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【第2部 痕跡の迷路】12.扉の向こう

 施療院で目覚めたとき、視界は妙に平らにみえた。 「気づいた?」  音が聞こえ、それが声だとわかるのに時間がかかった。影が動き、僕はしばらくそれを凝視し、やっとその何かが人間だと理解した。  まるで周囲の世界が長く、ゴムのように引きのばされたようだった。にょろりとのびて平坦なのだ。何でも一歩遅れて感じる一方で、光はまぶしく眼を焼いた。僕は袖をもちあげて眼を隠そうとしたが、体が動かない。もがきながら「やめてくれ」といおうとするが、口の中はカラカラで、ようやく出た声もとても奇妙に響いた。まるで動物の鳴き声のようで、意味をなさない。 「大丈夫。落ち着いて」  耳に聞こえる音が言葉だと理解するのにも時間が必要だった。知覚のすべてが僕の思考より遅すぎるか、早すぎる。眼の前の影はそんな僕をみて、何かいっているらしいが、僕にはさっぱり理解できなかった。混乱しながら差し出される何かをはねのける。わけがわからないものを口に入れたくない。尖った大きな音がして、顔に冷たい感触がかかる。 「安心して、ただの水だから」  言葉は僕をすりぬけていった。近づいてくる何かをはねのけ、パニックに陥った僕の口から音がもれる。突然首のうしろへ凍るように冷たいものがあてられ、僕の意識は途絶えた。  ある程度まともに――人間らしくなるのに数日必要だった。引きのばされたり早すぎたりした周囲の空間と自分の感覚がようやく一致すると、僕が知覚する世界は急速に凹凸を失った。  影がないのだ。  見えなくなったわけでも聞こえなくなったわけでもなかった。ただ、これまで感じていた、世界を覆う微細な色彩や手触りのようなものが突然すべて消え失せてしまい、僕に感じられるのはまったく色や味、匂いのない、抜け殻のようなものだけになった。何を見ても聞いても平らでなめらかで灰色で、それ以上のことを教えてくれない。 「魔力がほぼ枯渇してしまったせいだと思う」とカルタンがいう。まだ二十代後半で、背中を丸めるようにして僕が座る寝椅子の前に立っている。 「残念だがいまの私たちには元に戻すことはできない。でもこの状態にどうやって適応するかなら、教えられる」 「僕はずっとこのままなのか?」と僕は聞く。 「ずっとではないよ」とカルタンは答える。「魔力は戻ってこないが、魔力がそれほどないふつうの人間のように外界を感じることはできるようになる。今は想像できないだろうが、その素晴らしさだってわかるようになる」 「そうかな」と僕はいう。  森に囲まれた施療院で、治療師は僕をいろいろな方法でテストし、訓練した。治療師たちは老年で魔力を失った患者を扱いなれていて、僕も彼らや他の患者に慣れた。  王都からはアダマール師と先代のカリー、それに故郷から母が一度やってきた。  学院の友人たちも一度見舞いに来てくれたが、彼らとろくに話ができなかった僕はショックを受け、その後は友人の見舞いをすべて拒絶した。ずっとあとになって、事件直後の僕がいちばん混乱していた時、ヴェイユが何日も施療院に詰めていたとカルタンが教えてくれた。しかし僕が意識を取り戻してからは、ヴェイユは一度も訪ねてこなかった。  そんなある日、王都から騎士がふたりやってきた。新人と古参の二人組だ。そして僕に「彼」が死んだことを告げ、事件について質問をはじめた。ふたりは二回施療院に来て僕を尋問した。三回目、なぜか新人の方だけが見舞いを持ってやってきた。彼はラジアンと名乗り、僕は王都へ来てはじめて、学院の外に友人をつくった。 「ソール」  クルトが呼んでいる。僕は現在に戻ってくる。記憶に潜っていたのは一瞬か、あるいはもっと長い時間だろうか? 立ったままクルトの両手に顔を包まれていた。胸がふれあうほどすぐそばにいて、緑の眸がのぞきこんでいる。 「大丈夫か? 昨日ろくに眠ってないだろう? 顔を洗ったら上で横になろう」とクルトがいう。  ついさっき、僕は彼に帰れといったはずだ。また心配させてしまったのだろうか。  森を抜ける馬車の道中は僕も彼も土埃まみれにしていた。ずっと年下の彼にそんな子どものように扱われるのは矜持が許さない一方で、心地よくもあった。今日は帰れと何度もいったにもかかわらず、彼がいなくなるとがっかりするに決まっている。僕はクルトに出会ってから孤独になることの恐怖を思い出してしまった。  それなのに森の施療院に行ってから、僕の中で少し何かが変わったらしい。今の僕は不思議と肚がすわったような気がしている。これからもいろいろなことが起きるだろうが、きっと僕は大丈夫だろう。なぜそう感じるのかは自分でもわからないが。 「帰れといったのに」  緑の眸を見返していうと、クルトは「いやだ」と子どものようにいう。その声を聞いていると可笑しな気分がわきあがり、僕は思わず笑い出す。 「ソール、どうした?」 「なんでもない」  僕はクルトの背中に腕をまわした。 「キスしたい」 「え?」  驚いたような声にかまわず唇を重ねた。眼を閉じてクルトの薄い唇を味わいながら、背中にまわした手に力をこめる。上唇を食み、歯のあいだをていねいになめる。クルトの手も僕の腰にまわり、体を強く押しつけられると同時に舌を吸われた。  おたがいの汗と埃の匂いをかぎながら、抱きしめあい、求めあううちに頭の芯がぼうっとしてくる。クルトのシャツをつかんでさらに深い口づけをせがむ。腰の中心が堅く熱くなって、直接肌に触れたい欲望を抑えがたくなる。体を押しつけあって、離れた唇から唾液が糸をひく。クルトの指が僕の背中から腰をたどるにつれ、ぞくぞくと震えがはしり、体の奥がうずいた。 「ソール……」  つぶやいたクルトの眼の下に欲情の影がおちる。僕の腰を抱いたまま首筋に顔を埋め、鎖骨のあたりでささやく。 「したい」 「……ふたりとも埃まみれだ」と僕はいう。 「洗うから」  いきなりクルトは僕の手をひき、階段の下の小さな洗い場へ連れこんだ。勝手知ったる様子で蛇口をひねり、小さな浴槽に湯を流すと――魔力があれば先代のカリーが使っていた便利な仕掛けが動くのだ――僕のシャツのボタンを外しはじめる。僕も負けじとクルトのシャツに手をかけ、ふたりで服を脱がせあって外へ蹴り出した。  僕はクルトのベルトをゆるめ、下履きを一気に引き下ろす。すでに猛った彼自身をそっと握りながら床に膝をつく。 「ソール?」  また驚いたような声が聞こえたが、かまわず舌をはわせた。先の方だけ存分になめ、それから口の奥まで含んで、唇でしごく。 「ああ……ソール」  クルトの手が僕の髪をまさぐり、腰をゆるく突き上げて喉の奥まで押しこんでくる。根元に手をそえてしごきながら舌を使い、クルトがあえぐ声をきく。いつもは彼の方が僕をこうして蕩かすのだが、逆になっているのに僕は興奮している。先端までしゃぶり、吸い上げると、クルトがたまらないといった様子で声をもらす。 「ソール――」  クルトは僕の髪をつかむと彼自身を口から引き抜いた。あっと思う間もなかった――白濁が飛んで僕の顔にかかった。 「あっ……ソール――ごめん」 「いいんだ。したかった」  僕はクルトをみあげ、唇の周りについた彼の精をなめた。  と、いきなり腰を抱かれて強い力で引き上げられ、壁におしつけられる。 「俺もしたい」  下衣がひきおろされ、裸の腰と腰が触れた。一度達したのにクルト自身はいまだに堅かった。かるく擦れただけで僕の背筋に快感が走るが、クルトは僕の耳元で「その前に洗わないと」とささやき、手桶に汲んだ湯と共に僕の肩から背中、腹へと手をはわせた。  触れてほしい中心は慎重に避けられているのにクルトの手が動くたびにあえぎがもれ、僕は背中を壁にあずけたまま物欲しげに腰を揺らしてしまう。湯気が立ち、いつの間にか石鹸の匂いがして、僕の体のいたるところをクルトの指が動いて、愛撫する。片手を壁について、僕の耳に息をふきかけ、たまらずもれた声に「可愛い」というささやきがきこえた。胸の突起をいじられるともうだめで、僕は足をがくがく震わせながら大きく声をあげそうになり、あわてて嚙み殺す。  石鹸でぬるついた体をこすりつけあっているだけなのに、途方もなく気持ちがよくて気が遠くなりそうだ。その隙にうしろにまわった指が奥に侵入し、僕の体はほとんど違和感を感じる間もなく飲みこんでしまう。唇がまたふさがれ、舌の愛撫とクルトの怒張を僕自身で感じながらさらに増えた指で奥をまさぐられ、ほぐされて、やがて快楽の中心を押さえられた。 「あっ……クルト――だめ――」  ふうっと耳元に息をふきかけられ、からかうような響きがいう。 「ほんとに?」 「ああっ……お願い……立ったままじゃ――」  僕はたまらず腰を大きく揺らしながら射精した。  結局余裕があるのはクルトの方だった。僕は壁に手をついたままずるずると床にくずれ、洗い場に膝立ちになっている。クルトはなおも僕の奥へ指をいれてまさぐり、しびれるような快感で僕を思うままにしながら、うしろから胸を抱き、耳元でささやく。 「気持ちいい?」 「ああっ……いい……」 「どうして欲しい?」  クルトはいつもこう聞くのだ。うしろにクルトの怒張が当たって、いわなくても僕が、指だけでなく彼自身でつらぬいて欲しいとわかっているくせに、僕が彼を欲しがるのを、欲しくてたまらないのをはっきり口に出すまで僕を焦らしつづける。 「ちゃんと……して……欲しい……」 「俺が欲しい?」  僕はがくがくと首をふり、うなずく。あたりは湯気でいっぱいで、天井からしずくが滴っては僕らの上におちる。腰を抱えられ、ついに彼が入ってくると、あれだけほぐされていたのに久しぶりなのもあってか、入り口がきつい。僕は息を吐き、クルトはなじむまで待って、それから一気に奥へ突き入れた。 「あ……ああ……」  うしろにのしかかられ、突き上げられると、先端が奥の快楽の中心を正確にえぐって頭の芯が真っ白になるほど気持ちがいい。僕は無意識に前後に腰をゆらし、中をさらにこすられる感触に我を忘れる。首筋にかかるクルトの吐息も熱く余裕がなくなって、僕の体が彼をそうさせているのだと思うと、体だけでなく心まで震えるようだ。 「ソール……俺もいく……」  前に回った腕が僕を強くひきとめるように抱えて、ついに腰が何度も激しく突き上げられた。僕は奥を突かれてまたも吐精し、ぼうっとしたままクルトがうしろに覆いかぶさる重みを感じる。 「……大好きだ……」 「僕も好きだよ……」  つぶやいたとたん、僕の濡れた髪をわけていた手が一瞬止まった。 「ソール、もう一度いって」  背中に重なったクルトの温もりを感じながら、僕はもう一度いう。 「好きだよ」  と、いきなり抱えられて、腰掛に座ったクルトの膝の上にうしろ向きに座らされていた。 「もう一度」  クルトは背中をぴったりつけて片手で僕を抱き、片手で手桶の湯を僕らふたりにかける。 「だから、好きだって」  腕の力が強くなり、耳の下でささやかれた。 「ほんとにソールがいってる?」 「当たり前だ」 「俺、うぬぼれてしまうよ?」 「そんな必要ない」 「俺も好き」  僕の腰のうしろでむくりとクルト自身がもちあがる。 「あ、ごめん……」申し訳なさそうに、照れくさそうにクルトがいう。 「クルト――もう、ここじゃだめだ。湯気でのぼせてしまうよ……」  口に出してからしまったと思ったが、時すでに遅しだった。

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