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【第2部 痕跡の迷路】4.立ち止まる
「最近ずいぶん積極的じゃないか」
無遠慮な声でルイスがいう。いらついたとき、火のついていないパイプのふちを叩くのが彼の癖らしい。
「俺より先にハワード家へミゲルの完本を売りこむなんて、やられたぜ」
僕は足を組み、おちついてカップを持ち上げる。
「ハワード家は先代のカリーと長くつきあいがあったの、知ってるだろう。とだえていたのを復活させたのさ。あんたの先を越したわけじゃない」
ルイスは指を立てた。相手によって徹底的に態度を変える男で、こんな下品な動作はもちろん彼の得意先にはしないだろう。
「まあいい。残金の手形さえもらえば文句はないさ」
「その前に現物だ」
「あわてるなよ」
そうはいったが、ルイスは鞄を膝にのせて油紙の包みを取り出した。
「そっちがニールスに出資させると知っていたらもっと値を上げたところだぜ。幸運だったな、ソール」
「たまたま先に手に入れただけのくせに」
僕は手形と引き換えに包みを受け取り、心臓がどきどきしているのをルイスに悟られないよう声を平坦に抑えた。ルイスはふんと鼻を鳴らして手形をふところにいれる。期限は三か月。今の調子で売り上げが立てば大丈夫だろう。
なによりこれでくだんの書物は二冊とも僕の手元に揃った。修復とクリーニングをすませれば、半額を出資したニールス家を通じて学院へ寄贈することになるが、作業を終えて二冊を並べるのが楽しみだった。僕にはもう感知できないが、対になった魔術書は感応しあうのだ。
クルトなら――と僕は思う。彼なら二冊の書物が魔術的なレベルで呼応し、重なって真の姿をあらわすのが〈視える〉だろう。彼はいずれ学院の図書室でそれをみるかもしれない。きっと驚くにちがいない。
できるものなら僕の店で見てほしかった、とひそかに思った。
クルトに会いたかった。
すぐ近くでクークーと鳴く声が聞こえる。
寝室の窓を開けると屋根の庇と雨樋のあいだに羽根をまるくふくらませた鳩があつらえたようにおさまって、喉を鳴らしていた。虹色の羽毛に覆われた首をめぐらし、僕をみて驚き、ぱたぱたと飛び去った。
雲があっても空は明るかった。雨季もそろそろおわりだろう。部屋の中に光と風が入ってくる。カリーの店に通じる路地とその先の商店街の屋根がみえ、手押し車を押す朝の野菜売りの声がとどく。
十年ちかくこの部屋で暮らしていたのに、ここに窓があると僕は知らなかったし、こんな風景がみえるなど予想もしていなかった。この部屋がこんなに広いとも思っていなかった。僕は朝起きるのが楽になったのに気づいた。クルトが寝台を窓のそばへ移して、朝日を浴びるようになったせいかもしれない。
以前より食べられるようにもなっていた。このごろは毎日、広くなった部屋の絨毯の上で、むかし施療院で教わった体操をしている。この絨毯もクルトが買ってきたものだ。
クルト。
彼はしばらく店に来ていない。ひと月以上……いや、もうふた月近くになるだろうか。
僕が来るなといったからだ。王城で偶然会うこともなかった。
本格的な夏が来る直前、学院ではいくつか試験がある。魔術実践に関わる能力を試すもので、個人の魔力量に応じて負荷が変わる厳しい試験だ。
かつて受験した僕はよく知っていた。クルトは僕にかまって遊んでいる場合ではない。彼の魔力量を考えればかなり厳しい試練になるはずだ。感覚をどこまで広げられるか、どこまで〈視える〉か。高度な探知や遮蔽、コントロールの手法をどこまで会得しているか。
能力試験をパスして夏の休暇が終われば秋には〈審問〉がある。ここでは能力の極限での判断や倫理が試験されるのだが、これを通過すれば晴れて精霊魔術師と呼ばれるようになる。治療師となるため施療院へ実習に行った学生も、秋には一度戻ってきて審問を受ける。
一方で能力試験の前後から、王宮の政務部やその他の行政機関は有望な学生を探しはじめる。学生の方でも、自分がねらう進路に応じて教授推薦を受けたり、その他の推薦人と接触をはじめる。政策顧問団は進路の中でも最難関だ。能力だけでなく身元や交友関係も調査される。
だから彼に店に来るなといったのだ。僕の過去が彼の障害になるわけにはいかなかった。たった十年前のことだ。記録は簡単に掘り起こせるし、直接事件に関わった者もまだ王城にいる。
ラジアンは約束を守ってくれたらしく、王城の周辺に僕とクルトの関係は知られていないようで、その点は安心した。クルトも僕の話を理解したのだと思う。
宮廷政治へ関わることへの彼の野心は出会ったときからあきらかだった。結局のところ、これまでどれだけ優秀な成績をおさめていようと学院生活の正念場は今なのだ。ここで間違えればすべてを台無しにしかねない。
それに、そろそろ潮時だろうとも僕は思っていた。試験対策に集中し、推薦人たちと接触しはじめれば、クルトは新しい目標に夢中になって僕への関心を失っていくだろう。試験が終わって進路が決まればまた店においでと僕はいったが、彼の方がそうしたいかどうか。
べつにそうなってもかまわないじゃないかと、きれいに片付いた部屋で窓の外を眺めながら僕は自分にいい聞かせる。すでに僕は分不相応なくらいの贈り物をクルト・ハスケルからもらっていた。例の書物の出資者の紹介はもちろん、この風景も彼がくれたようなものだし、生活が規則正しくなって体の調子もいいとか、書店の営業が前よりうまくいっているのも、きっとクルトのおかげなのだ。
何より僕自身が、自分をそんなに捨てたものではないと思えるようになったのもクルトの影響だろう。近頃は気分も安定して、施療院の薬を飲む回数も減っていた。クルトのような人間にくりかえし好きだといわれ、ことあるごとに褒められれば、きっと誰だってそうなる。クルトはつまらないことでも、何かにつけて僕を持ち上げるのだから。
反対に僕がクルトに贈ることができたものは何があるだろう? 彼が持って帰った魔術書――僕の書き込みがびっしり入ったものだ――がすこしは役に立てばいいと思う。事件の混乱のあとですべて捨てたつもりだったが、ここへ持ち込んだのはアダマール師か、先代のカリーにちがいない。そして十年埋もれていたのだ。
かつてあんなに必死で勉強したのに、今の僕にはあの箱に入った魔術書を真の意味で理解できないと思うとさびしかった。でも、目標があるとどんな手段でも使うクルトのことだ、多少は役立ててくれているのではないだろうか。彼が僕への興味をなくしても、こうして書物でつながれるなら悪くない。
いくらそういい聞かせても、無性に会いたくなるのは避けられなかった。クルトの笑顔がみたかったし、僕を呼ぶ声がききたかった。
心の奥底で、まだ僕に魔力があって念話を通じさせることができればいいのにと願いさえした。離れていても声をきき、姿をみられるのは精霊魔術の基本だ。最近の僕は魔力が欠如していることにあまり劣等感を持たなくなり、日々の生活で少々不便という程度にしか感じなくなっていて、これもたぶん何事にも前向きなクルトの影響なのだが、その当人については別枠だというのは、なんとも皮肉なことだった。
学院の深緑色を着た若者が店の扉をあけるたび、僕はどきりとして手をとめる。心の底で求めていたものとちがう顔をみて、ひそかに落胆しつつも「カリーの店主」として応対する。
いつも屑本ばかりあさって棚にある書物を見上げるだけの学生に対しては、僕は先代の真似をして、ときおり相手が求めている本をカゴに入れるようにしていた。さぐるように僕の方へ視線が飛ぶと、持って帰ってかまわないといってやる。
髪の短い小柄な女子学生にはこれまで二度ほどそうしてやったのだが、やがて彼女――イーディは、よく魔術書の内容についてたずねてくるようになった。棚の整理を手伝ってくれるときもあり、客にそんなことをさせるわけにはいかないので、僕はそのたび手間賃を払った。イーディは好奇心旺盛でなかなかの論客で、回路魔術師をめざしているらしい。手先が器用だったから僕はもっと細かい仕事も教えることにした。まるでカリーの店で働きはじめた頃の僕のようだ。
イーディのおかげで僕は年のはなれた妹ができたような気分だった。肉親とほぼ縁が切れた僕にはめずらしいことだ。イーディはよく喋り、たまにおっちょこちょいなことをしでかして僕を笑わせ、友人を何人も店に連れてきては本を買わせた。おかげでクルトが来なくても店は以前よりにぎわっていた。
それでも僕はクルトの声をききたくてたまらなかった。彼はまたここに来るだろうか。僕に笑いかけるだろうか。
夜、ひとりで小さなキッチンにいると、ときおり横にクルトが立っているような、彼の残像のような気配を感じる。背後から僕を抱きしめる腕を感じ、耳元でささやく声がきこえるように思う。もちろんすべては僕の錯覚だ。
ひとりの寝台で目覚めた朝、窓ガラスごしにさす光をあび、鳩の声をききながら、クルトはどうしているだろうかと僕は思う。きっと目標をめざしてひたむきにやっているに違いない。でもたまには僕のことを思い出しているだろうか。
彼の友人が店にあらわれたのはそんな頃だった。
「イーディ、これを七八番の左端へしまってくれないか?」
「薬学ですか?」
イーディは書物を右腕に抱え、梯子をするすると上る。小柄で敏捷な彼女はリスを連想させ、表情豊かな青い眸もくりくりとしてすこし小動物じみている。しかし彼女の友人がいうには、この外見で剣もたしなみ、それもけっこうな腕前らしい。
「そうだ。ああ、ありがとう」
「ソールさん、薬学にはくわしいんですよね」イーディはよく通る声で梯子の上から僕に話しかける。
「あ、ちがうか。薬学にも、というべきでした」
「くわしいというほどじゃない。読んだ範囲だけだ。ちょっと最近調べていることもあってね」
「読んだ範囲って、ソールさん学者顔負けじゃないですか。カリーの店主がすごいのは学院でも有名なんですよ」
「きみたちが適当な話をしているだけだろう。そんなふうにいえば僕が値引きすると思っている」
「たしかに値引きしてもらっている上、お給料までもらってますけど」
イーディはクスクス笑った。いつも少年のような恰好をしているが、こんなふうに笑うとひどく女の子らしくて、可愛くみえる。
「何を調べているんですか?」
「たいしたことじゃない。個人的な話だ。僕の体調に関することでね」
僕はとくに感情をこめずに答える。イーディが上から僕をみている。
「ソールさん、働きすぎちゃだめですよ。私が手伝いますから」
彼女がそういったとき、扉が開いた。
その学生が入ってきたとき、僕は奇妙な懐かしさを感じた。姿勢や雰囲気、一度もこの店に来たことのない人間のもの慣れない様子で、身につけた深緑の上着は常連の学生と一線を画す上質なものだ。
すぐに僕は悟った。この学生は最初にここへ来たときのクルトによく似ている。
同時にすこし驚いてもいた。なぜなら僕がいま知っているクルトは、ここにいる彼とはかなり違う人間だったからだ。
学生は物珍しげに天井まで書物でいっぱいの店内を見まわし、中央の書架をぐるりと回った。最初にこの店へ来た時のクルトのように目当ての本があるのかと思い、僕は声をかけた。
「何か探しているのか?」
学生ははじかれたように僕に顔をむける。あきらかに僕に気づいていなかったのだ。これも出会ったころのクルトのように、魔力で周囲を〈視る〉ことに慣れている者の典型的な反応だった。爽やかで精悍な顔立ちで、すこし日に焼けている。若くても指示することに慣れている貴族特有の身ごなしがみてとれる。
「あんたが……カリーの店主?」
「そうだが」
学生は僕をみつめつづけ、そして「――本当だったのか……」と小さくつぶやいた。何が、と問い返したくなるのを僕はこらえた。以前ならすぐに嫌味か皮肉をとばしているところだが、今の僕はそれほど辛辣でないし、イーディもそこにいるのだ。
「探し物だったらいってくれ。すぐに答えられる」
学生は僕を困惑した顔で僕をみつめて、それから眼をそらす。
「そうじゃない。実は……ハスケルのことで来た。話がしたくて」
「クルトの?」思わず大きな声をあげそうになり、僕はあわてて抑えた。
「なんだ? 彼に何かあったのか?」
「あったも何も……」学生はふたたび僕をみつめる。今度はあきらかに怒りの色がみえた。
「あんたのせいじゃないのか? クルトが禁書について調べているのは」
僕はイーディに店番を頼み、学生――アレクと名乗った――を奥へ通してお茶を出した。アレクは作業机の裏側や小さなキッチンをじろじろ眺め、ついで小さなテーブルにつく。いつもクルトが座っていた椅子だ。カップを一度持ち上げ、口をつけずに下ろす。
「ハスケルが今、大事な時期なのは知っているだろう」
「もちろん。じきに試験だろうし、進路についても動いているだろう?」
カップの周囲をアレクの指がトントンと叩く。
「それを知ってて――彼をたきつけたのか?」
「何の話だ?」
「クルトだよ。図書室の禁書領域にいたというので今月二度、注意されているんだ。この時期にどうして彼がそんなことをする必要がある? やっと目的を問い詰めたら十年前の火事について調べているという。あんたのことだろう?」
僕は言葉をなくし、アレクを呆然とみつめた。
「……僕は知らない」やっとのことで答える。
「クルトにはしばらく会っていないし――その話をしたこともない。一度もだ」
「じゃあ、なぜだ」
「――僕にはわからない。だいたい彼にはここに来るなといってある。変に邪推されれば将来に響きかねない」
「それならどうしてだ?」
アレクの手がテーブルを叩き、カップが音を立てた。
「だいたいクルトはずっとおかしかったんだ。誰かとつきあってるとは思っていた。でもそれが――あんたなのか? どうしてそんなことがあり得るんだ?」
「……そんなこと」
わかるものか。僕だって知らない。なぜクルトが僕を好きになったのか。だが僕は言葉を飲みこむ。アレクは興奮して言葉をつぐ。
「試験が近いからと訓練に集中しはじめたと思うと、最近また審判の塔や図書室にこもりはじめた。あげくは禁書領域に踏みこんだと師に注意を受けているんだぞ? 問いただしたら――話すのはカリーの店主のことばかりだ。あんたのことだ」
「きみはクルトと組んでいるんだな」
僕は納得した。魔術実践の訓練は親しい友人や師と組むのがふつうだ。きつい訓練になればなるほど繊細な過程をふむから、たがいに強い信頼が必要となる。ときに、ふだんは他人に見せないような内奥を明かしてしまうこともある。
その内奥が――明かされた相手にとって我慢ならないことも、ある。
「ああ、そうだとも。あんたよりもずっと長くな。あいつが何を望んでいるかもよくわかってる。学院に入ったのだってそのためなんだ。それが今さら、すべて台無しになるようなことをどうしてやる? あんたのせいだろう。おかげで俺だって調べたさ。十年前の事件、あれはただの事故じゃないんだ。あんたは――」
「僕と友人は禁を犯した。そのために友人は死に、図書室は燃えた。書物も」
僕は淡々といった。アレクは僕をじっと見ている。この眼つきが何を意味するのか僕は知っている。なぜなら昔、僕自身がこの能力のエキスパートだったからだ。アレクは魔力の触手をのばし、僕を〈探査〉しようとしている。
だが彼には不可能だろう。僕には鉄壁の遮蔽がある。どれだけ強力な精霊魔術師でも僕の心にはふみこめない。けっして忘れられない呪いと同様、これは十年前の禁術の副作用か、それとも成果なのか。それとも代償なのか……。
「そして僕は魔力をなくし、学院をやめた。そう、あれはただの事故じゃない。騎士団はいまだに僕を保護――監視しているし、王立魔術団だってそうだ。だからクルトは僕に関わらない方がいい」
僕はアレクを見返した。もう冷静になっていた。少なくとも自分ではそう思った。
「僕はクルトに何も頼んでいない。僕が望んでいるのは、クルトが無事に試験をパスして、彼の望むように進路を決めることだけだ。きみが彼と組んでいるのなら、僕なんか放っておくよう、説得するんだ」
「そんなことは当たり前だ!」
アレクはいらいらと怒鳴った。
「だいたいクルトはあんたみたいなのとは根本的にちがう、特別な人間なんだ。あいつには王宮での未来があるし昔からの許嫁もいる。だいたいあんた、そんな風に口ではいってても実際はどうなんだ? クルトの試験や進路を気にしているのだって、そもそも利用するためなんじゃないのか? あいつの財産や縁故でうまい汁を吸おうっていうんじゃないのか。魔力が通じないのをいいことに、あいつに何かやったんじゃないのか。そうでなければどうして――あんなに……」
「僕はクルトに何かした覚えはない。彼の立場を利用する気もない」
僕は静かにいった。
「彼と組んでいるのならきみは誰よりも彼に近いところにいるはずだ。さっさと帰ってクルトを助けてやれ。僕はどうせ何もできない。ただの書店主だからな」
「それがわかってるならいい」
アレクは吐き捨てた。傷ついたような口ぶりだった。おかしなものだな、と僕は妙に平静な気持ちでこの若者を観察していた。どちらかといえば傷ついているべきなのは僕の方じゃないか?
アレクがいうようにクルトは僕とはちがう世界の住人で、過去に傷のある僕と関わるべきじゃないし、実際十年前のことを自分で調べたならもう関わってこないだろう。少なくとも今の時点で、僕が自分の望む進路にとって障害になるかもしれないことくらい、クルトにはわかったはずだ。
「そのお茶、飲んでいってくれ。もったいないからな」
僕はアレクにつげて立ち上がった。アレクは混乱したように僕を見上げ、ためらったが、結局口をつけなかった。肩をいからせるようにして扉へむかう。
「馬鹿じゃないの、アレクサンドル・ハンター」
突然イーディの声がした。扉の前で腕を組み、仁王立ちになっている。
「なにが特別よ。カリーの店主にお茶を出してもらうのがどれくらい名誉なことか知らないの? そんなに馬鹿じゃ学院にいたって意味ないわ。さっさとお貴族様の居心地いい領地へ逃げ帰ればいい」
アレクは眉をひそめた。
「きみはなんだ」
「二回生のイーディ。師団の塔のセッキの弟子でもある」
「回路魔術か」
「それがなんなの? 精霊魔術が何よ。馬鹿ばっかりじゃないの」
「イーディ、やめるんだ」
僕の声にイーディは目をくりくりさせ、わざとらしい陽気な口調でいう。
「馬鹿に我慢する必要がどこにあるんですか? 店主」
「そういうな。僕も傷つくよ」
冗談のように肩をすくめてそういうと、イーディはちいさくため息をついて扉を開けた。アレクが出ていくとばたんと閉める。僕とアレクの会話をどこまで理解していたのか、彼女の表情はいつもと変わらず、すこしひょうきんで明るく、僕にはそれがありがたかった。
「塩でもまきます?」
「いや、いいから。それよりお茶がどうこうって何なんだ?」
「え、知らないんですか? カリーの店主にお茶を出してもらったっていえば、教室で一躍英雄になれるんですよ。あなたに認められたってことで」
「僕はそんなたいそうな者じゃないよ」
「まったく、これだから。あのお茶もらっていいですか? そしたら私、明日教室で自慢します」
「好きなだけ自慢すればいい」
僕は思わず微笑んでそういったが、体は重かった。最近あまり感じなかった疲労が急にのしかかってきたようだった。
クルトが僕を思い出していたのだ、と思うと嬉しかった。僕が十年前にしでかした馬鹿げた失敗について調べようと思うくらい、僕のことを考えていたのだと思うと、痛いほどの喜びに胸の底が震えるようだ。
一方でアレクの言葉も脳裏によみがえる。僕がクルトを利用するだって?
彼のような貴族にそうみえるのも無理はなかった。なにしろ僕は財産もないただの平民で、下町の書店主で、前科もちの魔力欠如者なのだ。
うるさいなあ、と不意に思う。王都はなんてうるさいのだろう。雑音ばかりだ。どこにいても過去がこだましてくる。
「イーディ、飲んだら帰ってくれ。今日はもう――閉店する」
「……店主」
イーディは僕をさぐるようにみつめたが、何もいわなかった。
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