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【第2部 痕跡の迷路】8.さまよう

 僕は認めなくてはならないが、クルトには何度も驚かされている。彼は何度も、僕のつまらない期待や思いこみを裏切る。実用的なことは何もできない貴族の坊ちゃんだと思っていたら僕より食事の仕度が上手かったり、専攻でもない勉強を地味にやりとげる根気があったり、よく響く声で歌ったりする。そして何度も予想外のタイミングで予想外の場所にあらわれる。アダマール師の部屋や王城。  そして、この森。 「ソール」  声はもう一度はっきりきこえた。たしかに彼の声だ。  僕はふりむく。  クルトがそこにいた。  それでも僕は自分の眼と耳が信じられなかった。こんなところにいるはずがないと思う。カルタン以外は僕がここにいると知らないし、カルタンは彼を知らないだろう。 「どうしてここにいるんだ」  かすれた声が出た。 「探したから」クルトは平然と答えた。  まったく当然のことのようだった。朝起きたら太陽が昇るし、雨が降ったら傘をさすだろうというような、気軽な調子だった。  静かな森の中で下生えが踏まれる音が響く。僕の方へ歩いてくるのだ。学院の上着を着ていないが、たしかにクルト・ハスケルだ。 「ひと探しは得意なんだが、今度はすこし大変だった」  と僕に笑顔をむけながらクルトはいった。何週間も前に別れたときのままの口調で、そして輝くばかりの笑顔。僕がずっと思い描いていた…… 「ソールに会わなきゃいけないと思ったんだ。それでカリーの店に行ったら下級生に詰められるし、アレクはあんたに馬鹿なことをいったようだし、二階には本が散らばっているし、だから探した」 「探したって……どうやってここを」  僕はほとんどつぶやくような声しか出せなかった。 「師団の塔のセッキ師にたずねた。施療院にいるかもしれないというから施療院へ行った。そうしたら、治療師が森にいるというから」  僕にはにわかに信じがたかった。この施療院まで来るのがまず大変だ――王都から馬車で数時間かかる。その上、この森は意外に深いのだ。カルタンはここをよく知っているから、いつもすぐに僕をみつけるが、初めての人間に優しい場所ではなかった。おまけに僕は獣が出るのを心配されるくらい、ひとの気配の絶えた奥まで入りこむのがつねだった。  だいたい、僕は魔力を放射していないからクルトの〈探知〉にかからないはずだ。〈力のみち〉が交差するこの世界では僕はいないも同然、存在の穴のようなものだ。どうやって森に入った僕をみつけられたのか。 「うまいんだよ、俺は。昔から。かならずみつけられるんだ」  クルトはまたあっさりいう。 「ソールについても、コツはつかんだ」 「コツ?」  僕はオウム返しにつぶやいたが、意味はわかっていなかった。クルトはもうそばにいて、樹の幹にもたれたままの僕をみおろしている。緑の眸が僕をまっすぐみつめる。 「……どうしてセッキに会ったんだ」僕はやっといった。 「最近ソールのところで働いてるって下級生、セッキ師の弟子だというじゃないか。それで眼鏡のことを思い出した」  クルトは僕のほうへかがみこむ。彼の息をすぐ近くに感じる。僕は魅入られたように動けない。 「アレクのことでずいぶん詰められた。あの子、怖いな。ソールが好きみたいだし」 「イーディか? 何をいってる――」 「だめだよ。ソールは俺のだから」  そしてクルトは手を伸ばし、僕の肩にふれた。電流が走ったような感じがした。僕はあわてて立ち上がろうとする。「クルト――」できるだけ平坦な声を出す。 「試験が終わるまで来るなといわなかったか?」 「ああ、そう聞いた」  クルトは僕の肩に手をおき、僕はたちまち抱きよせられてしまう。薄暗がりのなかでも緑の眸がはっきりみえる。これではだめだと僕は思う。無理やり顔をそらしながら話すとおかしな具合に高い声が出た。 「僕がそういった――意味がわからなかったのか? きみの友人は? 僕に関わるべきじゃないと教えなかったのか?」 「それアレクだろ?」クルトは眉をあげた。 「もちろん話した。だからここにいるんだ」  僕は体をひねって立ちあがるとクルトの手を払った。緑の眸にさっと暗い影が走った気がする。さっきまで頭上に夕焼けの光彩が反射していた空は夜闇の青がせまり、森はみるみるうちに暗がりに覆われようとしていた。足元もどんどん暗くなる。  闇よりも僕を覆うクルトの存在感が圧倒的だ。  胸が苦しい。彼に触れさせてはだめだという声が僕のなかでこだまする。クルトは僕に関わらない方がいいはずだ。アレクがいったようにもし彼が禁書の区域にまで近づいたのなら、なおさら。 「ソール?」とクルトがいう。  僕はあとずさった。 「――来るなといったじゃないか」  もたれていた樹の幹から離れる。腰の鞄から下げていた獣よけの鈴が鳴る。 「ソール?」  僕は後ろをむく。 「ソール!」  呼ぶ声を無視して僕は走った。方向も考えなかった。頭にあったのは背後にあるクルトの気配から逃れることだけだ。踏まれた草から青い匂いがたち、足元で土が崩れた。靴がずるりとすべるが、持ちこたえてまた走る。追いつかれては駄目だという一念だけが頭にあった。クルトに触れられたら僕は―― 「ソール!」  息が切れて苦しかった。クルトが追ってきたという、その事実も苦しかった。どうして僕にかまうんだ。僕に関わることが自分の目標の妨げになると彼はどうして理解しないのか。  太い幹が眼の前にあらわれ、僕はあわてて衝突を避けた。根につまづきそうなところをすんでのところで避けて、僕がたどっている踏みあとはきっと獣道だろう。ゆるく下りになり、水の音がきこえ、足元の枯葉から湿った匂いがした。ぬかるんでいる。呼ぶ声はきこえない。あきらめたのか。心臓がばくばくいい、足が震えて、今度こそ僕は濡れた枯葉に足をとられた。ずるっとすべった。  あっと思う間もなく沢の方へ転がり落ちていた。反射的に頭をかばい、尻もちをつきながらずるずると落ちる。 「ソール! 大丈夫か!」  足音と呼ぶ声がまたきこえた。つかまれて、ひきよせられる。  頭をかかえた腕ごと温かいもので覆われ、そのままきつく抱きしめられた。やはりクルトの腕だ。クルトの匂いがする。かすかに甘い――麝香のような――  お互いの荒い息だけがきこえた。僕は正面から彼に抱きすくめられている。クルトの手が僕の髪をまさぐり、背中をさする。 「ソール。逃げないで」  クルトの声にはさっきまでの余裕がなくなって、はじめて聞く響きがあった。泣き声のようだった。 「俺から逃げないで」 「クルト……だめだ」 「だめじゃない」 「きみは……僕にかまっては、いけない」 「そんなことない」 「だってきみは――」 「俺こそだめなんだ。ソールがいないと――」  唇が重なってきて、こうなるとだめなのは僕のほうだった。クルトの腕と匂いに包まれて力が抜けた。  彼の上着をつかみ、顔をあげる。もっと深く唇をあわせる。閉じた目尻から耳のうらへ温かい指がかすめていき、僕の背中に震えがはしる。 「ソール、帰ろう」  耳元でささやかれる。  僕は首をふろうとするがままならない。クルトの手のひらが僕の首をしっかり支えているからだ。 「いやだ」とつぶやく。 「いやじゃない。一緒に居たい」 「クルト、だめだ」 「どうして」 「どうしてかって――」  僕はやっとクルトの腕をもぎはなした。日はとっくに暮れて、虫が鳴いている。月明りのおかげで真の闇を逃れているが、木々の影はなお濃い黒で、地面におちる。 「きみは――精霊魔術をおさめて、王宮に入るんだろう? 貴族としての確固たる身分で。学院で僕の話をきかなかったのか? 僕は前科もちだ。十年前の事故でいまだに見張られているような人間なんだ。どうして僕にかまう? きみの目標はどうした? きみも僕を哀れんでいるのか? ラジアンみたいに――」 「ちがう」 「なにがちがうんだ」 「ソール。帰ろう」クルトは僕の肩に腕をまわした。また唇が近づいて、ささやき声がいう。 「帰ろう、俺と」  なぜか涙があふれた。どうしてなのか、僕はクルトの前ではよく泣いているような気がする。土の上に座りこみ、クルトの腕をつかんだまま、いつしかしゃくりあげて、どうしてこうなるのか自分でもわからないまま、泣きつづけた。  ようやく息がつけるようになると自己嫌悪が襲ってきた。 「帰るって……もう暗い」  ぼそりとつぶやくと、 クルトは立ち上がり、僕の手をひく。 「とりあえず施療院へ戻ろう」 「道は――わかるか?」  僕はおずおずとたずねる。  方向もわからなくなるくらい夢中で走ったのだとあらためて自覚し、急に恥ずかしさに襲われた。まるで子供だ。この年齢でやることじゃない。 「大丈夫だと思う」  月明りの下で、クルトが僕に向かって微笑む。 「なぜ笑うんだ?」 「ソールが可愛いから」 「やめてくれ」  僕はうつむいた。この男はいったい何なんだ。 「きみはどうかしてる」 「うん。ほんとに俺はどうかしてる」  クルトは僕の手を握り、歩きはじめた。進む道はたしかにわかっているらしく、暗いのに足取りに迷いはなかった。僕は手をふりほどこうとしたが、離したかと思うとまたつかまれる。  しかたなく僕は彼の歩調にあわせながら文句をいった。 「クルト、手を離せ」 「いやだ。せっかくの機会なんだ」 「何がせっかくの機会……」 「だってソール、王都じゃ手なんてつないでくれないだろう」 「それは――」 「だからせっかくの機会なんだ。あ、足元、気をつけて」  月明りに煌々と照らされる施療院の輪郭が見えてきたころ、僕はすっかり疲れきっていた。ほとんど夜明け前に王都を出て、昼以来ろくに食べていないのだから無理もないのだが、自然とクルトに寄りかかるようにして歩き、やっと灯りのついた玄関までたどりつく。  腕組みした人影が立って「遅かったな」といった。 「カルタン」  僕はつぶやき、はっとしてクルトの手を離した。 「ソール。わかっているだろうが、王都に帰るのは無理だ。今日は泊っていきなさい」  カルタンは平静な声でいう。完全に予定通り、といった口調だ。 「すまない」僕はぼそぼそつぶやき、そのあいだもカルタンの強い視線を感じた。ひどく居心地が悪い。 「その……ありがとう」と、やっとのことで礼をいった。  カルタンは軽くうなずいて「ふたりは同じ部屋でいいな?」といった。 「はい」  僕が答えるより先にクルトが口をひらく。 「ソールは明日、俺と一緒に帰ります」 「クルト――」  僕は何か文句のような、抗議のような言葉をさがしたが、驚いたことにそれはクルトだけでなくカルタンにも完全に無視された。 「案内してあげよう。食事は部屋でとるといい。それから風呂も使いなさい」 「ありがとうございます!」  カルタンが扉を開け、クルトはさっさとそのあとをついていく。僕もあわてて彼に続いた。  施療院の廊下を歩きながら、どうしてこんなことになったのだろうという思いが頭の片隅にうかんできた。その一方でそんなのはどうでもいいことのような気もしていた。きっと疲れすぎていたのだろう。  僕らは庭に面した客間に案内された。  そして扉が閉まるやいなや、僕はまたクルトの腕に抱きしめられていた。

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