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【第3部 雲のなかの星】2.うろこ

 ハスケルの屋敷には父の思念が染みついている。  大きな鉄の門扉から庭園をとおりぬけ、正面の扉をくぐるたびにクルトはそう感じる。それはいつも少しだけ彼を息苦しい気分にさせた。 「推薦人との面接の調子はどうだ」  書斎の大きな机に座り、父が訊く。 「悪くない」クルトはみじかく答えた。  無言で若いメイドが父子のあいだに冷たい果実水を置いた。薄暗い室内で、糊のきいた襟と袖口が白くひきたってみえた。クルトが微笑んで礼をいうとはにかむような笑みをかすかにうかべ、膝を曲げて礼をし、立ち去った。 「学院の試験は順調だったそうだな。おまえの魔力については王宮でもちょっとした噂になったようだ」 「俺が試験ごときに失敗するとでも思ってた?」 「そんなことはないさ。私の息子が失敗などするはずがない」  父は自信たっぷりにいう。クルトと同じ緑の眸をしているが、いかついあごをして威圧感があり、顔立ちはあまり似ていなかった。クルトの骨格や美貌は母譲りなのだ。彼から放射される満足の気分をクルトは感じる。その満足は息子の成果よりも彼自身に向けられているものだということもクルトにはわかる。父には息子をここまで育てたのは自分だ、という強い自負がある。 「推薦人は何人獲得できそうだ?」 「三人は確実だと思う。四人目と今日面接したが、悪くない感触だった」 「あと一人いれば確実だな」と父はいう。「五人目については私に考えがある」  政策顧問団へ入るには、王宮の政策部が選んだ推薦人から推挙してもらわなければならない。推薦人はみな魔術師ではない。しかし全員百戦錬磨の王宮勤め、精霊魔術師と日常的に折衝している人々だ。顧問団を希望する学生の資質は彼らによって徹底的に諮られる。  他人に好かれるのに慣れているクルトにとって、推薦人との面接は気持ちのいいものではなかった。正直いって、これまでの人生でこれほど「値踏み」されたことはないと思う。自分の心など簡単に見透かす学院の師たちと面談するよりはるかに緊張するし、自分が品物にでもなったような、奇妙な気分になるのだ。  自分の容貌や魔力はたしかに彼らへの武器になったと確信しているが、向こうは遠慮することなくじろじろと不躾な視線を向けてくるし、単刀直入な問いを投げたかと思うと、婉曲で底の知れない物言いで反応をはかったりもして、どの面接も居心地が悪かった。  もっともクルトは順調に乗り切ったと思っている。精霊魔術師に慣れているだけあって、面接中の推薦人たちは感情の放射を見せなかったが、終わった後はうってかわった印象となり、いずれ王宮で会おうと快く声をかける者すらいた。  クルトをみつめる父の眼は真摯だった。頭の中で何か策をめぐらしているようだが、クルトは父の心を無意識のうちに探らないよう自制した。掟で禁じられているし、政策顧問になろうという人間に求められているのはまさにそのような自制心である。しかし父は権謀術数が好きで――それはハスケルが父の代で急速に宮廷での存在感を増した理由でもあるが――だからこそ彼が目的を達成するために何を企んでいるのか知っておきたいとも思う。 「五人。推薦人を五人獲得すれば、ようやくハスケル家から政策顧問が出せる」 父は片手で自分のひたいを揉みながら、にやりとした。 「私とおまえの力で、ハスケル家はもっと影響力のある、強い家になる。おまえを学院へやった甲斐があったよ。ハンスは領地の経営をするが、おまえはいずれ王国の経営に関わるようになるわけだ」  まだ十代の弟の名を出しながら満足げにうなずく父の顔にいつもの反発を感じながらも、クルトはおとなしく机の前の椅子に座り、ほのかに甘い水を口に含んだ。父の向こうにある書棚をみつめる。ひびの入った氷が口の中で砕け、清涼感とともにひたいに浮かんだ汗がひいた。  書斎といっても書物は少なく、書棚にならぶのは領地の経営に関する書類がほとんどだった。ハスケル家はクルトの記憶にあるかぎり、実務書以外の蔵書を持たないし、歴代当主は必要以上の知識欲をもっていない。つい先ごろソールから聞いたニールス家のレナードとは対照的だ。  ふとレナードについて好意的に語っていたソールの顔を思い出し、クルトはちりちりとした苛立ちをおぼえた。ソールはハスケルの屋敷にはまったく興味を抱かないだろう。ここにカリーの店主を惹きつけるものはない。  ハスケルの屋敷は風雅な庭園に囲まれ、それ自体は優美で贅をこらしたものだ。王都でも比較的新しい建物で、クルトが生まれたころに父が先代から受け継いだ古い地所を取り壊して新築した。贅をこらしたといっても新興ギルドの成金商人が建てるようなけばけばしいものではなく、逆に伝統的な意匠がめだつ造りだった。  このまま年月を重ねれば、ずっと昔から王都にある他の貴族の屋敷と区別がつかなくなるだろう。同じく比較的新しい建物でも、異国風の風変わりさが話題となるニールス家と好対照だった。ハスケルの屋敷の内部の調度はあくまでも伝統にのっとっている。上質で選りぬかれたものだけが置かれていて、これにはクルトの母の趣味も一役買っているらしい。  母は古い貴族の傍系にあたる家の出身で、典雅で優しい女性だ。しかし「王都の伝統」にうるさいのはむしろ父の方だった。さらに、ハスケル家は昔から魔術師をよく出したのだ、というのが、クルトが幼い頃からの父の主張だった。精霊魔術師が王宮で顧問の地位につくよりも前、この国がまだ周囲と戦っていたころからハスケルは魔術師の家系だったのだと父はいいたがり、自分の魔力――魔術師になるほどではないがそこそこ強い――をその根拠としていた。  父は確固とした自信をもってその言葉を語ったので、幼かったクルトはこの話をずっと信じていた。それが宮廷での権勢を求める父の思いこみだと確信したのはいつ頃だっただろう。おそらく十代はなかば、自分の魔力が成長し、何かと父に反感を覚えるようになった頃だろうか。  そもそもハスケル家は古い家系を誇るような貴族ではないのだ。クルトの父がいう「古来の伝承」は口伝えのあやふやなもので、レムニスケート家のような正式な記録もほとんどない。魔力が少ない家系にもかかわらず宮廷に強い地盤を持つレムニスケートをクルトの父は激しく敵視していた。強大な魔力を持って生まれた息子が王宮の政策顧問団へ所属すれば、レムニスケートや他の貴族に対抗して、ハスケルの名声を王都で高める助けになるだろう。  幼い頃は純粋に――といっても差し支えあるまい――父親を尊敬し、期待にこたえようとしていたクルトの心に父と対立する気持ちが生まれたきっかけは単純で、自分の魔力が父を超えたためだった。   さらに父が無意識のうちに魔力を使い、自分の信念をクルトへ刷りこもうとしているのに気づいてから、クルトは自然と父のやることなすことを疑問視するようになった。父のこんな行いは中途半端な魔力の持ち主がときに世間で成功する原因でもあると、何かの折に知ってからはなおさらだった。クルトは次第に父の権勢欲を小馬鹿にするようになったが、父の方にはクルトのこんな内心は気づかれていないだろう。魔力が強いクルトは、父より自分の思考をはるかにうまく隠すことができる。  それでもクルトは父に対して理想の息子のようにふるまっていた。クルトがいかに父の野心に反感を持っていても、父は父だった。クルトは愛されているのがわかっていたし、自分も父が好きだった。だが父が――ほとんど意識もせずに――高圧的に自分を支配しようとするのは、ときにひどく耐えがたい気もした。  それをはっきり自覚したのは学院への進学がきまったころだ。クルトは幼い頃から嫡男として、いずれは父の後を継ぐと教えられて育ったが、どこへ行っても人びとが自分の背後に父をみて、父を気にすることに苛立ってもいた。父へ向かう思念の放射はクルトには丸見えで、自分に話しかける大人――ときに同輩の子どもたち――ですら、自分ではなく父を見ているとわかると、無性に反発心が生まれてくるのだ。  自分が父と同等の立場になれば、人びとは父ではなく自分をみるようになるだろう。  そしてもし、父には不可能なこと――精霊魔術師となり、政策顧問として宮廷政治へ関わること――が達成できれば、人びとはもはや父を問題にすることもないだろう。  こうして父の思惑とは違うところで、息子は自分の目標を持ったのだった。一見同じ場所を目指しているようでいて、この父子は行き違っていた。 「そういえば先日、おまえの話からレナードを紹介した件だが、無事に学院へ魔術書が納められたそうだな」  果実水のグラスを手に持って、ふと思い出したように父がいう。 「異国のものに目がないレナードがこういう話に乗るとは私の予想外だった。しかし王族の方々も好意を持ったらしい。あの男もなかなか抜け目がない」 「ニールス家の当主はどんな人なんだ?」  またもソールのことを思い出しながらクルトは聞いた。レナードの屋敷へ書物を持参したあと、ソールが彼のことをかなり好意的に話していたので、クルトはずいぶん苛立ったのだ。つまらない嫉妬にすぎなかったが、父も――ソールと方向性は真逆だろうが――レナードを評価しているとなると、さらに心穏やかでない。 「レナードか? 外国暮らしが長いだけに知識は多いし、いろいろな立場の人間への接し方を心得ている。柔らかな物言いでも引かないときはまったく引かず、思ったように物事を進めるからな。かなりのやり手だし、頭のいい男だ。隣国や大陸とのコネクションが強いから、おまえも親しくなっておくといいだろう。おまえより年はかなり上だが――」 「上といってもせいぜい十歳くらいだろ?」  ソールと同じくらいだ、とふたたびクルトは砂色の髪を思い浮かべながら口をはさんだ。 「ああ。だがもっと上に見えるな。落ち着いているが、子供もいないらしい。弟がいるとはいえ、妻なし、嫡子なしではいずれ困るだろうに」 「独身なのか」 「おまえくらいの年齢で一度結婚しているが、何年か前に病気で死別したという話だ。子どもがいないのならすぐに後添いを迎えてもいいはずだが、身持ちが堅いので有名らしい。王宮の女官が誘いをかけても断られるというから」  クルトは眉をあげた。ソールの話によれば、レナードはまた気軽に屋敷へ来いと誘ったようだが、ひょっとしてそれは単に蔵書がどうとかいうのとは違う下心があるのではないか……なにしろソールと年も同じくらいで、国外での経験も豊富なのだ――そんな思いが心をよぎるのを、慌てて奥においやる。  死別しているとはいえ結婚していたのなら、別にそんな興味をソールに持っているわけではないだろう。このごろソールに関係することでは、自分はすぐに嫉妬深く、疑心暗鬼になってしまうが、さすがに考えすぎだ。  父はまだレナードのことを話しつづけている。 「学院への書物の寄贈とは盲点だと思ったよ。我が家も今後はそういった文化教養に出資することを考えるべきかもしれない。これもいずれおまえの力が役に立つだろう。学院の図書室や城下の書店にずいぶん通っているらしいじゃないか」  クルトはまた眉をあげた。 「どうして知ってる? アレクが?」 「ああ、そうだ。今年になっておまえが急に勉学熱心になったとアレクサンドルがいっていた」 「今年になってとはいいがかりだな。俺はこれまでもちゃんと勉強していたよ」 「だがずいぶん遊んでもいただろう――いや、そんな顔をしなくてもいい。私もおまえの歳では遊んだものだし、魔術師の学生がどんなものかは知っている。妻に似た息子が引く手あまたなのは悪い気もしない」 「今はそんなことはない」 「そうか?」父はグラスを置くと、クルトの顔をしげしげとみつめる。 「おまえなら今後も誘惑は多いだろうし、そこは適当にあしらえばいいことだ。だが、そろそろ結婚について話を進める必要があるな」  突然父から出た言葉にクルトは驚愕した。 「結婚? もしかして、ラウラと? それなら――」 「ラウラじゃない」父は平然といった。 「あの話はもう解消することで進めている。だが、おまえがもしラウラと結婚したいというなら――」 「俺はラウラとは結婚しない」クルトはきっぱりといった。 「妹みたいな相手と結婚なんかできない。だいたい俺は――」 「もちろんおまえの相手は私が選んである」  父はクルトの言葉を聞いているようには見えなかった。 「五人目の推薦人について考えがあるといっただろう。政策部の長、ラブレス家の娘とおまえの結婚を進めるつもりでいる。ラブレスが五人目の推薦人となるだろう。ヘレナ・ラブレスは去年学院を出たばかりだ。おまえも一歳くらいの差なら気にもなるまい。学院では先輩にあたるから、会ったこともあるんじゃないのか? 美人だという話だぞ。魔力もつりあうし、問題ないだろう」  ラブレスだって?  クルトはだしぬけに立ち上がった。じっとしていられなかった。ひじ掛け椅子が大きな音を立てる。 「そんな話は今はじめて聞いた」 「今はじめて話したからな」 「父上。俺は承服できない」 「なぜだ?」 「なぜって――」クルトは息を飲んだ。父からはまったく平静な感情が放射されている。クルトの困惑など気にもしていない。 「父上。俺は今――好きな人がいる。だからラブレスと結婚はできない」 「クルト。結婚と感情はべつだ」  父は淡々といった。「私はおまえの母と結婚したとき、彼女を愛していたわけではない。だがその後彼女を愛するようになったし、おまえやおまえの弟たちもそうして生まれた。今の感情など問題ではない。結婚によって得られるものが重要だ」 「父上。そんなことはできない」 「なぜだね? そんなにラブレスが気に入らないのか?」  父は座ったままクルトを見上げていた。見慣れた威圧感がその体から染みだし、クルトを無意識のうちに支配しようとするが、クルトはやすやすとそれを避ける。ヘレナ・ラブレスのことは知っていた。ひとつ上の学年で美貌を誇り、入学して間もなくクルトは彼女の誘いを受けたこともある。だが一時の付きあい以上の気持ちを持つことはなく、友人にすらならなかった相手だ。 「ラブレスだからではない。俺は誰とも結婚しない」 「それはおまえが通っている城下の書店の男のせいか?」  一瞬、沈黙が落ちた。クルトは立ったまましずかに父を見返した。 「それもアレクから聞いた?」 「彼はおまえの親友だろう。ずいぶん心配しているようだったが」 「心配する必要などないのに」  ましてや父に話すなど、とクルトはその瞬間本気で腹を立てる。しかしそういえば、アレクはクルトの父をとても尊敬していたのだった。きっと彼は父を喜ばせたかったのだろうし、父がいったように本気でこちらを心配しているのかもしれない。どのみち、アレクにはあとでじっくり話をきかなければならない。  そんなクルトをしり目に父は手を伸ばし、机から紙片を取り上げた。身上調査書のようだった。 「ソール・カリーか。学院や騎士団とつながりがある書店らしいが、平民で年上、しかも男だ。おまえらしくもない。何があったか知らんが、結婚ができないとまでいうのは行きすぎだろう」  衝動的にクルトは父の手から書類をむしり取った。ざっと目を走らせるが、たいした内容は書かれていない。誰が調べたのかわからないが、ソールに関する事件は父の元には届かないくらいの機密扱いになっているらしい。その点だけは安堵して、クルトは言葉をさがした。 「父上。結婚などしたら――ラブレスだろうが誰だろうが、俺は裏切ることになる」 「べつにそうはならんよ。結婚してもおまえがまだその男とつきあっていたいなら、愛人にでもしておけばいい」父は平然といった。 「さっきもいったとおり、私はおまえの母と結婚したとき彼女を愛していたわけではなかった。結婚は心でするものではない。男なら子供ができることもないし、愛人としてはむしろ好都合だ。レナードが寄贈した書物の出所はその店なのだろう? ハスケルにとっても今後利用価値があるかもしれない」 「父上」 「クルト。政治は遊びではない。結婚は政治の一部だ。ハスケルの家運は政治をいかに乗り切るかにかかっている」  いまや父はクルトの困惑を楽しんでいた。それは彼からもれる感情の放射ではっきりわかり、クルトの腹の底でしずかに怒りが燃えた。 「ラブレスとの婚姻の話は決定事項だ。おまえにもっと早く話さなかったのは悪かったが」  クルトは身上書をしずかに机に戻した。腹を立てるな、といいきかせる。学院で教わった感情のコントロール法で、自分をできるだけ平らかにする。しずかな水面のように、波立たないように。  そしてもう一度父を見返した。 「父上。何度もいうが俺は絶対に承諾しない。ラブレスと結婚はしない」 「クルト。おまえは私の息子だ。結婚しないことで、おまえは私を裏切るのか?」  クルトは父の眼をまっすぐにみた。自分とよく似た深い緑色の眸だ。 「ああ。俺はソールを選ぶ」  父はクルトの決然とした言葉を本気にしたようでもなかった。ため息をついてこういっただけだ。 「おまえはまだまだ子供だ」

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