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【第2部 痕跡の迷路】9.しるしを探す

 クルトは子供のころ、屋敷の庭に棲んでいた猫に手ひどくひっかかれたことがあった。  一般に魔力が多い者は動物を扱うのがうまい。クルトもその例にもれなかった。屋敷で飼っている小鳥や犬はクルトを好いてすぐなついたし、幼いころから自分よりはるかに大きい、気性の荒い馬も簡単に馴らすことができた。  猫もそうだった。屋敷には猫がたくさんいたが、クルトが呼ぶと近くにきて一緒に遊んでくれるだけでなく、彼の言いつけもよくきいたものだ。ところが黒い毛並みに鼻づらと足だけ白いその猫はちがった。靴下をはいているように見えるので屋敷の者には「ソックス」と呼ばれ、たまに厨房で餌を与えられていたが、半分野生の猫だった。  半野生の猫はほかにもいたが、ソックスだけはクルトに対する反応がちがっていた。一緒に遊んだり、クルトが触るのを許す場合もあるが、無視したり、怒ったり、無理に抱き上げると逃げ出すことも多かった。  要するにクルトの都合でなくつねに猫の都合、猫の気分が優先されるのである。 「でもクルト様、猫というのはふつう、そういうものです」と庭師はいった。 「猫には猫の世界があるのです。クルト様は魔力が強いので、たいていの猫を自分の世界へひきよせてしまいますが、私のような並みの人間にとってはそうならないのがあたりまえです」 「でも、なぜあの子だけがちがうの?」  そうたずねると庭師は困ったように鼻をかいた。 「さあ。わかりませんがときおりそういう猫もいるのでしょう。ほかの猫は、人間の中からクルト様だけを特別扱いしていますが、ソックスはちがうのです」  クルトは頬の爪痕をなぞった。消毒したばかりでヒリヒリしている。 「それはがっかりだな。あの子の特別になれないなんて。ぼくはあの子が好きなのに」  すると庭師は笑った。 「説明がまずかったですね。逆なのです。ソックスがクルト様にとって特別な猫なのです」  その猫はいつのまにか屋敷の庭からいなくなった。 「ああいう猫はさまようものですから」と庭師はクルトをなぐさめたが、当時のクルトはひそかに決意したものだった。またあの猫が屋敷にあらわれたら、今度こそ遠くに行ってしまわないようにするのだと。彼にとっても自分が特別になるように努力するのだと。  案内された施療院の部屋は壁際に小さな灯りがついているだけだ。クルトは扉を閉めてソールに向きなおり、細い腰に腕をまわして抱きしめる。髪に顔をうずめて匂いをかぎ、彼がいるのだとあらためて確認する。 「クルト、苦しい」 「ごめん」  ソールのつぶやきにすこし力をゆるめるが、腕はしっかり回したままだった。  森でソールをみつけられたのはいいが、彼が走り出したときは心臓が止まるかと思った。森までたどりつくのも楽ではなかったし、そこからソールの気配を探すのも本人にいったほど簡単ではなかった。  魔術書の余白に書かれていた方法を知らなければ、森にのまれて彼をみつけだせなかったかもしれない。クルトの魔力を通して〈視た〉森は広漠として捉えどころがなかった。クルトのこれまでの人生に、樹木の静謐に埋もれるソールの薄い影をとらえた一瞬ほど、ほっとした瞬間がはたしてあったかどうか。 「離してくれ、汚れる……」  ソールの声にやっと、森で彼が足をすべらせたことを思い出した。クルトは両手で白い顔をかこみ、怪我をしていないか仔細に確かめる。 「濡れていないか?」 「もう乾いたが、きみの服が汚れる」 「俺は大丈夫。風呂を使わせてもらえるといっていたから――」 「僕のことは気にするな」 「だめだ。気にする」  クルトが手をひくとソールは小さなため息をついたが、黙ってされるままになっていた。部屋には寝台がふたつ、奥側のテーブルには簡単な食事があり、その向こうに浴室が準備されていた。クルトはソールを浴室へ押しやり――中へ入るのは、何をしでかすか自分に自信がなかったのであきらめた――服の皺をのばした。湯を使う音がきこえてくるとすこし安心して椅子に腰をおろして靴を脱ぐ。  ソールはここにいる。  カリーの店の前でイーディに怒られたあと、クルトの頭にあったのはソールの居場所を探すことだけだった。イーディがいうには、アレクがカリーの店を訪れた後ソールは店を閉め、二日すぎても開けなかったらしい。心配して扉を叩くイーディには窓から声をかけられたが、今日になってその窓も閉じたというのだ。  アレクを追求するのはあとまわしにして、クルトは師団の塔に向かった。クルトが知っている範囲でソールと長年つきあいがあるのはアダマール師と騎士団のラジアン、それに彼の眼鏡を作っている回路魔術師だけだった。ラジアンに訊ねるなど論外だ。というわけで、イーディが弟子だというのを幸い、回路魔術師のセッキを探した。  それからは、機械の音でにぎやかな塔の研究室でやたらと背が高い魔術師からソールが森の施療院にいる可能性を聞き出し、アダマール師を通じて主治医だという院の副院長に念話で連絡をとり、同じ方向へ行く使者に頼んで馬車に同乗し、その道々念話でアレクに問いただし……という具合に進んだのだが。  アダマール師の紹介状を手にやっと施療院までたどり着いたクルトに、副院長のカルタンはあまりいい顔をしなかった。それどころか「きみはソールについてどのくらい知ってる?」と詰問されたのだ。魔力欠如が原因でソールに起きている症状をクルトがどのくらい把握しているか確認され、さらにソールとの関係について突っこんだことを聞かれるに至って、治療者だからと我慢していたクルトの堪忍袋の緒が切れた。 「どうしてそこまで話す必要があるんですか?」 「私はソールの主治医だからだ。きみが妙なことをしでかさないように聞いておく必要がある」 「俺が――」クルトは下げた両手を握りしめた。「ソールを傷つけるとでも?」 「まさか」  カルタンはクルトを静かに眺めていた。魔力量だけならクルトの方が勝っていたかもしれないが、ベテランの治療師の風格にクルトは押され気味だった。 「ソールは強い。彼がこれまでどれだけの危機を乗り越えてきたか想像できるか? きみのような若造に彼をどうこうできるわけはない。私が心配しているのはきみだよ。きみは彼と対等になれるかね?」 「どういう意味ですか?」 「妙な勘違いをしていないかを気にしているんだ。十年前ソールは多くを失った。しかしもしきみが、彼を庇護すべき存在と考えているなら大きな間違いだ。なぜここまで彼を追いかけてきたんだね?」  そっとかけられた手に目が覚める。クルトはテーブルに肘をついたままうたた寝をしていたらしい。備え付けの寝巻を着たソールが気遣わしげな表情でのぞきこんでいた。小さな灯りに照らされ、濡れた髪の色が濃くみえる。 「きみも浴室を使うといい。明日は早く王都に戻らないと」  静かにいって、寝台のひとつに腰かけるとあおむけになった。クルトは後を追い、マットの隅に尻をのせる。  暗い色の眸をみつめながら「ソール」と呼んだ。 「俺から逃げないで」 「――クルト」 「ソールが何だろうとかまわない。あなたが――好きなんだ」  ソールはまた小さくため息をついた。 「きみ、試験はどうなった」 「十日後からはじまる。訓練はうまくいってるから――」  大丈夫だ、と続けようとしたが、ソールの声にさえぎられる。 「重要な時期にこんなところまで来るんじゃない。何度いえばわかるんだ?」 「いやだ。何といわれようと、俺はあんたを追いかける」 「クルト――後悔するようなことはやめるんだ。きみはわかっているはずだ。いや、わかってないのかもしれないな……」  ソールは起き上がり、背板にもたれた。ひたいに手をあて、うつむきがちに喋った。 「きみには目標があるだろう――卒業後王宮へ入るという。いまやすぐそこに手が届くところまで来たのに、きみは気をそらされているばかりか、僕に関わったせいで失敗してしまうかもしれないんだ。そうしたらきみはどれだけ自分の選択を悔いることになるか、考えてみろ」  今度はクルトの方が言葉をさえぎった。 「俺は後悔なんかしない」 「今のきみはそういうだろうが、先にできないのが後悔というものだからな。……それにたぶん、そもそものはじめから間違っていたのは僕の方かもしれない……」 「間違ってなんていない!」  クルトは思わず声を荒げた。真正面からソールに向いて膝をつき、顔を覆うように背板に両手をつく。 「俺がソールを好きになったことは間違いなんかじゃない。ソールが俺のことを好きなのも」 「クルト」 「俺は間違っていない。俺にとってあなたは特別だし、あなたは――俺のことが好きだ」 「クルト……頼むよ……」  ソールの吐息が甘く匂った。 「きみがいなくなっても教室はそこにある。きみが失敗したら、おなじ野心を持った者がきみの後に教室へ来るだけだ。きみは彼らをみて後悔しないといえるか?」  ソールはクルトをみつめ、こらえるように何度もまばたきをした。クルトはたまらず唇を寄せ、ソールの目じりに触れた。 「クルト――」ささやきがもれる。 「やめてくれ。きみに触れられると僕は――」 「ソール」 「僕は抵抗できない。僕は……」  いつしか体じゅうが緊張と欲望ではりつめていた。クルトは大きく息を吐いた。ぶつかる肩や足が熱い。このまま押さえこみ、屈服させたい衝動と戦う。  また息を吐き、たぎるものを黙殺するように、ソールの肩口に顔を埋めた。 「あなたはきっと信じないだろうけど」と恋人の骨に響かせる。 「俺はあなたに関われるなら、何も後悔しない」  ソールの髪を撫で、耳元で「おやすみ」とつぶやいた。相手の反応を知る前に浴室へ入り、扉を閉めた。

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