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【第2部 痕跡の迷路】2.右に曲がる
「ソール、この床の本、しまわないか?」
ある朝クルトがそういった。
僕はまだ毛布の下でけだるさに襲われてうとうとしていた。毛布をかきわけて声の方をのぞくと、クルトは下だけ穿いて上半身は裸のまま、腰に手をあててこの部屋の壁を埋める空の書棚を眺めている。肩から腕、背中から腹まで引き締まった筋肉に覆われている。均整のとれた石膏像の見本のような姿だ。ぼうっとみつめていると僕の方をふりむき、にこりと笑った。
「なあ。本棚があるんだから、入れようぜ」
僕は笑顔の直撃をくらっていうべき言葉をみつけられず、首をあいまいに振ってしまう。クルトはそんな僕をみて、またにこりとして、書棚の方を向いた。
「それにしても、どうして床に積んであるんだ?」
「あ……いや、分類して収納するつもりだったんだが、忙しくて追いつかなくて……」
僕はなんとか言葉をひねり出した。いくら寝起きでも笑顔にみとれるなんて馬鹿なことはやめろ、と自分を叱咤する。
「先代のカリーの頃、この部屋のそっち――書棚がある側は中央が壁で仕切られていて、未整理本の収納庫だった。僕がここで暮らすことになったとき、壁を壊して一部屋にしたんだ。本は運び出す予定だったが、人手の都合がつかずにそのままになっていた。何度か整理しようとしたんだが、時間がとれなくてそのままだ」
クルトはまたこちらをふりむき、眉をあげる。
「先代のカリーはここに住んでいたわけじゃないんだな」
「彼は郊外に家を持っていた。亡くなってからは親族のものになったが」
ふうん、とうなずき、そして明るくいった。
「じゃあその整理、俺がやるよ」
僕はあわてて毛布をはねのけた。
「いや、こんなことをきみに頼めない」
「頼まなくていいよ。俺がしたいんだから」
クルトは天井に届きそうなほど積まれた書物の柱や、足元に鍾乳石よろしく上へのびている書物の層をぐるりとみやった。
「地下書庫で分類法も教わったことだし、やりがいがありそうだ」
「クルト――」
「わかってる。今日はしないよ」
彼は書物でできた尖塔や山脈のあいだをひょいひょいと、積み上げられた本を崩しもつまづきもせず寝台まで戻ってくる。床に膝をついて僕がはねのけた毛布を取り上げ、広げて僕の肩にまたかける。そうしながら顔を近づけて、ささやく。
「ソール、今日は休みだといってたよな?」
「――ああ、まあ……」
「だったらもう少しここにいよう」
そして寝台にあがりこむと自分も毛布の下にするりと入って、僕を自分の腕の中にいれた。
すべての動作が自然でなめらかで、僕はほとんどあっけにとられ、なされるがままになる。そういえば昨夜の情事の痕跡はいつの間にかきれいに拭われ、敷布すら乾いたものに替えられている。だが僕の体にはクルトがつけた紅い痕が点々と残っていて、彼はそこをたどるように唇で触れ、軽く歯を立てる。さすがにそれはないと僕は思わず声をあげる。
「クルト――もう朝だから……」
「休日なんだろ?」
「でも――」
「キスさせて」
そして唇が僕の首のうしろに押しあてられ、ぞくりとした感触が背筋を走る。
「もうしないから、キスだけ」
そうはいっても僕の腰のあたりに堅いものが当たっている。困ったことに、だるくてたまらないのに僕はそれが嬉しい。クルトが僕に欲情し、僕を求めてくるのは純粋な喜びで、求められると自分でも驚くほど敏感に反応してしまう。背中から腰、つま先まで彼の唇が触れ、舌でなぶられると声がもれるのをとめられないし、正面から抱きしめられると安堵に全身がとろける。そして彼が僕の中をゆっくり突き上げると、貪欲に腰を振ってしまう。
クルトはそんな僕の反応を楽しんでいるようだ。体を重ねるとき彼は完全に主導権を握っていて、僕はあらがうことができない。ほんとうのところ、僕はあらがえないのが嬉しいのだ。彼に抱かれているあいだは何もかも投げ出していいのだという気持ちになる。十も年下の学生に翻弄されながら、僕の一部はプライドなどくそくらえだという。別の一部はまっこうから否定するが、クルトに触れられると結局は無駄な抵抗になってしまう。
僕にはいまだ完全に信じられないが、クルトは僕が好きだというのだった。いや、何度も何度もそうささやかれて、僕もなかば信じかけている。実際、少なくともいまはそうなのだろう、と僕は思うようになっていた。彼が飽きるまではそうなのだ。
世間で知られている「クルト・ハスケル」がどんな人物なのかという情報は、簡単に集められた。最近宮廷で存在感を増している貴族ハスケル家の嫡男、きわだった魔力で王立学院ではほとんどスター扱いだ。討論では独創的な提案で周囲を驚かすという。思いやりがあって社交性に富むので人望は厚く、同級生だけでなく後輩からも慕われているらしい。
過去につきあいがあった者は男女問わず多いが、誰も長く続いていない。許嫁もいると噂されているが、彼のような貴族であればめずらしいことではなかった。
これらの情報から僕に推測できる事態は以前と変わらなかった。つまりいずれ時間がたてばクルトは僕に飽きて離れていくだろう、ということだ。今は毎日のようにやってきては僕をかまうが、やがてその間隔があき、たまにしか来なくなり、どこかですれ違ったとしても僕に気づくこともなくなり、何となく終わるのだ。そして僕はずっと覚えているだろう――彼のことを。
でも、こうなってしまったのはそれとして、最初から終わりがわかっているのならむしろいいじゃないか、とも僕は思った。これはあまり楽しいことがなかった僕にふってわいた、ちょっとしたご褒美のようなものなのだ。それに僕は終わったあともずっと覚えていることができる。だからクルトと過ごす時間は良い記憶、明るい記憶だけが残るようにすればいい。彼にとってもその方がいいだろう。
とりあえずそう考えるのは悪くないように思えた。
いくつか困った点があるとすれば、まず、僕はここ数年、楽しいとか嬉しいと感じたことがなかった、という事実に気づいてしまったことだ。記憶に呼び起こされる過去の喜びではなく、まさに今感じることとしては……。そしてクルトが僕の生活にそんな明るいものを持ってくるたびに、僕はクルトの方へますます傾き、ずぶずぶとハマっていくのだ。
加えて、僕はひとりの夜がどれだけ孤独だったのかにも気づいてしまった。何年間も、書物さえあれば何の問題もなく、むしろ誰かいると面倒だとすら思っていたはずなのに、最近クルトが来ない日はさびしくてたまらない。
だから彼が来ない日はその分仕事にうちこむことになる。どうせ生活のためにはがむしゃらに働かなくてはならないのだから、正解だろう。
それでも何度か、落ちこみのあまり仕事も手につかず、どうしようもない夜があった。だからこのごろの僕は、クルトが来ない日は先に薬を飲むことにしていた。激しく落ちこむと消耗するので、薬で予防した方がいい。
もっとも一度だけ、薬を飲んだあとでクルトが店に来たことがある。この時はまずかった。
クルトが現れたのは薬が効きはじめたころで、僕は彼の顔をみるなりすっかり嬉しくなってしまったのだ。僕はまるで昔の――学生の頃のようにはしゃいで彼にまとわりついた。それだけでなく自分から口づけてクルトを欲しがり、彼がこたえると勢いづいて彼の服を脱がせ――その後のことは思い出したくもない。残念ながら覚えているのだが。
クルトはやさしかった。いつも僕を気遣い、食事を用意したり、働きすぎるなと小言をいったり、野外での遊びに連れ出そうとする。
王都を離れて何日か海辺の町へ行こうと誘われたこともあった。王族同士の婚姻でつながりが深い隣国の海岸は、川と森に囲まれたこの国とは気候がちがい、貴族にとって手軽な避暑地だ。クルトの家も別宅を構えているらしい。
「駄目だ、そんなの」
僕は話をすべて聞く前に却下した。
「どうして?」
「仕事がある」
「休んだっていいじゃないか。それにソールは海が好きなんだろう?」
これには不意をつかれた。クルトにそんなことを話した覚えはなかった。
「なぜ?」
「すごく楽しそうに海の話をするじゃないか。本に書いてあることだけじゃない、街で聞いた話や天候のこととか」
「――勘違いだ」僕はクルトを平静に見返した。「好きってわけじゃない」
「そう?」クルトは笑った。
「俺はソールのことがかなりわかるようになったと思うんだ。これには魔力なんて関係ないからな。ほんとは海、行きたいんだろ? 当たってるだろ?」
「残念ながらハズレだな」
僕は冷たくいったのに、クルトはくしゃっと顔をほころばせる。
「いつか連れて行くから」
ひとつだけ、僕が絶対に避けたいことがあるとすれば、クルトに直接金を借りるとか、店の経営に彼が干渉することだった。カリーの店はあいかわらずで、なんとか回っているくらいだが、これまで通り地下書庫での臨時仕事で調整すればどうにかなる。
ただ、例の本を買うための金策についてだけ、僕はクルトの提案を一部受け入れた。興味を持っている貴族を紹介してもらったのだ。魔術書そのものに思い入れはないが、歴史的な価値のある貴重品を学院へ寄付することで名をあげることを望む人びとも、たしかにいるのだった。
出資者の家名で学院の図書室に贈与することを条件に取引が成立し、これで僕はルイスに半額支払った。全額を出資金でまかなえなかったのは、ルイスが値をつりあげてきたからだ。とはいえ現物は来週にも手に入ることになっている。結局これもクルト・ハスケルのおかげで、僕はますます彼の方へ心の天秤を傾けていった。
そして今も、毛布の下で僕を抱き寄せ、クルトは動物のように僕の髪に鼻をうずめている。今日はたしかに休日で、店は開けない予定だった。日は昇っている時間なのに部屋は薄暗かった。雨が降りはじめたようだ。屋根をぽつぽつと叩く音がきこえる。
「どうして本を片付けようとするんだ?」と僕はきく。
「そしたら部屋が広くなるだろ?」とクルトはいう。
「そうしたらなんだっていうんだ?」
「もっと広い寝台を置く」
「そんな――」僕が抗議しかけたとたん、クルトは姿勢を変え、僕の上にのしかかってきた。
「寝台はこれでいいか。足りてるから。部屋が広くなったらもっと楽しいことをしよう」
「もっと楽しいことって……」
「そうだな」クルトは僕の眉毛を指でなぞる。
「踊らないか。一緒に踊ろう」
「僕は踊れない。それに音楽がない」
そう僕はいう。できるだけぶっきらぼうに。
「俺が歌ってやるさ」
クルトはひたいにかかる僕の髪をかきあげ、指にくるくるとからめた。「どんな歌がいい?」
「歌にはくわしくない」
「ソールでも知らないことがあるって、いいな。じゃあ俺が教えてやるよ」
そしてクルトはハミングする。とても美しいメロディだ。どこかで聞いたような気がするが、思い出せない。僕の記憶は完璧なはずなのに。
もしも完璧な幸福というものがあるなら今の瞬間がそうではないか、という思いが突然僕のなかにわきあがる。いずれクルトは他の誰かをこんなふうに抱きしめながら歌うようになるかもしれない。でもこの記憶は僕のものだ。僕は覚えていられるだろう。
ハミングのうしろで雨音がきこえる。本降りになったのだろうか。
眼を閉じた僕にクルトがささやきかける。
「ソール、眠った?」
「起きてる」
「俺を見てよ」
眼をあけるとすぐそこにクルトの顔がある。僕らは唇を何度も触れあわせる。おだやかでおちついて、とてもいい気分だった。雨音にまじって、どこからか歌がきこえるようだった。
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