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【第2部 痕跡の迷路】1.扉を開ける

 どうやらソールは毎晩、眠りにおちる直前まで本を読んでいるらしい。  クルトがそう悟るまでたいして時間はかからなかった。  毎夜、階下の店を閉め、片づけを終えて階上にいくと、ソールはまず寝台にもたれかかって座る。この部屋には椅子もなく、寝台と身の回りのものが入った棚と、あとは書物。そして書物にほぼ隠れてしまった壁際には書棚が立っている。奇妙なことに書棚にはほとんど本が入っていなかった。  寝台に落ち着くと、ソールは周囲に積んである書物の山から一冊引きぬく。ページをひらくとたちまち内容に没入して、周りで何が起きても気にしないし、聞こえなくなるらしい。  そのまま眠ってしまうことも稀ではないようで、ソールを説き伏せて裏口の鍵を手に入れたクルトが朝早く彼のもとを訪れると、寝台に起き上がってまだぼうっとしているソールの肌に、書物の痕がくっきり残っていることもある。そんな日は、ソールはクルトが用意した朝食を食べながら、またランプの油を無駄にしたとこぼしたりする。  ここまで集中して本を読む人間にクルトはこれまで会ったことがなかった。しかもソールは読んだ本の内容をすべて記憶しているのだった。どのページに何が書いてあるのか、たずねれば即座に暗誦するのにクルトは舌をまいた。  だがクルトが遅くまでソールの店にいて、なんだかんだと都合をつけてまとわりつく子犬さながら階上の寝室までついていくと、彼はいったん取り上げた本を置いてクルトを見る。 「まだ帰らないのか? 寄宿舎が閉まるぞ」 「ソール」  クルトはそっと近寄ってソールの肩に腕をまわす。なんだか人間ではなく、ひと慣れない猫を相手にしている気がする。脅かさないように気をつけないと山になった書物の影へ逃げてしまうのだ。触れても拒絶がないのに安堵しながら砂色の巻き毛に顔をうずめる。 「もう少し」 「クルト」 「ソール……好きだ…」  耳元でささやくとソールの体が一瞬ぴくっとふるえるのがわかる。それは驚きなのか、拒否なのか、それとも期待なのか。クルトは慎重に読み解こうとする。ソールは謎の多い複雑な書物で、簡単にページをめくらせてくれない。これまでクルトが知っていた他の人間たち――やすやすと心の中を見せてくる者たち――とは、まったくちがう。 「キスしていい?」 「……クルト…」  ため息のような小さな吐息と共につぶやかれる自分の名は、拒絶のしるしではない、そうクルトは学習している。細いあごに手をかけてついばむように唇を重ねる。何度も口づけをくりかえすうち、ソールの吐息が熱くなり、緊張が解けてやわらいでくる。これも悪くない兆候だ。クルトはほとんど彼に覆いかぶさるようにして「泊まっていきたい」と耳元でささやく。またソールの身体がふるえ、腕がクルトの背に回る。 「しかたないな……」とつぶやきが返る。  クルトはそのままソールに覆いかぶさり、唇をあわせながら靴を脱ぐ。ソールの手がクルトの頭のうしろへ回り、奥までさぐりあう深い口づけになる。ソールは口づけが好きなのだ。眼を閉じたまま舌と舌をからめていると、痩せた体が押しつけられ、自然にふたりの足がもつれる。クルトはソールの襟元へ指をしのばせ、片手でシャツのボタンをはずす。胸の突起をつつくと下の体がびくりとはね、ずれた唇から声がもれる。 「あっ……」  自分の声に驚いたようにソールは眼をあけ、唇を噛む。眸がクルトの視線と一瞬からむが、すぐにそらされてしまう。 「噛んじゃだめだ」クルトは指でソールの唇をおしあける。「声をきかせて」 「いやだ」 「どうして? ききたい」 「いやだからいやだ」  クルトはかまわずソールの喉から胸元へ唇を押しつけていく。堅くなった左右の胸の突起を愛撫すると、ソールの唇からは抑えきれない声がもれる。クルトはあわただしく自分のシャツの前をあけ、裸の胸で温度を感じながら、臍や脇腹まで愛撫をつづける。下衣を脱がせ、おたがいのすでに濡れている先端を擦りあわせると、ソールの唇からはもはや余裕のない喘ぎが発せられて、クルトをますます興奮させる。  学院では定評のある書店の経営者で、自分より十歳は年上の男をどうしてこんなに可愛いと思ってしまうのか、クルト自身にもわからなかった。自分の唇や指の動きに反応するソールの表情のすべてが愛しくて、いつまでも見ていたいと思う。肌と肌を重ねあわせ、愛撫に我を忘れて乱れる姿はクルトの胸の奥の方をかきまわし、かすれた声をきけばきゅっとしめつけられるようになって、また心がふるえる。  直接肌を触れあわせていると、クルトにとって謎のかたまりであるソールという存在の、ページをすこしだけ開くことができるような気がする。そのせいか、単に痩せているだけでなく調子が悪そうな日も多いソールのため、もっと自制しろと理性が警告を発しても、ついついやりすぎてしまいがちだった。  そして翌朝ソールのだるそうな顔をみたとたんクルトは焦り、母親のように食事を用意したり、店を開けるのを手伝ったりして、彼の世話を焼いてしまう。  自分にそんな世話焼きの側面があったというのはクルト自身にも意外な発見だった。魔力によって相手から放射される気分や情念を読むのではなく、自分から相手の様子を観察し、相手の望むものを想像する過程にこれほどの充足感がある、ということも。  ソールはクルトに世話を焼かれると、いつもすこし途惑ったような表情をして、それから静かに礼をいう。大げさな反応は戻ってこないが、しかしちょっとした――ほんとうにちょっとした――うなずきやしぐさ、寄せてくる体の気配から、クルトは自分が受け入れられているのだと理解するときがたびたびあった。そうすると安堵とともに胸の中に暖かい気持ちが広がるのだった。  ゆっくりでいい、とクルトは思う。ゆっくりと、もっと俺のことを好きになってほしい。だからあまり激しくしないように、寝台で抱きしめるときも――あくまでも自制が効く範囲でだが――気をつかった。  クルトがカリーの店に行ったとき、ソールが施療院の薬を飲んでいた日が一度だけあった。その日はソールの様子はいつもとまったくちがった。いつもより饒舌で快活に話すだけでなく、なついた猫のようにクルトに自分から寄ってきて、クルトの肩に腕を回したのだ。たまらずクルトが抱き寄せるとソールの方から口づけをねだった。そしてクルトの服を脱がせ、舌と繊細な指でクルト自身を愛撫し、さらには自分から上になって奥にクルトを受け入れる。  その夜はクルトがこれまでさんざん妄想していたエロティックな夢が現実になったようで、自制どころではなかった。しかし翌朝ソールはひどく不機嫌で、けっしてクルトと眼をあわせようとしなかった。早く帰れ、今日は来るなとそっけなく告げられたクルトはしぶしぶカリーの店を後にしたが、懲りない様子で翌日の夕刻また店へ行くと、ソールは静かにクルトを受け入れてくれて、ふたりで向かいあって食事をした。  今のクルトにとっては、ソールと一緒に過ごす時間すべてが貴重だった。夏が近づき、王立学院の学生たちは何回かに分けて実施される最終試験のため浮足立ちかけていたが、逆にクルトは冷静だった。クルトの意識はソールを中心に回るようになっていたからだ。  鼻唄の〈放送〉はほとんどなくなったが、ヴェイユ師の授業は順調にこなしている。学院を終えた後の進路についても、本気で動き出すころあいだった。だがクルトの意識はずっとソールと、いまやソールに関係すると彼が確信している、もうひとつの謎にあった。  それはいつか、ヴェイユ師が学院の図書室でクルトに不意打ちを食らわせたあの日以来、棘のように刺さっている謎だ。  そう、あの図書室――十年前火事で燃えたあの部屋で、いったい何が起きたのか。そして奥の遮蔽された空間――あれはいったい何なのか。

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