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【第3部 雲のなかの星】1.おぼろ

「これがその魔術書ですか。私のような素人に到底理解できるものではないでしょうが、こんな形で学院に貢献できるのは嬉しいかぎりです」  ニールス家の当主レナードは、貴族にはめずらしく僕に対してもていねいな言葉づかいをした。 「書物の保証については、アダマール師による鑑定もいただきました。結果はこちらに」  僕はそう答え、巻物をひろげて書物の隣に置く。準備がととのった双子の魔術書はレナードの眼の前にならべてある。手袋をはめた手で覆いをとり、表紙をひらいて、一対となるしるしを相手に示す。鑑定書の項目にしたがって書物の真偽について説明し、この魔術の意味も説明する。  ルイスから買い取った一冊と、僕が入手した一冊。双子の書物はこれでひとつになり、ニールス家から学院へ寄贈されるのだ。学院へ納める前に説明がほしいといわれ、僕は今日この屋敷へおもむいたのだった。  ニールスの屋敷は王都では数少ない異国風のしつらえだった。一介の書物業者にもかかわらず僕は執事に丁重に応接室へ通された。屋敷内は床が高くあげられ、嗅ぎ慣れない香が漂う。広くとった窓から風が通りぬける。夏をすごしやすそうなつくりだが、もっと暑くなると隣国の海岸へ行くのだと、あたりを眺めまわす僕に当主は笑顔で話した。  出資契約の際は代理の家令と相対したので、当主本人に面会するのは今日が初めてだ。話すうちに僕と同年であるとわかったが、落ち着いた物腰のせいか少々年上にみえる。宮廷では有利だろう。背が高く日焼けして、切れ長の眼と凛々しい眉の男らしい外見だが、やや長めの黒髪が印象をやわらげている。二十代の半分を大陸ですごしたということで、応接間には異国の置物や熱帯の色鮮やかな鳥の羽根が飾られていた。  僕はできるだけ簡単に説明しようとしたが、内容が内容なのでどうしても専門的な言葉が入ってしまう。レナードは自分がごく普通の魔力しかなく、魔術や書物の保管については門外漢だと前置きして、知らない事柄には解説を求めた。魔術には門外漢といっても、大陸で触れた文物の知識もあってか質問は多岐にわたり、僕はかなり長々と喋るはめになった。 「なるほど。実はこの話を最初に聞くまで魔術書に心からの興味をもったことは一度もなかったのですが、あなたのお話はわかりやすくていい」  ようやくそういって彼が解放してくれたとき、僕は内心ほっとした。まるで講義でもしたような気分だ。 「ありがとうございます」 「お茶をもう少しいかがですか? もしよろしければ大陸から仕入れたばかりの珍しいものがあるので、そちらもぜひ試していただきたい」 「それは……」僕は思いがけない誘いに途惑った。出入りの業者に当主みずからそんな応対をするなど、ふつうあることではない。しかし結局好奇心に負けた。 「もちろん、願ってもないことですが……」 「それはありがたい。私が出す奇怪な飲み物――とよくいわれるんですが、避けたがる客人が多いのです。ああ、ご心配なく。おかしなものではありませんよ。ただそれぞれ、風味が独特なのでね」  レナードは壁の紐を引いてメイドを呼び、お茶の用意をいいつける。メイドのお仕着せも一般的な貴族の家とすこしちがって、襟の合わせに異国風の意匠がある。よほど異国の風情が好きなのか、あるいは訪問者の注意をひくためか。  メイドの服だけでなく室内の意匠や飾り物につい視線が流れる僕をみて、レナードは嬉しそうな顔をした。 「大陸の文物に興味がおありですか?」 「あ、はい。それはもちろん。何しろ、書物でしか知らないものが目の前にありますので」  僕は焦って答えたが、本心だった。 「そこに飾られた彫刻は、内陸部の部族がひとりひとり持つトーテムの象形ですね? 精霊動物でしょうか」 「ご存じですか! そうなんです。実はこの部族と私は個人的な関係がありましてね……」  レナードは水を得たように話しはじめる。  ニールス家はハスケル家と同様に近年宮廷で影響力を増している貴族だが、ここ数年の伸長には、先代の急逝で家を継いだこのレナードの調停手腕が寄与しているらしい。家を継ぐまで彼は国外留学や大使の随行員としてほうぼうさまよっていたといい、貿易から音楽などの趣味にいたるまで話題はさまざま、話術もたくみだった。  お茶のワゴンを押してメイドが入ってくると彼は話をやめ、すこしうしろめたい目つきで僕の方をみた。 「申し訳ない。誰かに自分の経験を自慢できるとなると、つい話しすぎてしまう。おかげで敬遠されるのです」 「とんでもない。ご謙遜なさらないでください。僕のように書物で得た知識しかない者には、当主がされるお話はまさに宝です」 「レナードと呼んでください。いかがです?」  新しく入れられたお茶は甘い匂いがしたが、口に含むとかすかにピリリとした、鮮烈な香辛料の一撃がくる。 「これは――おいしい。意外性があって癖になりそうな味です、当主」 「レナードと呼んでください、カリーの店主殿。名前でお呼びしてもよろしいですか?」  またも型破りな要請がくりかえされて僕はさらに途惑ったが、退けるのも失礼だと悟り、うなずいた。 「はい。ソールとお呼びください」 「お茶が気に入ったようでうれしい。癖になるというなら、またいらした際にもお出ししましょう。あなたのお話は楽しい」 「それはどうも。ありがとうございます」 「私は書物をコレクションはしないが、必要と楽しみのために読みます。魔術は不要だが、知識はいくらあっても困ることはない。お勧めの書物があれば今後はぜひ立ち寄ってください」 「光栄です。ありがとうございます」  予期しない歓待だった。ニールス家は「カリーの店」の新しい顧客となりそうだ。しかし書物を勧めるなら、一度蔵書をたしかめなければならないだろう。僕がそう告げるとレナードは残念そうに「今日はこれから来客がありますが、また近いうちにいらしてください」といって握手を求めた。  日焼けした手は力強く、それにくらべて僕の生白い骨ばった手はなんとも情けない感じだった。ただの書店主にこんなふうに対するとは、貴族らしくない人間もいるものだ、と僕は思った。  もっとも「貴族らしくない人間」というなら、僕はすでにひとりつきあいがある。 「もう、勝手に奥に入らないでよ!」 「いいだろう、待っているだけだ」  店の扉をあけると、ひんやりした空気とともにイーディの尖った声とそれに応対する快活な響きが流れてきた。 「それなら帰ってくるまで表にいなさいよ。他のお客さんが来たら迷惑でしょ」 「ひどいなあ。仮に俺が客じゃないとしても、店員のまねごとだって多少はできるぜ」 「クルト・ハスケル。ソールさんが甘いからってつけあがらないで。店番を頼まれているのはあたしなんですからね」  僕は思わず声を立てて笑った。 「喧嘩するなよ。きみたち、兄妹みたいだな」 「ソールさん!」  イーディは声をあげ、クルトはこちらをみて微笑んだ。 「おかえりなさい」 「待ってた」  声を発するタイミングがかぶり、僕はまた吹き出しそうになる。外見も生まれもまったく似ていないふたりなのに、店にならぶと兄妹のようだ。怪訝な表情でいっせいに僕の方を見る首の角度も同じで、それも可笑しい。 「イーディ、ありがとう。店はどうだった?」 「常連さんばかりです。おひとり、探している本があるとかで、メモをとってます。あとは学生です。後払いの相談に乗ってくれないかっていっていたのがひとり。明日また来るって」 「そうか。ありがとう」売り上げや伝票を受け取り、僕はイーディに今日の賃金を数えて渡した。 「イーディ、今日はもうあがっていいよ」 「まだ大丈夫です!」 「試験は終わったかもしれないが、二回生なら課題がたくさん出ているだろう。遅れると夏の休暇にも響くから、早めにやるんだ」 「それはわかってますけど……」イーディはクルトの方をうらめしげにみた。 「あいつは帰らないんですよね?」 「当たり前だろ。来たばかりだ」  と奥の椅子に陣取ったままクルトがいう。紙袋をガサゴソ鳴らし、中から強い芳香を放つ果物を取り出した。表皮の色がオレンジからピンクまでなだらかに移りかわって美しい。 「これ持って帰れよ」 「ええ、南方の輸入品じゃないですか! こんな高いもの、もらえません!」 「でもこれ、ソールが好きなんだ。それで持ってきた」  イーディはうっと言葉につまった。僕はまた笑った。  ここ数日、彼らをみているとなぜか浮きたつような気分になるのだった。口喧嘩すら、穏やかで平和な宵の象徴のように思える。 「イーディ、もらっておきなさい。余裕のある友達にはたかるもんだ」 「ソールさん、こんなの友達じゃありません!」  クルトがわざとらしくため息をつく。「だったらせめて先輩っていえよ」 「あなたが先輩?」 「その通りだろ」  イーディは腕を組んだ。ふんと鼻を鳴らす。 「今だけよ。学院を出て師団の塔に入ったら私だって対等な魔術師ですからね」 「どうせ回路魔術じゃないか」 「精霊魔術がなによ」 「まあまあ、ふたりとも」また口論になりそうだと僕は間に割って入る。「どっちにしても魔術師はこの店にとって大事な客だ」 「ソールさんとしてはどっちがいいんです?」 「どっち?」  考えたことのない問いだった。僕はめんくらったがすばやく計算した。 「えっと……正直、回路魔術師の方が買う本の幅は広いし冊数も多いが……単価でいうなら精霊魔術だな、高価なものが多いから――つまり今の状況だと差はない」  イーディもクルトもなぜかがっかりしたように僕をみる。  僕はやや語調をつよめていった。「イーディ、店はほどほどでいいから課題をちゃんとやるんだぞ。まじめな話だからな」  今度こそイーディはうなずいた。 「はい。わかりました」  イーディが帰ると、まだ夜には早かったが僕は店を閉めた。  王都にはもう夏の暑さがおとずれていたが、店内は厚い壁と通風孔をぬける風のおかげで涼しい。クルトがキッチンで物音を立てていた。十日前に試験を終えてから彼はまた二日とあけず店に来る。しばらく姿を見せなかった期間がなかったかのように、勝手知ったる様子で食事の用意をする。  以前のように僕らは向かいあって夕食を食べ、話をしたが、何かが変わったのを僕は感じていた。  いったい何が変わったのだろう? 僕とクルトを取り巻く状況は何ひとつ変わってはいない。けれど僕は前よりも落ち着いて、クルトが僕のそばにいることを受けとめられるようになっていた。こうしてすぐ近くで彼を見ていられるのが当たり前のこととして、平和な日常として感じられるようになっていた。一方クルトの方はというと―― 「これ、好きだっただろう?」  食事を終えるとデザートだといって、クルトは持ってきた果物をナイフで半分に割り、中央の丸い大きな種子をくりぬいた。半球型の穴へ氷菓を盛る。 「すごいな。おいしそうだ」 「だろ」  そしてスプーンで果物と氷菓をすくいとって差し出した。 「ほら」  どうしようかと一瞬思うが、僕は口をあけて受け入れるにまかせる。クルトはにやっとして、それから嬉しそうに笑う。その笑顔はあいかわらず魅力的で、僕は思わず見入ってしまう。すると彼は照れくさそうな顔をして、ふと眼をそらす。それは以前は見なかった表情のような気がする。 「うまい?」とクルトがきく。 「ああ」 「よかった」  クルトはすこし変わったような気がするが、具体的にどこがと聞かれても僕にはうまく答えられない。落ちついて大人びたように感じることもあれば、逆に子どもっぽく、あるいは脆く感じるときもある。能力試験は問題なく終わったらしいが、クルトはいま、王立学院の学生であればもっとも緊張すべき時期にいる。 「今日、ニールス家へあの本を渡したよ」と僕はいう。 「例の――対になった?」 「そう。あそこの当主は変わってるな」  クルトはかすかに眉をあげる。 「変わってるって、どんなふうに」 「僕なんかにも丁寧な口をきく。屋敷も大陸のものがいっぱいだった。届いたばかりとかいう風変わりなお茶をごちそうになった」  クルトはなおも眉をひそめていたが、手元へ視線をおとし、果物をスプーンでえぐった。 「あそこの当主は大陸に長かったらしいからな」 「ああ。話もうまい。それにうちの顧客にもなってくれそうだ」 「何だって?」 「魔術はわからないが知識欲はあると。適当な本を勧めるために今度蔵書をみせてもらうことになった」 「――そう」  クルトはすくいとった果物を口に入れる。僕は知らず知らずのうちに彼の唇から喉にかけておちる影をみつめていた。 「代金はどうなったんだ?」 「ん? ルイスに?」  冷静な声で問い返され、僕はなぜかどきどきしながら眼をそらす。 「まだ全額支払い終えていないが、最近何冊か高値で売れたから期限には間に合いそうだ。ニールス家も上得意になればいいな。感じのいい当主だった」 「――そうか」 「クルト?」  クルトはスプーンを置いた。唐突に手をのばして、指が僕の唇にふれる。 「口をあけて」 「クルト?」 「いいから、あけて」  緑の眸がじっと僕をみつめ、僕は魅せられたように唇をひらいた。クルトの指が入ってくる。果汁がついていたらしく、すこし甘い。 「なめて」とクルトがいう。  魔術にかけられたようだった。僕はいわれるまま彼の指を口に含む。指は中でじっとしておらず、僕の舌にからみ、口腔をいじりまわす。唇のはしから唾液がもれ、僕は急に羞恥にかられる。  クルトの手首をつかまえようとしたが、すでに彼は立ち上がって濡れた指で僕のあごをとらえていた。 「ソール、だめだよ」という。  何がだめなんだと思うがたずねる暇もない。唇が重なってきて激しい口づけになり、ようやく離れていったとき、僕の頭はぼうっとして、自然に荒い息をついている。 「どうしたんだ、クルト……」 「抱きたい」  そう耳元でささやかれると、以前と同じように僕は拒絶できない。だがクルトは以前よりもっと切羽詰まって激しかった。服を脱がされ、寝台に押し倒されると、足先から頭のてっぺんまで愛撫され、蕩かされてしまう。まだ外は夕暮れの光が残り、季節がら窓を開けたままなので僕は声を殺すのに必死だ。うつぶせになって枕の端を噛み、文字通り悶えている僕の内側をクルトはつらぬき、揺さぶりながら耳元で僕の名前を呼ぶ。 「ソール……」  その声をきくと僕の内部からも何かつよいものがわきあがり、たまらず僕は声をもらす。 「クルト――ああ、好き……」  後ろに覆いかぶさる重みがいっそう強く、激しく押しつけられ、僕らはほぼ同時に果てる。  もう暗くなった部屋で僕らは汗まみれになっている。おたがいの髪をなで、耳や顔を触りあう。クルトは僕の首筋を何度も強く吸い、僕は鈍い痛みに抗議の声をあげる。 「クルト、そこに痕がつくと――見えてしまう」 「ちゃんと襟を閉めておけばいい」 「何をいってる。夏だってのに……」  あきれて僕がつぶやくと、クルトは僕の首のあたりに頭をおいたまま上目づかいで「ソールは無防備だから、逆に用心するためだ」といった。 「無防備ってなんだ」 「おまけに鈍い」 「クルト、いいかげんにしろ。きみならともかく、誰が僕なんか気にすると思う」 「ほら、そんなことをいう」クルトは手をのばし、僕の髪を指にからめた。「これだから用心しないとだめだっていうのに」  名残惜しげに起きあがるとクルトは身支度をする。夜がふける前に寄宿舎へ戻るためだ。以前とはっきり変わったことはたしかにひとつあって、今ではクルトが朝まで僕の部屋にいることはない。彼の進路を考えても当然のことだった――王宮へ入ろうと思えば、ある種の品行方正さが求められるのだ。  それを残念だと思う気持ちを僕は表に出さないよう努力した。いずれ慣れるだろうし、こうして会えるだけでも嬉しい。  裏口の扉の前でクルトはふりむき「また来る」とささやく。回路魔術で開くこの扉の鍵はクルトだけが持っていて、しかも僕には使えない。外からぬるい夏の夜の空気が入りこみ、クルトと共に締め出される。最初に彼がこの店にきたとき季節はまだ春だった。ひとつの季節のあいだにずいぶん多くのことが変わったような気がする。

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