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【第2部 痕跡の迷路】11.中枢へ

 狭い道にさしかかると森をこえてのびた枝が馬車の窓枠をかすり、ガサガサ鳴った。  路面はあらく、轍をはずれるたびに馬車は揺れた。最初に大きく揺れたとき、クルトは隣に座るソールの腕にそっと手をすべりこませたが、ソールは何もいわなかった。そのまま腕をからませて体を寄せると、クルトの肩に砂色の巻き毛が触れる。  馬車の窓から森の湿り気をおびた風がながれこんでくる。足元や座席の後部は施療院で積んだ荷物でいっぱいだった。ほとんどは薬品類だという。ふたりは朝いちばんに王都へ向かう馬車に同乗していた。空はきれいに晴れ、日が昇るにつれて温度があがりつつある。今日の王都は暑いだろう。  ソールはいつものように静かで、その雰囲気におされたようにクルトもあまり話さなかった。昨夜クルトはソールを腕の中にいれたまま眠ってしまい、目覚めたとき恋人はすでに起きて着替えていた。いったい眠れたのだろうかと心配に思ったが、隣から伝わるのはこれまで以上に落ち着いた雰囲気だった。  馬車が揺れるとたしかめるようにちらりとクルトへまなざしが向き、ついで窓の外へと流される。そのしぐさやときおり羽根のように触れる髪の感触、すべてにクルトはうっとりしたが、人前で肩を抱きよせるのは我慢した。  街道は森をぬけると農地に出て、馬車はときどき、牛をつれた農夫が道を横切るのを待った。支流にかかる橋を渡れば王都はすぐだ。橋の手前で御者は一度馬車をとめた。一服するのだという。クルトたちも下りて足をのばし、川べりまで歩いた。  雨の季節がすぎたばかりで川の水位は高く、水は音をたてて流れていた。ずっと先で隣国との国境をなす本流の川へ合流し、海までつづくのだ。暗青色の水のおもては光を映してきらめきながら変幻自在なドレープをかたちづくる。ときおり岩にぶつかってしぶきと小さな滝になる。みつめていると、すこし濁った水の下に生き物の影がかすかにうかぶ。  隣国とは王族が何度も婚姻をむすんでいるせいもあり、安定した関係で商業もさかんだった。本流の河口ちかくには大陸との貿易港があり、都市がさかえているが、海岸ぞいに北へすこし上った海辺の町はこの国でも避暑地として有名で、盛夏から秋口にかけて余裕のある商家や貴族たちが訪れる。ハスケル家所有の別荘やコテージもそこにあり、一度クルトはソールを誘ったが、たちまち拒否されてしまった。  ソールはきっと海が好きなのだとクルトは確信していたが、そのときあまりにもすばやく断られたので二度は切り出せなかった。それでも彼は寝る前によく海に関係する書物を読んでいて、気候から生き物、船に関することまでじつに博識だった。  隣でじっと水面を眺めるソールの横顔をのぞきながら、いつか彼を海辺へ連れていきたいとクルトは思う。ソールは承知するだろうか。  ふと、まだまだ自分は子供のようなものだとクルトは思い知った。能力には自信があったし、身分の高い生家は裕福で将来には何の問題もないだろう。しかし自分自身はというと、まだ何者にもなれていないのだ。いまだ、当主である父とも張りあえないし、隣に立つ物静かな男を支えていられるほどの力があるわけでもない。  早く「何か」になる必要があった。学院の試験を終え、精霊魔術師の資格を得ればそれが叶うのだろうか。王宮へ無事進路を決めれば「何か」になれるのか。それとも……。 「どうしたんだ? 静かだな」  気がつくとソールがじっとのぞきこんでいた。 「揺れると疲れるな。わざわざ遠くまで来てくれてありがとう」 「いいや」  クルトは抱きしめたくなる衝動をおさえてそっと手だけ握った。振り払われるかと思ったが、ソールは逆に握りかえし、細い指をからめた。クルトの胸の底でぱたぱたと喜びがはばたいた。手のひらに伝わる熱をこのままずっと覚えていられたらいいと願う。 「そろそろ出るようだ。行こう」  ソールの靴先で小石が崩れ、そのまま流れにのまれていった。  カリーの店に帰ったのは昼どきだった。  クルトは裏口の鍵をあけ、ソールは先に中へ入った。階段をあがり、頭上で床板がきしんで、窓をあける音がした。クルトはキッチンで湯をわかし、放置されていた朝食の皿を片づけると戸棚にあったパンを切る。  ソールが降りてきて隣に立つと「しつこいようだが、試験は大事だ」という。 「わかってる。ソールが昼を食べたら学院へ戻る」 「ここに来るなとはもういわないが……昨夜の僕の話を覚えているだろう。あまり来ない方がいい」  クルトはナイフを置いて横を向き、ソールの眸をみつめながら顎に手をかけた。 「わかった。あまり来ないようにする。どのくらいならいいかな?」 「クルト……」  あきれているのか、ため息まじりに名を呼ばれながらそっと唇をあわせたときだった。店の扉が大きく音を立てた。 「ソール! いるんだろう? いつ戻った?」  発する気配にも声にも覚えがあった。騎士のラジアンだ。クルトは眉をひそめたが、ソールは小走りに店を通り抜けて鍵や鎖を外した。扉がひらいたとたん、ラジアンがつかつかと入ってくる。 「いったいどうしたんだ」と体格にみあうだけの大きな声でいった。  ソールは静かに返した。 「森の施療院へ行っていただけだ。心配するな」  ラジアンはソールをまじまじとみて、顔をしかめている。 「その前も店を閉めていただろう。なにがあった?」  クルトは静かに書棚のあいだを歩いてソールの後ろに立った。ラジアンはクルトをみてかすかに目をむいた。彼からははっきりとソールに向かっている情念――愛情と責任感――のほかに、驚き、それにクルトへの敵愾心と嫉妬が感じられる。わかりやすい人物だとクルトは思った。自信があり、常識的だがわずかに暴力的、衝動的なところもあって、それを騎士としての矜持や秩序に対する忠誠が抑えている。クルトについては外見や生家の身分が念頭にあり、油断ならないと思っているが、基本的にただの若造だと見下している。 「ハスケル。おまえのせいか?」 「ラジアン」ソールがさえぎった。「クルトは関係ない。店を離れていたのは僕の問題だ」 「ソール、大丈夫なのか? おまえ――」 「何もない。静かな場所で過ごしたかっただけだ。心配するな」 「だがおまえが静かなところへ行きたくなるのは何かあった時だけだろう。まさかそいつが何か――」 「ラジアン」  ソールは強い口調でさえぎった。「クルトは関係ないと何度いったらわかる。おまえもいいかげん、そんな風に僕を扱わなくてもいい。僕は自分の面倒は自分でみれる」  ラジアンはかすかに下を向き、怒りをこらえるように唇を噛む。 「そうはいってもだ。俺には報告の義務もある」 「黙って突然留守にしたのは悪かった。見回りの隊士にもそういってくれ」 「なあ」クルトは思わず口をはさんだ。「ソールがどこへ行こうと勝手だろう。あんたソールを見張ってるのか?」  とたんにラジアンは気色ばんだ。 「ちがう。俺は――」 「クルト。黙っていてくれ」ソールがまた口をはさむ。「――いや、このさいだからきちんと説明した方がいいか」  話しながら砂色の巻き毛をかきあげる。この場にいる人間のなかでいちばん冷静にみえた。クルトがこれまでみたことのない種類の落ち着きがあった。 「昨夜話したように、十年前僕は禁書に触れた。その結果いまの僕には魔力がなく、禁書の魔術を使うこともできない。しかし僕の精神にその内容がある以上……たとえその知識が僕の意思に届かないところへ封じられているとしても、僕はまだこの国にとって危険な存在でありうる。だから王城警備隊は僕の居場所を知る必要がある」  クルトは思わず声をあげた。 「そんなのって――あんたは十分に代償を払ったはずだ――」 「これは学院と審判の塔のあいだの取り決めで、僕も同意している。それに悪いことでもないんだ。どれだけこの店に稀覯本があっても、警備隊が見張ってくれるから泥棒も入らない」 「でもソール」クルトは言葉にせずにはいられなかった。 「あんたの自由は?」  ラジアンが苦い顔をした。 「ソールはどこにも行けないわけじゃない。ただ……俺たちは知っていなくてはならないだけだ」  ソールはおだやかにクルトを見返した。 「そんなに大げさにとるな。たいしたことじゃない」 「でも……」  クルトは何をいえばいいかわからず、沈黙した。たしかに罪人とまではいえないだろうが、まともな市民の扱いとは到底いいがたい。ラジアンも居心地悪そうに立ちつくしている。緊張を解くようにふいにソールが肩をすくめた。 「ふたりとも帰ってくれないか。ラジアンも面倒をかけて悪かった。明日から店をあけるから、今はひとりにしてくれ」  断固とした口調で双方をみやる視線に、最初に動いたのはラジアンだった。「ちゃんと戸締りしろよ」といって扉へ向かい、店を出る。ソールが「ラジアン。その母親みたいなの、いいかげんにやめろ」と言葉を返す。 「おい、ソール。それはないぜ――」  クルトもラジアンの後ろについて扉の方へ向かったが、頭の中には昨夜から今日にかけて知った事実がつづれ織りのように模様を描いていた。ようやくソールの周囲にあるさまざまな事柄が腑に落ちたが、それだけでなく、腹の底にじっくりと熾火のようにたまるものがあった。  これは怒りだろうか? やるせなさだろうか?  ラジアンが店の外に出ると、背後にいるソールを無視して内側から扉をばたんと閉める。そのまま鎖をかけ、つっかい棒をした。 「クルト?」彼をみていたソールが不安げな声を出した。 「今日は学院へもどるんだ。僕を――ひとりにしてくれ」 「いやだ」はっきりと口に出し、クルトはふりむいた。 「戻らない」 「だめだといったろう。大事な時期なんだから――」 「今あんたをひとりにするほうが、もっとだめだ」  ソールの砂色の髪が薄暗い書店のなかではっきりと浮かびあがる。その下の眸は暗く、静かな水面のようだ。 「クルト、僕を哀れまなくていいんだ」  声もあいかわらずおだやかだった。 「ちがう、ソール」クルトの喉の奥にこみあげてくるものがある。 「ちがうんだ。――そうやって、俺をひとりにしないで」  そしてまっすぐソールまで歩いていき、抱きしめた。

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