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【第2部 痕跡の迷路】7.見上げる

 クルトは眼の前に立つ教師の白いローブをみつめていた。  白は精霊魔術師のしるしだ。この服は狭い通路でも淡く輝いているようにみえる。ただの布なのにそうみえるのは漏れだす魔力の光輝のせいだ。 『ここに何の用だね』  心に聴こえるヴェイユ師の声は印象がすこしちがった。  講義中は冷たく、皮肉っぽい気配が強かったが、念話はもっと押しが強い。そういえば、クルトがヴェイユ師と念話をかわすのは初めてだった。 『探している文献があるので』  とクルトは返し、ヴェイユにみえるようにわざとその書名を思い浮かべる。 『なぜそれを探しているんだね』  思いがけなく聞き返された。 『きみの専攻は関係ないし、私の講義でも必要ないのに』 『知り合いに教えてもらったので、興味をもちまして』 『ずいぶん勉強好きな知り合いだな』 『はい。学院の先輩です』 「そうかね」  ヴェイユはいきなり念話をやめた。 「ハスケル君。好奇心は猫を殺すというだろう。きみはちょっとした遊びのつもりかもしれないから、そんなことにならないように教えよう。昔はこの奥に部屋があった。いわゆる禁書の区画で、学生は立ち入り禁止だった。調べたようだからすでに知っているのだろうが、十年前ここへある学生が無断で立ち入り、事故を起こした。学院はそれ以来、学生の立ち入れる場所に禁書の区画を作らないことにしている。きみのように好奇心に駆られた若者が無茶なことをしないようにね」  クルトは眉をひそめた。師の声色は淡々としたものだが、踏みこむのをきっぱりと拒絶している。 「何も無茶なことなどしませんよ」あえてのんびりという。 「たしかに俺はその事件を調べましたが、当事者の名前すらわかりませんでした。それにもともと、この場所に興味をもったのはあなたのせいなんです、ヴェイユ師。以前ここですれちがったとき、あなたの魔力の気配をまったく感じられなかったものですから。まるで……」クルトは的確な表現を探した。「無から出てきたようでした」  ヴェイユは動じた様子もなかった。 「きみは優秀だが、ただの学生だ。学院にはただの学生に明かされない場所がいろいろある。それだけのことだ」  腕を組み、また前触れなく念話に切り替える。 『きみも能力試験を通過して、さらに秋の審問を通らなければ資格は得られない。王宮の顧問団が目標なのだろう。この時期によけいなことへ気を取られているのはどうかと思うが』  いくら目上の教師だとしても、授業はともかく、通りがかりの立ち話にすぎない会話でこんなふうに話をもっていくのは好感が持てなかった。クルトは思わず挑発的に返した。 『あなたの推薦が得られなくなるとでも?』 『心配しなくても私は成績で推薦をする。きみなら大丈夫だろう』 『俺はよけいなことをしているとは思っていません。自分に必要なことをしているんだ』 『きみはいったい何が知りたいんだね?』  教師の意識は最初よりも強くクルトを押してくるようだ。からかっているとも苛立っているともとれた。どちらにしても不愉快だった。 「名前です」  まったく意識せずに、クルトは念話から会話に切り替えた。心でつながってはならないという気がした。 「その事故に関わった人の名前です。そしてこの奥でほんとうに起きたことを知りたい」 「なんのために?」 「それは……」  突然、クルトは妙に可笑しな気持ちになった。どうして俺はこんなに知りたいと思っているのだったか? 「恋人が関わっていることについて知りたいと思うのは変ですか?」  思いもかけないことに、ヴェイユはクルトをまじまじと見返した。無意識にクルトの心に防壁があがる。だが教師は侵入しようとしているのではなさそうだ。第一、たとえ教師でも断りなくそんなことをするのは掟に反する。  緊張にみちた沈黙はどのくらい続いたのか。たいした時間ではなかったに違いないが、クルトは思わず身じろぎした。と、ふと自分を探す気配が近づくのがわかった。友人のアレクだ。  アレクの接近に不意をうたれたのはクルトだけではなく、ヴェイユもだったらしい。なぜなら突然、かすかな声がクルトの頭に響いたからだ。 (ソールは私を選ばなかった)  ヴェイユとクルト、双方がほんの一瞬、今度こそ硬直した。おそらく、ヴェイユがクルトに何らかの形で意識を集中させていた、その副作用だったのだろう。念話に慣れた使い手が内心のつぶやきをもらすなど、それ以外は考えられない。 『クルト?』  ちょうどうしろに足音が来て、ぎょっとしたように止まる。 「あっ……ヴェイユ師。失礼しました」  クルトはふりかえった。アレクが怪訝な顔をしていた。同時にヴェイユの緊張も解けたらしい。 「ハンター君か」確認する声は冷たく平坦な、いつもの調子だった。 「はい」 「きみまでこの区画に興味があるのかね?」 「いえ、俺はクルトを探しに来ただけで……この区画とは?」 「ハスケル君にはいったが、この奥に学生の立ち入りを禁止した区画がある」 「この奥に……ですか?」 「そうだ。ハスケル君は優秀だから気づいてしまったらしいが、一般の学生にはわからないように遮蔽してある。危険だからだ」 「危険?」 「とくに進路の決定を目前に控えている場合はな」  アレクは眉をあげ、あきらかに不審の色をうかべてクルトとヴェイユを交互にみつめた。ヴェイユが微笑する。授業でよくうかべる辛辣な笑みで、ほんとうは笑っていない。 「もう行きなさい。目標を見失わないようにすることだ」  建物の外では桜並木が緑の葉を茂らせていた。どの樹もまだ若木といっていいくらいで、あいだの地面には切り株がいくつか残り、自然と学生たちのベンチにされている。これらの切り株は完全に死んでいて、ひこばえも生えてこないので、桜が代わりに植えられたらしい。  何の気なしにクルトが切り株のひとつを蹴ったとき、アレクがいきなりすごい剣幕で食ってかかった。 「クルト、何をしていたんだ?」 「なんてこともない」クルトはあえてのんびり答えた。 「文献を探しに来て、たまたまヴェイユ師と行き会っただけだ」  アレクは信じられないという眼でクルトをみた。 「何いってる、あれは警告だぞ? おまえ――ヴェイユ師にいわれるまでもない。この時期に教師から注意だって? 自分が何を目指しているか忘れたのか?」 「忘れちゃいないさ。それでも知る必要があったんだ」 「知る必要があったって……何をだよ」 「知らないと同じ位置に立てない」  クルトは切り株に座り、アレクをみあげた。親友はクルトの顔をまじまじとみつめている。まるでさっきのヴェイユのようだ。自然と念話に切り替わる。 『なんの話をしているんだ?』 『おまえだって、恋人のことは知らなくちゃいけないと思うだろ?』 『それ――』アレクはため息をつきながら返事をよこした。 『例の店主が関係あるのか。クルト、重症だな』 『悪いか』 『ラウラのことはどうするんだ』  アレクの背後にはある感情がただよっていた。クルトはその内実をずっと知っていたが、親友はたまに冗談のように口に出すだけで、一度もきちんと話すことはなかった。  前触れなく、クルトのうちに怒りがこみあげてくる。 『ラウララウラっていうな。俺は彼女のことはずっと仲のいい友人だと思っているんだ。おまえこそなんだ? おまえが気にしているのは俺か、ラウラか? それともおまえ自身か?』  突然のクルトの激高にアレクは沈黙した。塞がれるように彼の心が閉じるのを感じ、クルトの中に後悔がみちる。 「すまん」 「悪かった」  謝罪はふたり同時に口に出された。アレクは自分のひたいに手をやり、出てもいない汗をぬぐう。 「クルト……」  声は穏やかだったが、クルトには親友がそのまま心を閉ざしているのがわかった。うすい膜がかかったようになり、共感が届かない。 「なんだ?」 「頼むからすこしは自重してくれ。大事な時期だろう」 「ああ。わかってる」  アレクは切り株のひとつを蹴り、苛立たしげな様子で肩をすくめた。  それから何日か、クルトは図書室への出入りをやめた。  学院の寄宿舎はぜいたくなつくりだ。ひとりひとりに相応の広さの個室――息苦しいほど狭くもなければ、広すぎて不安にもならない程度の――があり、訓練や勉強に集中できる空間も備えられている。  講義や最近始まった推薦人との面談以外の時間は自室に閉じこもり、クルトは魔術書をくりかえしめくっていた。アレクや他の友人たちともあまり話さなかった。  ソールがくれた箱の中に一冊、クルトが妙に惹きつけられた本があった。いちばんくたびれて、いちばん余白の書きこみが多いものだ。それとソールから買い取った魔術書、クルトに「所有権」があるミュラーの著書『魔術における自然概念について』を並べ、大判のページを繰っていく。昔ソールのものだったという書物だ。  ソールに会いたかった。  いや、会わなければならない。  次第にそんな思いがつのり、止まらなくなった。  クルト自身にも、やや異常な感じがした。この何週間ものあいだずっと会いたいと願い、ソールについて想像をめぐらせていたときとも異なる、切羽詰まった気分が胸の奥からせりあがる。  めったに発動しない予知の感覚に似ていた。  なぜソールは店に来るなといったのか?  クルトはいまでは答えを知っている。ソールはかつて学院の図書室で禁書に手を出したからだ。そして魔力を失い、学院を出されたからだ。  そういう人物とつきあいがあることを、たしかに推薦人たちは良いと思わないだろう。クルト自身に危険思想があると疑われるかもしれない。  それがなんだというのだろう。 「かまうもんか」  つぶやいてクルトは立ち上がった。まだ早朝だ。今ならカリーの店は開いたばかりか、ソールの体調によっては寝ているかもしれない。  慣れた道を急いで、すこし前まで毎日のように通った商店街を抜ける。路地から店の階上をみあげると、暑くなりはじめたというのに窓は閉まっていた。鳩が鳴く声がきこえる。  表の扉は開いていなかった。眠っているのだろうか。クルトは裏口にまわり、鍵を取り出す。  この鍵をクルトに渡す前、ソールは裏口の錠前を変えていた。それまで使っていた古い鍵を回路魔術を使う新型に変えたのだ。 「僕はふだん裏口から入らない。きみだけが入れるくらいがいい」といって。  中は静かだった。階下の店内は書物が重しのような存在感をはなち、奥のテーブルには朝食の皿が途中のままになっている。階段をあがると乱れたままの寝台があり、床に数冊、本が散らばっていた。  なんでも几帳面に積みかさね、角をそろえるソールの癖を思うと変だった。鞄がないから出かけたのだろうが、こんなに急いでどこへ行ったのだろう。クルトはもう一度裏口から出た。店の表へ回っていく。  焦っていたので店に近づく他人の気配にも無頓着だった。だから唐突に怒りの声を正面から浴びせられたとき、クルトは本気でびっくりしてつんのめりそうになった。 「クルト・ハスケル! どうしてこんなところにいるのよ」  少年のように短い髪の女子学生が、腕を組んでクルトをねめつけていた。 「店主はどこ?」  途惑いながらもクルトは答える。 「いないようだ」 「それ、あなたのせい? ちがうの?」  クルトの呼吸が速くなった。 「なぜ? どういうことだ?」 「でなければ――きっとあなたの馬鹿なお友達のせいよ」  彼女の口調は剣を潜めているかのように尖っていた。

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