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【第2部 痕跡の迷路】5.前に進む

 ソールに会いたい。  最近クルトの頭の片隅をつねに占めているのはこの一点である。  いや、厳密にはこれだけではない。単に会うだけではなく、会ってからしたい――しなければならないことが山ほどあるからだ。まずはソールの痩せた背中に腕を回し、体温を感じながらぎゅっと抱きしめたい。やわらかい巻き毛をかきまわしたいし、あごをつかまえて口づけ、舌を深く味わいたい。思う存分ひたいや耳を愛撫し、細く繊細な指を口に含み、ソールの唇から吐息まじりに漏れる自分の名前をきく。あげくは裸の背筋から腰に指をはわせて奥の繊細な場所をあばき、自分にすがりつかせて泣かせるのだ。  声というなら、周囲にひと目があるときや営業中の店で発せられる、一見冷たくてぶっきらぼうな響きでもいい。ふたりきりで話している時の声色を思い浮かべれば逆に興奮するくらいなのだから。もちろん、会わないあいだに何があったか、どんな本を読んだのかを聞きださなければならないし、ちゃんと食事をしていたかどうかも確かめなければならない。  クルトが若く健康な成人男子であることを考慮しても、つねに頭の片隅でこんなことを妄想している男は弁護の余地なく変態じみている。しかもこれら一連の願望を何度も頭の中でくりかえして、クルトの想像はすっかり鮮やかになってしまった。  数日おきにでも恋人の顔を見に行ければここまでではなかったかもしれない。だが試験が終わって進路が落ち着くまで来るなとソールにいわれ、実際その時間もとれず、偶然会う機会すらなかったので、クルトの妄想はエスカレートするばかりだった。  さて、ふつうの人間であれば、どれだけ頭の中で変態じみたことを空想していたとしても、誰にも迷惑はかからないはずである。残念ながらクルトはそうではなかった。  つまり精霊魔術の実践試験に向けてアレクと開始した特別訓練の最初、三日間の予定だった「無言の行」が「おまえその……思念が桃色まみれなの、どうにかしろ」というアレクの発言のため、一日で破られてしまったのだ。 「無言の行」は大げさな名前のわりにはごく基本的な訓練で、クルトやアレクにとってはイメージに集中するためのウォーミングアップ程度のものなのに、このていたらくである。  クルトにしてみれば、いくら自分の内心が桃色まみれでも耐えられないアレクもアレクだ、修行が足りない、と思わなくもなかった。しかしソールのことを考えて妄想する自分もいくらかヘンだとは認めていたので、結果どうなったかというと、「クルト、相手は誰だよ」というアレクの追求に、ついにソールの名前を明かしてしまった。  これは事故のようなものだった。とはいえもともとクルトにソールとの関係を隠す気はなく、単にソールがおおっぴらにするのを嫌がったから友人たちに黙っていたにすぎない。クルトにしてみたら、自分の初恋が実ったか、少なくとも実りつつあるのを周囲に祝福してもらいたいくらいなのだ。  だがクルトの期待に反して、話をきいたアレクは渋い顔をした。 「カリーの店主だって?」 「そうだ。どうしたんだ?」  友人の不興を感じとってクルトは不思議そうな顔をする。 「いや。それって……」問い返されたアレクは困ったようにクルトを見返した。 「例の本を最初売ってくれなかったとか、嫌われたとかいってた下町の店主だろう?」  クルトは胸を張った。 「もう嫌われていない。逆だ。俺は好かれている」 「でもずいぶん年上で、男だって? らしくないな」 「そうかな。すごく頭がいいんだ。知らないことをいろいろ教えてもらえる」  おまけにめちゃくちゃ可愛い、とは口に出さずに心の中でつけたしたのだが、やにさがる顔はアレクにしっかり見られている。 「デレデレ笑うな、気持ち悪い。ほかにも何か――そう、魔力欠如者だといってなかったか?」 「ああ」 「いいのか?」 「何か問題が?」  アレクは満面の笑みを浮かべたクルトにますます途惑った顔をした。 「まあ、おまえがいいのならいいが……どうせ学院を出るまでだしな」  これにはクルトが驚いた。 「どうして」 「だって――ラウラをほっておくのか。許嫁じゃないか」 「そんなの、子供の頃に親が決めた口約束だろう。正式に文書を交わしているわけでもない。第一俺はラウラとつきあったこともないんだぞ」 「でもそんな庶民で……魔力もないのに?」 「学院に来て俺たちが勉強したのは、結局身分など関係ないということだろう」  クルトはアレクの動揺をはっきり感じていたが、後できちんと伝えられると確信していた。 「ソールは素晴らしい人だ。いずれちゃんと紹介する。そうしたらわかる」  そう、想像していたよりずっと、ソールはすごかった。クルトはこれまで何回も年上の恋人の意外な側面を発見していたが、今回は予想をはるかに超えていた。  アダマール師が以前ソールについて「これまでいなかったような魔術師になったはず」といったのは買いかぶりでもなんでもなかったのだ。ソールにもらった魔術書を何冊も調べるにつけ、クルトはその思いを新たにしていた。  書物の余白を埋める几帳面な文字をたどると、まるでかつてそれを記したソールの心が流れこんでくるようだ。彼は書かれた言葉のどこに注目していたか、どのように考えたのか。  筆跡のほとんどはきれいにそろっていた。関連文献の略号や参考意見、さらに個々の魔術技法に関する独自の試み、その詳細な感想が細かく書きこまれ、中にはクルトが直接知っている名前も登場した。「アダマール師によれば不要とのこと」「ヴェイユはここに批判的」といった調子である。  興奮したようにすこし乱れた筆致もまれにある。「この記述は正しいのか?」「情報がなければ断定できない」「もっと深部に行けるのでは?」といったもの。  ソールの手が入った魔術書が宝の山だとクルトが理解するまで長くはかからなかった。クルトがあっさり習得してふりかえりもしなかった単純な精霊魔術の技法ですら、ソールはちがう視点で見ていた。  学生のころのソールは魔力で知覚の幅を拡げることにこだわっていたようだ。魔力で人はどこまで〈視る〉ことができるのか、これがソールの関心事だった。物質の極限まで〈視る〉とき、いったいそこになにがあるのか。  これまで知っていた技法もソールの試みをもとに実践してみると、新しい発見があった。魔力によるクルトの知覚はさらに洗練され、組んでいるアレクも驚いたようだ。  おかげで試験に向けたアレクとの訓練は順調に進み、余裕ができたクルトはさらにソールの魔術書へのめりこんでいった。空き時間に図書室に通っては余白に書かれた文献を探し、学生時代のソールが惹きこまれた魔術理論をたどる。  一方、十年前の図書室の火事についてもクルトは調べていたが、こちらは痒いところがうまくかけないようなもどかしさがあった。いまや地下書庫の地理をほぼ把握したクルトは、三層の奥で簡単に記録を探しだしたが、一般閲覧が許可された書類に書かれていたのはそのあらましだけだ。  事件は秋の終わりに起きていた。学院図書室の禁書区画――そもそも図書室に禁書などあったか、とクルトは思った――に侵入した学生ふたりが禁じられた精霊魔術を使い、発火。  この炎には魔術的な効果があったらしく、鎮火までほかの誰もその領域へ立ち入ることができなかったという。しかも図書室の他の区画は燃えていない。  炎が消えた室内で、学生のひとりが死亡し、もうひとりが錯乱状態で発見された。貴重な書物が何冊か失われ――記録の最後にそのリストが並んでいた――生き残った学生は退学処分となっている。そういえば以前サールが、ヴェイユ師もこの事件のあと施療院へ通ったと聞いた、といっていた。しかし関係者の名前はすべて伏せられているし、ヴェイユ師は退学などせず教師になっている。騎士団の調書を元にした記録はそっけなく、最も重要なことが書かれていないとクルトは直感した。これではわからない。ソールに何が起きたのか。  以前図書室の奥でたまたまみつけた「遮蔽された空間」について、ここでクルトがあらためて考えたのは、しごく自然ななりゆきだった。  地下書庫ほどの規模はないが、学院の図書室もまた広い。  床は教室とおなじ寄木で、机の列のむこうに幾何学模様の装飾がほどこされた窓が並ぶ。司書たちが学生に応対する中央部分の天井にはアーチが組まれ、星形の梁がのびている。反対側にはどっしりした書棚が古木の森のように並びたつ。  その奥に、背後が壁面になっているとずっとクルトが信じていた棚がある。  今日で三度目だった。一度目はたまたまで、直後ヴェイユ師に出くわした。二度目は三日前。このときクルトはソールの魔術書から得た知覚の拡大技法を使い、棚の向こうを阻む遮蔽を正確にとらえたのだ。  この先は〈視えない〉だろうか――だが、それを試みようとしたとたん、突然背後に魔力の気配がみち、足音がきこえた。  クルトはひそかな驚きを隠す。あらわれたのはふだん学生に直接応対しない師補格の主任司書だった。今の今まで顔も忘れていたが、最初に図書室を使ったとき、他の司書に紹介された記憶はある。 「何をお探しですか?」  中性的な顔立ちは彫像のようで、声をきいても男とも女ともつきかねた。 「ああいえ、特には」クルトはとっておきの笑顔をみせる。 「何年学院にいても、図書室のこの辺りはよく知らなかったことに最近気づいたものですから、卒業までにもっと知っておきたいと思って」 「勉学熱心なのは良いでしょう」  灰色の上着をまとった司書はにこりともしなかった。クルトはふとその上着が審判の塔とおなじ色なのが気になった。他の司書もこれを着ていただろうか? 「実践試験の前ですから、むしろ訓練に励んだ方がよいと思いますよ。クルト・ハスケル」 「はい。わかっています」  クルトはおとなしく答えたものの、ひやりとした気配に刺されたような気がした。ますます奇妙だ。がぜん好奇心がかきたてられる。  そして三度目が今日だった。今回クルトは問題の区画へ自然に近づけるよう、付近の蔵書にあわせて調べる課題をあらかじめ設定した。秘密のゲームをしているような気分だった。  気配を立てないように奥にむかう。どうみても棚の背後はただの「壁」――それも建物の外壁だと感じられる。しかしソールの魔術書を熟読したおかげで、クルトにはここにきわめて強烈なめくらましが仕掛けられているとわかっていた。知覚を拡げたとたんに司書があらわれたということは、魔力に感応する仕掛けもあるのだろう。  ほんとうは、何が隠されているのかの見当もついていた。  おそらくこの先が「火元」なのだ。  しかし今回は――先回りされていた。  通路を回ったとたん、床につきそうなほど長いローブの裾が目に入ったのだ。腕を組んだ白い人影が立っている。  また魔力の放射を感じられなかった、とクルトは気づいた。 「クルト・ハスケル。いったい何を探しているんだね?」  ヴェイユ師が待っていた。

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