
「俺は……」
「いいかげんにしてくれ」
突然ソールは毛を逆立てた猫のようにクルトをにらみつけ、立ち上がった。口調は静かだったが、低いところから吐き出すような声で、テーブルの上でこぶしを握っている。
「そんなに僕をからかって楽しいか? 出ていけ」
「俺はからかってなんかいな――」
「もうここに来るな」
下を向いてソールはいった。嗚咽を隠そうとするようなくぐもった声で、クルトは焦って立ち上がった。
「ソール」
なだめるように声をかけるとまたこちらをみたが、眸が暗く濡れていて、それが自分のせいだと思うと胸が痛む。
「嘘じゃない。あんたが好きなんだ」
思いをこめていう。だがソールは顔を振り、目をそらした。
「なぜそんなことをいうんだ? いくら僕が魔力なしだからって――そんなふうに侮辱しなくていいだろう」
こぶしを握ったままのソールの手がテーブルの上で震えている。
「ソール、俺は嘘なんてついていない。あんたに惹かれてる。ずっと――だ。最初に会ったときからずっと気になって……」
「それは僕がきみの思い通りにならない人間だからさ」
ソールはふたたびうつむき、吐き捨てた。
「きみの魔力は僕には通じない。きみには僕は〈視えない〉。そんな珍しい――」ソールは短く罵り言葉を口走って、「――珍しいやつをみかけて、好奇心をそそられたんだろう。欲しいものはなんでもハイハイと手に入るきみにとっては、僕みたいな――わけのわからん人間はちょうどいい暇つぶしなんだ」
クルトは思わずソールににじりよった。ソールの言葉は聞き捨てならなかったが、ひとつのことは認めざるを得なかった。たしかに最初、一番最初に出会ったとき、クルトはソールが〈視えない〉ことに驚いたからだ。
「そうだ。あんたに魔力がないから、俺はあんたが気になったんだ。でもどうしてそんな風にとるんだ? 暇つぶしなんかじゃない。俺は……こんなふうに誰かを――好きになったことなんて、これまでないんだ。だから……」
「きみは――」
クルトを避けるようにソールは腕を組むと、うしろに一歩下がった。
「きみは――何だっていえるさ。僕を好きだって? そりゃ、よかったな……きみはそうやって、すぐにいえるんだ。自分の望みを――きみは思ったこともないんだろ? けっして口に出せない望みがあるなんて……きみは何でも持ってるし、余裕たっぷりでなんでもできる……」
またも眸が大きくみひらき、あふれたしずくが頬をつたい、流れおちる。
「馬鹿なことをやって失敗して、つまらない金策に右往左往してる僕みたいなのをみてるのは面白いだろ? おまけに余裕たっぷりで金を出すなんていえるんだ――なんとかこの店をやってきても……僕はこの先も……僕はけっしてきみのようにはなれない。きみは――持てる者だからな」
こんなはずじゃなかった、と歯噛みするような思いで、クルトはソールの涙が床におちる音をきいた。ここに至るまでの自分の言葉をすべて元に戻してやりなおしたかった。
もちろんそんなことができるはずはない。
「ソール、怒らせたなら悪かった」
クルトはまた一歩前に出て手をのばし、ソールに触れようとした。
パシっと音が鳴るほど強く振り払われる。
「俺は……あんたの力になりたかっただけなんだ。あんたが好きだから」
「きみが何をいったところで、それがほんとうかなんて、僕にはわからない」
たしかにその通りだ。だが――ふとクルトの中でいきりたつものが生まれる。
「だったらなぜ俺がからかってるなんて思うんだ。俺が嘘をついていると?」
ソールはにじりよるクルトからまた一歩さがった。おしのけるように手のひらを前に突き出し、首をふる。
「誰だってきみの魅力には勝てないさ。きみはいつでも自分の欲しいものを手に入れられる。いつも明るい光のなかにいて――誰でもみんな……僕だって……」
クルトは一歩近づいた。ソールの声は小さかった。ひとりごとのようだった。
「僕がきみに惹かれていないとでも思うのか? きみは――」
ソールの眸からまた涙がおちる。クルトはまた一歩寄った。
「きみは……ひどいよ……」
「ソール――泣かないで」
うつむいたソールの顔に砂色の巻き毛がたれかかる。クルトはその髪に触れたいと願い、許されるのかと迷い、迷いながらすぐ近くに迫って、ささやいた。
「俺のことが好きじゃない?」
ソールは首をふった。
「俺のことが好き?」
ソールはまた首をふる。
「馬鹿なことを聞かないでくれ」
「ソール」
「僕には、きみはわからない。僕にはもう――感じられないんだ……僕はもう……」
「ソール」クルトは両手をのばし、ソールの痩せた肩をつかんだ。
「魔力なんて必要ないんだ」
彼のかかと、そして背中が壁にあたり、身をよじるのを両手で押さえる。
「俺があんたを好きだってあんたがわかるために、魔力なんかいらない」
唇をかさねた瞬間、ソールの体はするどく緊張した。手がクルトの胸をおしのけようとするが、クルトは片足をソールの股のあいだに絡ませ、両腕を腰にまわして抵抗をふさいだ。むさぼるように唇を押しつけていると、しだいにソールの背中がゆるみ、腕の力が抜けおちる。
「あんたが好きなんだ。ソール……」
唇を離し、みつめながらささやくと、それがまるで苦痛でもあるかのようにソールの眸がうるみ、涙がこぼれた。
「やめてくれ」とかぼそい声がいう。
「そんなの、嘘だ」
「嘘じゃない」
また唇を重ねる。今度はやさしく、ついばむように落とす。口づける音が響き、そのたびにソールの身体が溶けたようにやわらかくなり、クルトの方へ押しつけられてくる。
すでに一方的な口づけではなかった。唇が触れ、離れ、また触れる。ソールの背中に腕をまわし、手のひらで布の下の熱をなぞると、絡めた足のあいだにこもる熱量を感じた。ソールの唇からは熱い息がもれ、ぎゅっと握る手がクルトのシャツをつかんでいる。
「クルト――」と、名を呼ばれる。
「好きだよ」クルトはささやく。
「クルト――」
「ああ、ソール。可愛い――もう……俺はどうしたらいいか――」
「クルト――」
ソールが呼ぶ。吐息とともに泣き声のような言葉がもれる。
「なんでもいい――僕はもう……もう……」
壁におしつけられた背中がゆれ、ソールの全身がこらえきれないようにがくがくとふるえた。
「クルト……僕を……めちゃくちゃにして……」
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