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【第2部 痕跡の迷路】6.ふりかえる

 暗くなっているのに、窓のそばのクスノキの梢で椋鳥の群れが鳴いている。ギャアギャアとうるさく、ガラスを通してここまで響く。 『うまくいくと思うか?』と彼。  僕は彼が放射する不安と興奮、そして恐怖に同期する。これらの感情はもともと僕も共有するものだが、ふたりでここで怯えていてもしかたがない。それも僕らはわかっている。 『大丈夫。うまくいくよ』と僕は返す。  書棚の影に立つ僕らを小さな明かりが照らしている。一週間かけて蛍光石に貯めておいた光だ。閉室後のせいか、図書室にはいつもよりはっきりと古びた紙とインクの匂いが漂っている。  彼が蛍光石を掲げる。書棚のあいだにせまい扉がうかびあがる。表面に閉じられた書物のしるし、そして警告。教師以外は立ち入り禁止の文字。  僕はしるしに手のひらをかざす。閉じられた書物を解除する力のみちをたどる。そこにあるのはとても入り組んだ迷路だが、必要なのは速度だけだと僕は知っている。僕にはその力がある。  左手を壁に。結局はこれだ。  かちりと僕の内側で音がして、おなじ音を彼も聴いている。  彼が扉を押す。中は暗いが、こちら側とおなじような紙とインクの匂いがする。  僕らはふたりで扉の中へ入っていく。 「ソール」  僕は眼をあげた。  カルタンが僕の上にかがみこんでいた。うすい灰色のローブの裾が膝をかかえた僕の足首に触れる。  背中と尻の下にごつごつした感触があるのは大きな樹の幹にもたれているせいだ。ヒュイッと高い声で鳥が鳴く。たった今まで僕が記憶の中で聴いていた、椋鳥の騒がしい声ではなかった。  ここでは梢が揺れ、葉ずれの音が響いていた。まだ日も高い。ずっと上に青空があった。 「いつからここにいた?」とカルタンがたずねた。  彼はセッキと同じくらいの背丈があるが、丸い優しげな顔をしている。最初に会ったころはヒラの治療師だった。いまは施療院の副院長だ。 「昼前に来た」と僕はいった。「朝いちばんの荷馬車に乗せてもらったんだ」 「食事は?」 「いらない」  カルタンは僕の前にしゃがみこんだ。足元は灰色のサンダルで、白い靴下に土の汚れがついている。じろじろと僕をみた。 「ちゃんと食べてはいるようだな。だったら無理に食事はさせんが」 「食べてるよ。とくにこのごろは」  僕は何をいったものかと、言葉をさがした。 「王都にいるのが……騒がしくて。静かなところへ来たかった。すまない」 「謝る必要はない」  即座にカルタンはいった。いつもこういうのだ。 「ここが静かだというなら、日があるうちは好きなだけいればいい。ただ日暮れには戻ってこい。夜は危ないからな」 「そのころには帰るよ。馬車が出るだろう?」 「泊ってもいいんだぞ。来客用の部屋くらいある」  僕は両手で膝を抱えたまま、カルタンをみあげる。 「いや、王都に帰るよ。店があるし、僕はもう病人じゃない」 「それもいいが」カルタンは立ち上がり、腰に手をあてて体をのばした。 「とにかく、日が暮れる前に一度院へ来なさい。冷えるし、夜は獣も出るからな」 「ありがとう」  きびすを返したカルタンの動きにつれて裾の長いローブが揺れた。うすい灰色は治療師の色だ。僕はついに「彼」がこれを着たのをみることがなかった。 「カルタン」思わず僕は呼びとめる。 「なんだ?」 「僕は――」いいかけて、すこし躊躇した。でもカルタンはずっと僕の治療師で、アダマール師以外では今の僕が唯一信頼できる精霊魔術師といってもいい。黙っていてもしかたのないことだ、という思いが浮かぶ。 「カルタン、僕はいまだに『彼』の名前を思い出せないんだ。どうしてなんだ? 僕は――何もかも覚えているはずだ。実際、何もかも覚えているのに」 「ソール」 「まったく、変な話だよ。何度教えてもらっても、彼の名前は僕の知覚をすりぬける。聞こえないし、読めないし、もちろん思い出せない。昔の記憶の中ですら」  カルタンはふりむいた。サンダルが僕のすぐ前で止まる。彼はもう一度僕の前に体をかがめた。 「すまないが、理由は私たちにもわからない。ソールの心にとって特別な意味があることかもしれないが……治療師にとっても、ひとの心が不可解な動きをするのはよくあることで、力が及ばないと認めるしかないんだ。ただ、思い出せないことを負い目に思う必要はない。ソールの今の状態がそうだとしても、いずれ変わっていく」 「そうかな」と僕はいった。カルタンはいいかげんなことはいわないと知っていても、疑問符はついた。 「そうだ」とカルタンは答えて、立ちあがる。  彼が歩いていく先、森のむこうに施療院がある。壁は白い石で作られ、砦のように建っている。十年前、僕はしばらくあの中にいた。 『ソール』と彼が呼ぶ。 『―――』  僕は彼に呼びかけるのだが、自分が何といったのかがわからない。  僕と彼は本を前に向かいあっていたはずだ。突然ひらいたページが紅い炎をあげ、彼に襲いかかる。僕らはふたりともパニックに陥る。彼は炎をはらいのけようとし、逆に僕はページの上に手をのばして炎をつかもうとする。僕は彼の混乱した思考をうけとり、彼も僕のパニックに同期する。どちらもまともに考えられない。炎が彼を覆い、僕と彼をつなぐ細い糸、力のきずなが消えていく。僕は切れ切れになった糸に自分の力をそそぎこむ。僕は炎を消そうと思っていない、糸をつなぐことだけを考えている。そうしなければならないのだ。  ふいに世界は白くなる。ただ白くなり、僕をはなれて、遠くへ行く。僕が行くのではない。世界の方が僕を離れる。  耳のすぐそばで羽音が鳴り、無意識に手ではらった。  僕はまだ樹の幹にもたれていた。葉ずれの音がきこえ、足もとで去年の枯葉がゆっくり動いて、甲虫がすがたをあらわす。  夏が近づいて王都では暑い日も増えたが、この森はまだ涼しいのだ。根もとに苔が生えた針葉樹の古木がまばらに立つ中、ドングリやブナの若樹がのび、下生えのシダに木漏れ日があたっていた。とても静かだった。  森の特徴は「平坦さ」にある。地形の話ではない。  この世の生き物すべてに通る〈力のみち〉は、あえて例えれば抽象的な「でこぼこ」なのだ。僕らが魔力で知覚するのはこの高低差で生まれる影であり、生き物はすべてこの影を利用する。  ところが森や海、そして砂漠のようなところでは、この「でこぼこ」はなぜかならされて平坦になる。魔力がなくなってしまうわけではない。ただ広漠として、とらえがたいものになってしまう。  この広漠さ、平坦さは静寂を生む。どれだけ風に梢が揺れようと、波が打ちよせてこようとも、森や海は静けさに満ちている。  きっとそのせいなのだろう、王都がうるさくて耐えられないとき僕はいつも森に逃げこんでいた。この森の静けさがほしかった。カルタン以外は誰も僕がここにいると知らないが、必要なら彼はいつでも王都へ連絡できる。  どうやら王都で暮らす僕に起きるさまざまな不調は、人間がつくる力のみちの「でこぼこ」に僕が適応できないことに原因があるらしい。単に魔力が欠如しているせいなのか、魔力が欠如する原因となった出来事のせいなのかは十年たってもわかっていない。  学院や施療院の魔術師たちはずっと答えを求めている。なによりも僕自身が知りたいと思っているが、同時に恐怖も感じていた。  知りたいと願うことは呪いのようなものだ。  すべては小さな好奇心からはじまっていた。「どこまで視えるのか」という興味から。魔力を使って広がった視野はどこまで微細なものをみることができるのか。生き物は血と肉からできている。血も肉も、拡大していけば、もっと小さな構造が見えてくる。どこまで物質は小さくなるのか?  おなじ問いは古代からあり、仮説を元にした理論もあったが、僕らは自分たちの眼で――視野で――みたかった。それだけだったのだ。とても危険な精神の魔術につながっているとは思っていなかった。  禁書への通路はここから開かれた。それが僕らを壊し、ほかの書物も燃やしてしまうことになるなんて、もちろん思っていなかった。僕らは愚かで、力の感覚に酔っていて、世界のすべてが手の内にあると思いこんでいた。  梢の影がゆっくり動く。僕は時間の感覚を失ったままずっと巨木にもたれている。  みあげると枝の先ではあかるい新緑が日に透けて、昨年の深緑の葉とあざやかな対比をつくる。学院の上着の色はなぜこの色が選ばれているのだろうと僕はぼんやり考える。王都では、精霊魔術師は白のローブ、回路魔術師は黒のローブを着る。施療院の治療師は淡い灰色を着て、審判の塔にいる者は濃い灰色だ。  今年は春以来、以前にもましてあの緑色を見慣れてしまったが、もうそれも終わりだろう。クルトが着るやわらかい艶のある深緑の上着――彼はまったく貴族らしくない男で、自分で毎日ブラシをかけるのだ――それにあの、いつも生き生きと表情をたたえている眸。あれをみることも今後はめったにないだろう。クルトの友人の学生――アレクの懸念はもっともだった。僕は監視対象だからだ。  事故で失われた僕の魔力に関してはじつはいまだに謎が多かった。だから騎士団や学院の精霊魔術師は事故以来僕を見守っていて――言葉を変えれば監視していて――学院の図書室の「禁書区域」は学生から完全に遮蔽されることになった。うかつなものが近づくと取り返しがつかないことになるとわかったからだ。重要な記録や魔術書を審判の塔に分散したのも、僕の事件がきっかけだった。  背中に触れる幹はどっしりとして安定感があった。このままここに根を張り、小さくなって吸いこまれることはないだろうか、そう僕は空想した。  もちろんそんなことは起きない。僕は王都に帰るのだ。あの騒がしい都に戻り、また店をあけて、黴臭い文字の中に鼻先をつっこみ、小さな自分の一生にみあうだけの知識をつめこみながら、どうにかこうにかやっていくだろう。店には学生たちや魔術師が来て、いつか彼らのうちから、僕に手が届かなかったものへ達する者が出るかもしれない。その手助けならすこしはできるし、そのくらいが僕にはふさわしい。  けっして口に出せない望みをかかえたまま、最後の時までひとりであの店にいるのだ。  でもひょっとしたら、たまにはあの眸をみることもできるかもしれない。王都にいればどこかでみることだってあるだろう。あの緑の眸と、輝くような笑み。  それを希望のように、贈り物のように感じているのだと僕は気がつき、はっとする。暗い部屋の中に射しこむ光のようだと思っているのだ。  薄青い空の一部がかすかに紅く染まりはじめていた。もうすぐ日暮れだった。僕は座りつづけて固まった足腰をのばす。カルタンがいったように一度施療院に寄る必要があった。最後の馬車が出る前に薬をもらわなければ。  すこし離れたところで草をわける音がした。動物だろうか?  獣に襲われるのはいやだった。鞄に鈴をつけているから、立ちあがれば鳴るだろう。  そのとき声がきこえた。 「ソール」

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