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【第2部 痕跡の迷路】13.出口

 すりガラスを叩く羽根の音で目覚めると、丸みをおびた濃い灰色の影と鳩の尾の形が浮きだし模様の中にぼんやり浮かんでいた。隣に恋人のぬくもりを感じながらクルトは体を起こし、窓をあける。鳩は青首をめぐらしてクークー鳴いたが、飛び去りはしなかった。屋根づたいにひょこひょこ歩き、じきに見えなくなってしまう。  外はもう暗かった。寝室をぬける涼しい風が午後の情事の匂いを洗い流していく。ソールは上掛けの下で安らかな寝息を立てている。ランプをつけても目覚めることもなく、クルトは邪魔にならないように寝台の脇に腰をかけ、白い顔をみつめた。ふだんのソールは眠りが浅い。  歯止めが効かないほど抱くなんて愚かだ――と、施療院のカルタンにはののしられるかもしれない。昨夜ソールがほとんど眠らなかったのを知っていたのだからなおさらだ。しかし浴室から寝台の上へいき、午後の光の中で恋人とからみあい、愛撫をかさねるのはこれまで以上に満たされた行為で、つい止まらなくなってしまった。でもそれはソールも同じで、とりわけ今回はいつになく積極的な彼に煽られたような気もする。そしてソールの肌にいくつもしるしを刻み、奥まで深く穿ちながら、このぬくもりを離さないとクルトはひそかに誓ったのだ。  とはいえこの誓いはまだ口に出すわけにはいかないだろう。施療院を出発する直前、カルタンはクルトをつかまえると、ソールに聞こえないように、忠告とも小言ともつかないことをいった。 「ソールを支えてやろうとか、そういうのはいい。むしろ自分がちゃんと立てるかが問題だ」  たしかにその通りだ。ソールの背景にある事情を知ったいま、未だ「何者でもない」自分こそが逆に彼を苦しめる可能性があるのをクルトは理解していた。  ソールの友人であり、監視役でもある騎士ラジアンはクルトにとってまったく腹立たしい存在だったが、彼は王城警備隊でそれなりの地位にあり、問題が起こればソールを助ける手段もある。対して自分はただの学生でしかなく、試験もこれからだ。自分の不手際でソールによけいな後悔をあたえるわけにはいかない。  ソールが寝返りをうち、クルトの方を向く。顔の上にかぶさる巻き毛を耳のうしろへ撫でつけても反応はなく、すやすやと眠っていた。顔のすぐ近くで寝間着の袖からのぞく手首は細く、子どもが大人の服を着たようにみえる。  眠りに落ちる前に彼の体をきれいにぬぐいはしたが、首のうしろにはクルトがつけた痕がくっきりと浮き上がり、扇情的だった。誰にもこれを見せないようにしなければとクルトは思う。それに、誰にも渡さないようにしなければ。  そういえばソールは自分に魅力があると気づいていないのだろうか。魔力の欠如にとらわれて、その鋭い知性はもちろん、整った顔立ちやおりおりのしぐさが他人を惹きつけていることにソールは無頓着だった。婚約者がいるラジアンはソールになおも執着し、ソールの店を手伝っている女学生のイーディが彼に恋しているのはあきらかなのに。ソールは女性に興味がなさそうだが、油断は禁物だ。  いまのクルトは、ソールとこの先も共にいるという漠然とした絵を脳裏に描いていた。その絵はぼんやりしていたが、消えることはないという確信がある。  これは予知なのだろうか。それともただの希望なのだろうか。  どのくらいそのまま恋人の顔を眺めていたのだろう。はっと気がつくとソールの暗い眸がクルトをみつめていた。 「クルト、起きたのか」とかすれた声でいう。体を起こそうとし、顔をしかめる。  あわててクルトはいった。 「起きなくていい。お茶でも入れようか」  ソールはふっと笑った。「いいね」上掛けの下でのびをする。 「前にきみが入れたお茶、おいしかった」という。 「いつ」 「王城で、警備隊の近くで会った日だ……眼鏡のせいで具合が悪くなって、きみが送ってくれた日……もうずいぶん昔のような気がする。きみ、勝手にブランデー入れただろう。とっておきだったんだ。少しもったいない気がした」 「あ――」  クルトの困惑をよそにソールはまた笑う。 「ブランデーをお茶に入れるなんてぜいたくなこと、ずっと忘れていたよ」  いいながら手を伸ばしてクルトの頬に触れた。細い指がクルトの顎をなぞり、離れる。 「きみも僕にはずいぶんなぜいたくだ」 「そんなことない」 「そうだよ」 「逆だ。ソールはわかってない」 「そうかな」  といったものの、むきになったクルトをなだめるようにソールはまた笑った。 「だったらそのぜいたくなお茶をまたいただこうか」 「お待ちを。ソール様」  クルトはふざけてもったいぶった動作で立ちあがると執事のような礼をしてみせる。じっとみていたソールがふきだす。 「おいおい、だめだろう。ハスケル家の若殿がそんなことをしていたら……」 「まったく、とんでもないことでございます」 「やれやれ、これがバレたら今度は僕は国外追放だ」  ソールはまだ笑っている。だがクルトは急にふざけた気分が去るのを感じた。騎士の礼のように寝台の横に片膝をつくと、ソールの手をとった。 「クルト?」  いぶかしげな声をよそにうつむいて指をからめ、曲げた関節に唇をつける。 「それこそハスケルの名に賭けて、そんなことはさせない」 「クルト――」  顔をあげるとこちらを凝視する暗い眸に出会った。 「学院で教えられただろう。簡単に名を賭けたり、誓いをたてるなと」 「大丈夫。俺は簡単な賭けはしない」  唇を離して手のひらにソールの指をつつみこむ。  ここに指輪をはめたいと衝動的に思った。ソールに自分とつながるしるしになるものを身につけてほしかった。しかしどれほど高価な装身具でも、またはその逆でも、彼はきっと断るだろう。それに自分が彼とつながっているために必要なのはほんとうはもっとべつのものなのだ。ただしそれが何なのか、まだクルトにはわからなかった。  そのうちきっと見つけてみせる。 「お茶を入れるよ。ブランデーも入れてくる」  部屋は静かだ。窓の外で鳩が羽ばたく音がする。

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