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【第2部 痕跡の迷路】10.左手を壁に
クルトは眠ったのだろうか。
僕はあおむけに横たわって眼を閉じている。体は泥のように疲れているのにちっとも眠れなかった。
隣の寝台は静かだ。浴室から出てきたクルトは灯りを消し、黙って横になった。彼の動きにあわせて施療院の石鹸のつんとする香料が漂い、僕は一瞬、彼がこちらに来るだろうかと思ったが、そんなことはなかった。
本音をいえばクルトがそこにいるのが嬉しかった。一方でそれを認めるのはいけないことだ、という考えも強固に立ち上がり、僕の中でこのふたつの思いはずっと相討ちしつづけている。
空気には石鹸の匂いにまじってクルトの匂いも漂っているような気がする。きっと気のせいだろう。僕自身が彼の匂い――彼の腕を求めているから、そのせいなのだ。僕はもうとっくに屈服していた。クルトが十歳も年下だとか、まだ学生だとか、精霊魔術を使うとか、まったく立場のちがう貴族の出身だとか、どれだけそんな事柄を並べたてても、彼がそこにいるかぎり僕は求めてしまうだろう。
部屋の窓にはどっしりしたカーテンがかかり、外の月明りは完全に締め出されていた。灯りなしでは何もみえないし、虫の鳴く声もきこえない。
「クルト、眠っているか?」
「ん? いや……」
もぞりと動いた気配があった。「眠れないのか?」と聞き返される。
「ああ」
「疲れているんだろう?」
暗闇のなかで僕は隣の寝台の方をむいた。
「クルト。話しておきたいことがある」
「なに?」
「十年前、僕が学院の図書室で起こした事件のことだ」
他人にいうべきでない言葉というものがある。口に出せば引き返せなくなる秘密がある。職業として「聞き手」である治療師ならともかく……だが、僕はもうどうかしていたのだ。話さずにはいられなかった。
「僕らは秋の審問を終えた直後だった。親しい友人がふたりいた。ひとりはいまでは教授になっているヴェイユ、もうひとり……」僕はいい淀む。「治療師になると決まっていた友人がいた。彼は審問のために西の施療院から学院へ戻っていて、全員審問に問題はなく、僕らはかなり浮かれていた」
クルトの寝台からは物音も相槌もなく、彼が聞いているのか、起きているのかもわからなかったが、僕は続けた。
「そのころ僕らは〈視る〉ことに取り憑かれていた。僕とヴェイユは理論の専攻で、卒業後も学院へ残ることになっていた。もうひとりの友人も実家の意向がなければおなじ道を選んでいただろう。僕らは同級生のなかでも魔術狂として有名でね。いつか自分たちこそが、魔力と物質世界の関係性の根本を解き明かすのだと信じていた。とくに僕と彼――治療師になる彼は、当時個別の能力をどこまできわめるかに集中していた。ヴェイユの方向性は少しちがっていた。彼は僕らほど〈視え〉なかったせいもあるんだろう。その分もっと概念的な内容に興味があったが、僕らの実験には興味をもっていた」
僕はゆっくり話そうと心がけた。全体を物語るのだ。すみからすみまで精密な絵のように僕に残されている記憶を順に語っていくのではなく、自分のなかで整理した物語のようにして。
「彼は――治療師になるために西へ行った友人と、僕はすこし似ていてね。田舎の出身で、貧乏学生で、魔力量が桁違いだというので幼いころから地元では浮いていた。ただ、彼は治療師になるのを嘱望されて学院へ来たのに対して僕はそうじゃなかったが、ともかく僕らは気が合った。僕は、彼が夏に施療院へ配属されて行ってしまったあと、さびしくてたまらなかったし、僕らは暇なときはいつも念話でつながっていた。そして彼が秋の審問の前に戻ってくるのをずっと待っていた」
クルトが動いた気配がする。室内の闇はやわらかく、沈黙も暖かかった。僕はそのまま話し続ける。
「彼が戻ってきて、僕らはひとつ、ある――冒険をしようと思った。とある書物を細かく検討したかったんだ。その書物は最初カリーの店にもちこまれ、いつのまにか学院へ渡っていた。僕は学院の一年目からカリーの店で働いていたから、書物が店に置いてあったとき、たまたまその場にいたんだ。そしてこれこそが自分の求めていたものだと直感した。だが僕の知らないうちに、書物は図書室の奥の禁書の区画――いまは学生には見えないように遮蔽された区画に納められた」
「その前でヴェイユ師と会った」
暗闇のなかでクルトが低い声でいった。
「そして警告を受けたよ」
「そうだろう。ヴェイユはもう二度と僕らのような人間を出したくないはずだ。事件のあと、ヴェイユは僕を心配して施療院に来てくれたが、僕は彼と話せる状態じゃなかった。あれからずっと会っていないが……ともかく僕ら――僕と彼は、ある晩その区画へ侵入した。僕らが愚かだったのは、『禁書』とされるものの中には、書物に書かれていることが危険なだけでなく、書物それ自体が危険な魔術を行使する――そんな書物もあると知らなかったことだ。まあ、多くの場合書物の魔術はあまり強力ではないし……ほとんどは未熟なものが触れないための軽い警告や、その書物の『所有者』以外は特定の内容が読めない仕掛けがあるとか、その程度だが、あの〈本〉は違った。あれはすぐ前にいた彼におのずから襲いかかった。ページは燃え、図書室も燃えた。そして彼も」
しだいに息苦しくなってきた。僕はまたあおむけになり、呼吸をととのえる。
「彼がその本に襲われている時、僕と彼は同期していた。僕はきずなが切れないように彼に力をそそいだが、書物の炎はあまりにも強かったから反射的にもうひとつ禁忌を試したんだ。僕の魔力の根から他者へ力を与える方法で……ひとことでいえば自殺行為だった。そのまま意識を失って、気がついたら施療院にいた」
クルトは無言だった。僕は自分の声が落ちついているのに安心する。
「僕のしたことは無駄だった。彼は死んでしまい、いくつかの貴重な書物が燃えた」
「無駄じゃない」急に隣から強い声が響く。
「あなたが生きている」
「でも僕は……」また息が苦しくなってくる。
「彼に生きていてほしかった。どんなふうになってもいいから生きていてほしかった……僕はまだそう思っている。彼は死ぬべきではなかった。僕は彼が生き返るなら――僕自身などいくらでも捧げるだろう。ほんとうに、そのためなら僕の魔力なんていらないとあのときたしかに思ったんだ」
「ソール」
「最悪なのは、そう思ったにもかかわらず、僕はこんな状態になってしまった自分をいまだにみじめだと思っていることだ。自分の愚かさのせいで、何も救えず、ただ失ってしまった。彼を失ってしまったのに」
「ソール……」
ぱさりと毛布がはねのけられる音がした。
「そっちに行っていい?」
なんと答えればいいのかわからなかった。僕が黙っていると空気が動く。
「触らないから」
「僕は……逃げないよ」
「隣にいたい」
答えに迷うひまもなかった。一瞬でかぶった毛布の上に重みがのしかかる。毛布ごしに熱が伝わり、クルトの匂いがする。
「ソールはみじめじゃない」とクルトがいう。「あなたは――俺がこれまで会った人間のなかで、いちばん強い」
「クルト……」
「話してくれてありがとう」
「僕のしたことは間違っていた。だから――きみには僕のようになってほしくない」
「大丈夫だ」
すぐ上で聞こえるクルトの声は低く官能的だった。毛布を通したぬくもりに僕の体が震える。
「ソール――触らないから、このままでいさせて」
「だめだ。風邪をひいたらどうする」
闇に慣れた目にクルトの顔の輪郭がぼんやりみえる。僕は腕をのばし、クルトの両肩に手をかける。
「こっちにおいで」
「いい? 俺――調子に乗るかもしれない」
「乗りすぎないなら……」
つぶやくと同時に毛布の下にクルトのぬくもりがもぐりこんだ。暖かい腕が僕の肩にまわり、熱い息が目元にかかってぞくりとした。
「どのくらいなら調子に乗っても?」
「だめだ」
「ちょっとだけ」
僕は顔をそむけようとして、うまくいかない。
「キスだけなら――……」
「そう?」
唇が重なってきて、僕らは口づけをする。クルトは最初は子供をあやすように僕の唇をやわらかくふさぎ、次に隙間に舌先をさしこんでくる。歯の間をなぞられた僕の背中がぶるっと震え、振動がクルトに伝わると抱きしめる腕の力が強くなる。舌をからめあい、唾液をひき、唇を離してはまた重ねて、口づけはいつまでも終わらず、シャツごしに押しつけられる胸の温度が上がっていくようだ。
いつしか僕らは足をからませ、体を押しつけあっている。ここには図書室で亡くした彼のように心と心がつながることはなく、ただ体の接触だけがあり、だからこそ安心できるような、さびしいような気持ちが満ちる。
「ああ、ソール……好きだよ」とクルトがささやく。「俺はあなたに出会えてよかった」
その素直さに僕は感嘆し、同時にせつなさでいっぱいになる。クルトの腕の中にいるのはあまりにぜいたくすぎて、亡くした彼の名も思い出せない僕にこんなことが許されるのだろうかと思うが、涙は出てこない。クルトは僕を横抱きにして鼻先、目じり、耳元と小さな口づけをつづけながら「もうやめるから」とささやく。
「調子に乗りすぎてしまう」
「眠れるか?」
「ソールを抱いていたら眠れる」
その言葉どおり、僕の頭を肩のくぼみにのせて抱いたまま、しばらくするとクルトは寝息をたてはじめた。彼の胸が規則正しく上下するのを感じながら、僕は彼の健康さに安堵していた。ついに眠気は訪れなかったが、クルトの腕の中にいるのは心地よかった。
まだ夜明け前だが、東の方はしらじらとしている。テラスから庭園に出て菜園の方向へ歩いていくと、作業着姿のカルタンが腕を組んで立つのに出くわした。
「眠らなかったのか」
「あまり」
「休息はとれたらしいな。六十点というところか」
小さな菜園は収穫が食卓の補充になるだけでなく、施療院の患者の手慰みとしても機能するが、ここにいたころの僕は作業する人々を見ていただけで何もしなかった。
「追いかけてきた彼はどうだ」
ぼんやりと根菜の苗をみつめていた僕に、カルタンがいう。
「どうって」
「あそこまでまっすぐだと逆にやりにくいかもしれないが、彼は本物だぞ」
「わかってる」
カルタンは僕をじろじろみて、唐突に「彼が好きなんだろう」といった。
「好きだよ」
僕は反射的に答えた。声にして吐き出すとほっとした。何の抵抗もなかった。
「そう。好きだ。僕には許されないくらい」
驚いたことにカルタンはにやりと笑った。「そんなことはないさ。よかったな」
「でも僕が認めてしまえば……」僕はためらいながらいう。
「クルトはいずれ選択をしなければならなくなるはずだ」
「彼にはその権利があるんだ」カルタンはまた真面目な顔になる。
「おまえを選ぶ権利もある」
「選ばない権利もあるんだ」
「いずれわかるさ」
東の方がますます明るくなり、吹き流しのようにたなびく雲が淡い紅色に染まった。菜園に他の人影もあらわれる。ゆっくりした動作でうずくまり、苗の状態を確認している。柵にくくられたかかしがすぐ上から見おろして、遠目にはどちらが生きている人間なのか、わからなくなる。
「朝食を食べたら出発するかね?」とカルタンがいい、僕はうなずいた。
「いつもありがとう」
雲のあいだでちかりと光るものがある。太陽のすぐ近くにいるのに、まだみえる星があるのだ。
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