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【第2部 痕跡の迷路】3.左に曲がる
『クルト、最近放送を聞かないけど、首尾はどうなの?』
ニコラが唐突にたずねた。
『――何の話してるんだ』
クルトは聞き返す。
学院の食堂で軽食を食べている最中だった。サールやアレクなど、いつもの友人たちも同じテーブルについている中、なぜ念話で話しかけるのかといえば、他の連中に聞かれたくない話だからだ。
『だから初恋の相手とうまくいってるの? それとも逆なの?』
『えっ……』
『ああ、うまくいってるのね』
一言も話していないのに、ニコラは理解してしまったようだ。念話というものの厄介な特徴だ。とはいえ彼女へ伝わったのはあくまでもクルトのこそばゆいような喜びの感覚にすぎない。
『学院の人じゃないんでしょう? いつか紹介してもらえるのかしら』
『えっと……』
『すぐには無理なのね。でも私ほんとに楽しみにしているのよ。クルトから誰かを好きになるなんてはじめてだから』
これまた、意味のある言葉を返さなくてもクルトの消極的な姿勢はニコラへ通じてしまったが、いちいち説明や理由をいわなくても意思を理解してもらえるのは、念話でつながれる友人同士ならではのことだった。ニコラからは温かい微笑の感触が届く。あきらかに楽しんでいるのだが、クルトをからかっているわけではなかった。
『たしかにそうだけど、ニコラがなぜ嬉しそうなのか、理由がわからないな』
『あなたとにかく、学院を出て王宮へ入ることしか興味なかったじゃない。それって私たちのような人間にはあまりいいことじゃない』
『どういうことだ?』
『自分の目的のために他人を使うようになるからよ』
ニコラはさらりと告げ、あっけにとられたクルトを置いてきぼりにして、アレクやサールとの会話に戻った。
友人たちにはソールについて話していなかった。クルトは隠そうと思っていたわけではない。ニコラのようにそれがクルトの「初恋」だとたまたま知った者もいる。問題はソールにあった。カリーの店の外でクルトが恋人同士のようにふるまおうとすると、あきらかに態度が硬化するのだ。
クルトにしてみれば、これまでつきあいのあった男女同様、ソールを街で堂々とエスコートしたり――眼鏡を再調整してからというもの、ソールが街でつまづくことは格段に減ったようだが――恋人らしくいちゃついたりしたかったのだが、一歩店の外に出るとソールの態度は一変するのだった。
友人たちの多くはクルトに何か起きたと察してはいたが、クルトの方から積極的に話す気がないとわかると追及しなかった。学院では色恋沙汰はあけっぴろげなのが普通だから、相手が学院の関係者ならいずれ知られる、というのもある。
ソールのふるまいの理由をクルトは本当の意味では理解していなかった。ともあれ今は恋人の機嫌をそこねたくなかったし、慣れの問題とも思っていた。時間をかければソールの態度も変わり、クルトの友人たちへ紹介できるようになるだろう。
第一、ソールは外があまり好きでないのだ。王都は彼には「うるさい」のだという。外出のたび、ソールはできるだけ静かで自分がよく知った道を選んだ。たまに郊外へ行こうとクルトが誘っても、疲れるからといって拒否されるのが常だった。
ソールへの気持ちで寝ても覚めても頭がいっぱいのクルトは、当然のように、別れが来る可能性など考えてもみなかった。だから想像もしなかった。
――いまどれほど親密だとしても、いずれクルトは自分に飽きるにちがいない。だったらふたりの関係について他人の余計な詮索や好奇心を集めたくない――そんなソールの考えは、クルトには思いもよらぬものだった。
「ちがう、クルト。それは自然誌だ。並べるなら順番はこの前だ」
クルトは手に持った薄い冊子をみつめる。糸で簡単に綴じられただけで、革表紙の書物のあいだに挟まれば簡単に見失ってしまいそうだ。
「隠れて見えなくならないか?」
「そうだな……」ソールは眉をよせる。
「このさい、きちんと製本してもいいんだが……」
「売り物でいっぱいいっぱいなのに? あっちの棚に分けよう」
「うーん……」
ソールはあごを指でつまむ。癖なのだ。クルトにはそれが可愛くみえてしかたがない。他人に見せるわけでもない蔵書の並びでこれだけ悩むソールも可愛くてしかたがない。惚れた欲目とはいったものである。
「いいじゃないか。糸綴じ本だけで並ぶのもきれいだし」
「そうかもしれない」とソールはうなずく。
寝室に積まれた本の整理は想像したよりずっと楽しかった。地下書庫や店でソールにつきまとっていたおかげでクルトに必要な知識が身についていたから、というのもあるが、もしかしたらソールと一緒に何かをなしとげられた、というのが一番の理由かもしれない。
もともとクルトは、何かを達成することそのものが好きだ。目標を立て、方法と手段を考えて計画し、調達し、実行して、結果をふりかえる。小さなことでも何かをなしとげられるならそれだけで満足する。整理や分類のような地味な作業は得意でも好きでもなかったが、ソールの部屋でふたりきりで、ふたりの空間のためにやるのだと思うと、自分でもびっくりするほど気持ちが高揚した。
それにクルトとソールの組み合わせは予想外にうまくいったのだ。完璧主義のソールはともすると途中で考えこんでしまうのに対し、クルトはある程度で見切りをつけ、予定通り終わらせることにこだわった。
そしてクルトにも思いがけないことに、ソールはそんなクルトに何度も譲歩して、それもあって作業は順調に進んだのだ。何年も放置されていたという寝室は短いあいだにみちがえるほど片付いた。
もともとこの部屋には売り物の未整理品が置かれていたというだけあって、ソールは書物の一部を店で売るために階下へもっていき、売り物にならず興味もない本は屑本としてカゴへ放りこんだ。一度は先代が仕入れたまま放置していた貴重な書物も発掘され、そうなると宝探しめいた期待も多少生まれる。
ある日、ソールが階下から戻ってきたとき、クルトは床に座りこんで釘が打たれた木箱をバールでこじあけていた。
「ああ、クルト、それは……」
「ん? あけちゃまずかった?」
だがクルトはもう箱の中に手をのばしていた。膝におさまるほどの大きさの箱だが、ぎっしり魔術書が詰めこまれている。どれもページの端はよれ、付箋が貼られ、革表紙はぼろぼろになっている。ざっとみた感じでは精霊魔術の実践に関する専門的なものばかりだ。
「へえ……」
「クルト」
ソールの口調に気づかず、クルトは上にあった1冊を取った。付箋がはらりと落ち、余白の書き込みが目につく。行がそろい、どれだけ小さくても判読できる几帳面な筆跡には見覚えがあった。
「クルト」
「――もしかしてこれ、ソールが使っていた本か?」
「クルト……」
はっとして顔をあげるとソールが見下ろしていた。暗い眸がみつめていたのはクルトではなく書物の方だった。ソールの唇がかすかにふるえ、クルトは彼が泣きだすのではないかと思ったが、静かに言葉がつむがれただけだった。
「クルト――その中に欲しいものがあったら、持って帰っていい」
「……いいのか?」
「僕の落書きが邪魔にならなければ。きみももうすぐ卒業試験だろう。役に立ちそうなら持って帰ってくれ」
「ソール、ほんとうに――」
「僕には不要だ。そんなに書き込みがあっちゃ、売ることもできない。きみがいらないのなら捨てるだけだ」
クルトは手にした一冊をめくって、こんな書き込みなら学生にはむしろ高く売れるかもしれない、などと一瞬思った。ソールの仕事を間近で見るようになった成果または弊害というべきか、クルトは最近およそ貴族らしからぬ思考をするようになっていたのだ。だがそんなことをソールにいえば台無しである。何しろこれは、ソールが自分にくれる、はじめての、そして貴重な贈り物なのだ。
「ありがとう。きっと役に立つと思う」
力をこめてそう答え、その日クルトは木箱の中身をすべて持ち帰った。
何度目かの休日、部屋のつきあたりに積まれた本をすべて書棚へおさめ、壁を覆った板を取り去ると、なんとその向こうに両開きの大きな窓が現われた。上半分が透明で下半分が模様のあるすりガラスだ。
壊れていた錠と桟を修理し、ふたりでガラスを磨き、窓をあけ放すと、店の前の路地から商店街の屋根まで広くみおろすことができた。
一日の半分は光が入るようになって部屋の印象は大きく変わった。クルトは古い敷物をまるめて裏口から放り出し、寝台を窓のそばへ移し、部屋の中央に明るい色の絨毯を敷いた。金物屋の老婆に口をきいてもらい、商店街で安く買い上げたのだ。
靴をぬいで絨毯に足を投げ出し、やりとげた充実感を味わっていると、静かな足音がきこえる。
「嬉しそうだな」とソールがいう。
「ああ、嬉しいし、楽しい。なあ、こっち」
ぽんぽんと自分の隣を叩くとソールも靴を脱いで絨毯に腰をおろした。膝をかかえて、まるで子供の座り方のようだ。クルトにとってはそんな姿勢も可愛らしい。ソールの腰に腕をまわしてささやく。
「な、こっちの方がいいだろ?」
「そうだな。きみがいったとおりだ」
ソールの口調は静かだが、表情はこれまでになく明るかった。
「踊りたくなっただろ?」
「いいや」
「教えるのに」
「きみは得意そうだ」
「まあね」
「それより……歌ってくれるほうがいい」
「そう?」
雲の間から光がさすようにクルトの中に喜びが満ちる。ソールがクルトに求めてくるといつもそんなふうに、おだやかに満足した気持ちになるのだ。ソールを抱きよせてそのまま絨毯に寝転がる。足をからめ、耳元でハミングする。ソールは眼を閉じているが、聴いているのはわかっている。
外で恋人同士のようにふるまえないとしても、ソールの部屋ですごす時間は日を追うにつれ、ますます充実したものになっていた。寝室が片付いてからクルトはソールと一緒に料理をするようになった。手のこんだものは作れなかったが、クルトは先代のカリーが使っていたらしい機械を勝手に使って温かい食べ物を調理した。
ソールは魔力のない自分に使えない装置をクルトが扱っているのをみても、何もいわなかった。小さなキッチンにふたりで立つのはままごとじみていたが、クルトだけでなくソールも楽しんでいるようだった。
いまだ面と向かってはっきり口に出しこそしないが――もっとも夜、寝台のなかでクルトが責め立てたときはのぞく――ソールが自分を、一方的に慕ってくる学生ではなく恋人として認めているとわかったのは、ラジアンが店を訪れた日だ。
クルトにとってその日は、ソールの気持ちがわかったがゆえに記念すべき日となると同時に、残念な日にもなった。
そろそろ閉店の時間だった。クルトは店に来たばかりで、仕事中のソールの前に腰をおろしていた。カリーの店にはいつの間にかクルトのための椅子が置かれるようになっていたのだ。クルトは肘をついて、締めの作業をするソールを眺めていた。
このごろクルトはソールの仕事ぶりをみて、小さな店でも経営するとなると意外に細かい仕事があるものだな、と感心することが多かった。売上を計算し、伝票を数え、請求書を送り、支払いの処理をし、顧客の台帳を整理する。貴族の身分にあれば身近にはなく関心もひかれないたぐいの仕事だが、ソールの生活に入りこむにつれ、クルトは自然と興味を持つようになっていたのだ。
クルトがみるに、ソールはこの手の仕事が好きではなさそうだったが、持ち前の完璧主義で完全にこなしていた。ラジアンの大柄な体躯が戸口に現れたのはそんなときだった。
「ソール、久しぶりだ」
「ん?」
ソールは顔をあげ、クルトの肩ごしに騎士をみる。
一方クルトには扉がひらく前から誰がそこにいるのかわかっていた。すばやく椅子を立って書棚の影へ向かいながら、戦闘意欲のような気分が理由もなく生まれるのを意識する。
「ああ、ラジアン。しばらくだな」
ソールは店にずかずかと入ってきた騎士へ気楽な調子でいった。
「元気か? 大丈夫なのか?」
「ああ、調子はいいよ」
ラジアンはソールをしげしげとみつめ、クルトはそのまなざしを横目にいれながらやきもきしていた。ソールの友人だからしかたがないが、さっさと出て行ってほしいと思う。
「しばらく会わなかったから少し心配していた」
「何事もないし、順調だ。ありがとう」
「あれからも気にしていたんだ。もっと早く来ようと思っていたんだが、なかなか時間がとれなくてな……」
「いいよ。おまえも忙しいだろうからな。それより無事に婚約できたか? いつ式をあげるんだ?」
ソールの口調はそっけなくもないが、熱がこもっているのでもなかった。クルトは勝手にラジアンをライバル視していたので意味もなく安心し、書棚のあいだを縫うようにしてさらに見えない隅へ行った。どうもラジアンはクルトの存在に気づいていないらしい。注意が散漫になっているようだ。
「式は秋だ。おまえも出てくれるとうれしい」
「もちろんだ。それに警備隊の騎士連中も全員並ぶんだろう? 隅の方にでも席を作っておいてくれ」
「ああ。ソール……その……」
「なんだ?」
「その――おまえが困ったことがあったら、どんなことでも手を貸すから」
「ありがとう。王城警備隊にそういわれると心強いよ」
「そうか」
奇妙にぎこちない会話だった。ソールの口調はごくふつうだが、ラジアンから放射される感情が複雑で、緊張しているのだ。彼は途惑っていた。他にソールに向けて放たれていたのは、友愛と同じくらい強い愛情、かすかな独占欲と嫉妬、心配、そして苛立ちだ。
「ソール、最近、あの学生とよく一緒にいるらしいな」とラジアンがいう。
クルトは隠れたまま聞き耳をたてた。
「どうしてそれを?」
「地下書庫でよく話をしているときいた」
「いろいろ手伝ってくれるんだ。勉強熱心だし、ここにも来る」
「商店街でも買い物をしているらしいな。貴族の坊ちゃんなのに」
「ああ、珍しいタイプだろう」めずらしく声をあげてソールは笑った。
「クルトのおかげでいろいろ助かってる」
ラジアンの声が低くなる。
「一応聞きたいんだが……その……つきあってるのか?」
とたん、ソールの声が平坦になった。「どうしてそれを聞くんだ」
「夜明けに裏口からあの学生が出てきたのをパトロール中だった城下の隊員が見ていたんだ。鍵を持っていたようだと」
「だったら?」
「――いいのか? その……精霊魔術の学生で、しかも貴族だぞ」
「関係ないだろう」
「だがな、ソール……」
「ラジアン、忠告の必要はない。僕は自分のしていることがわかっている」
「それならいいが……」
しばし沈黙が落ちる。そのあいだタン、タンと、ソールが机を指でたたく音が鳴る。そして口をひらく。
「ラジアン。僕とのよしみで、ひとつ頼んでいいか?」
「なんだ?」
「クルトと僕がつきあってる――恋人同士だと、まわりに――とくに王城や学院には知られないようにしてくれ。警備隊がうちを気にしてくれるのはありがたいが、僕は自分が誰かの噂になるのはいやなんだ。もう、こりごりだ」
「――わかった」
それから二言三言、挨拶をかわしてラジアンは出て行った。クルトは喜びと気がかりの混ざった複雑な気分だった。ソールが自分との間柄を他人に対して「恋人同士」と呼んだのはもちろん嬉しい。しかしそれを周囲に知られないようにしてほしいという言葉の真意は、はっきりとはわからなかった。もうこりごりとは、何がこりごりなのか。
ソールの前に戻ると、彼は肘をついてひたいに手を添え、考えこんでいるようだった。
「クルト」
「ん?」
「きみ、そろそろ試験だろう?」
「ああ、そうだが――」
「ちゃんと魔術実践の対策はしているか? あれは訓練時間がものをいうから、甘く見ているとしっぺ返しをくらう」
「大丈夫だ」
話の行き先を察したクルトは予防線を張ろうとしたが、遅かったのがわかった。椅子に座ってソールと眼をあわせ、衝動的に巻き毛に触れる。めずらしいことにソールも手を伸ばしてクルトの頬に触れた。
「僕は理論についてはみてやれるが、実践の対策にはまったく役立たずだからな。きみはこのごろ入りびたりすぎだ。そろそろ学院に青田買いも来る頃だし、まじめにやるんだ」
「――ソール」
「わざわざヴェイユの講義をとった意味がなくなるぞ。そもそもどうしてきみは最初、この店に来たんだ?」
クルトは答えなかった。ソールの髪を撫でる手を肩におろし、ひきよせる。ソールはあらがわなかった。机の上の紙片が散り、床におちた。
「今来ているのは、あんたが好きだからだ」とささやく。
ソールはまっすぐクルトの眼をみていた。眸は暗く、いまだに彼が何を考えているのか、クルトには計り知れなかった。
「試験が無事終わるまでは来るな。それに知ってるだろうが、王宮の推薦人は身辺の調査もする。よけいな――交友関係はないほうがいい。顧問団をめざすならなおさらだ」
「よけいって、俺は――」
「試験を終えて進路が決まれば暇になるんだ。そうしたら好きなだけおいで。きみが来たかったらな」
「もちろん」
ソールの暗い色の眸をみつめながら唇を重ねる。上唇を甘噛みし、耳たぶに指をはわせる。敏感な首のうしろを撫でながらささやく。
「でも――会いたいんだ」
「……僕もだ」
声は小さくてかすれていたが、クルトにはそれだけで十分だった。
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