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【第3部 雲のなかの星】3.かすみ
ここ数日のあいだ、王都は急に気温があがった。
じつをいうと僕は春や秋より夏の方が気分は落ちつく。しかしさすがにここまでの暑さは苦手だった。なにしろいつの間にか体力を削られている。ぶあつい壁に守られた店内はひんやりしているが、戸外を熱風が吹く午後はすこし外出するだけでも疲れきってしまう。
「あまり出かけない方がいいです、ソールさん」とイーディがいう。
「支払い程度の簡単なおつかいなら私が行ってきます」
「きみだって大変じゃないか」
僕は反論するが、イーディはきかない。課題はすませたからといって、僕に冷たい水の瓶を押しつける。
「すこし熱っぽくないですか?」
「大丈夫だよ」
「ソールさんが倒れたら、私、この店を乗っ取りますよ」
「それは怖いな。次のカリーの店主になるつもりかい?」
「いえいえ、店主はソールさんのままでなくちゃ」イーディは喋りながら手を振る。
「冗談抜きで私、行ってきますから。カールさんのところでしょう?」
「じゃあお願いしようか」
根負けして僕は請求書をひっぱりだした。たしかに頭がぼうっとしていて、気温が高いせいだけでなく、すこし熱っぽいようだ。
「イーディ、暑いから終わったら戻る必要はない。そのまま帰って、領収書は次に持ってきてくれ」
「何か買ってきます?」
「いや、大丈夫だ」僕は水の瓶を持ち上げてみせた。
「きみの忠告通り今日は閉めて、もう休むことにするよ」
「気をつけてくださいね」
イーディはまるい眼をみひらいて僕をみつめ、にこりと笑った。可愛かった。ほんとうに妹がいたらこんな感じだろうか。
彼女が出て行って、僕は店の扉に鍵をかけた。冷たい水で顔を洗うが、立っているとなんだかふらふらする。鏡をみるとすこし頬に赤みがさしていた。熱があるのかもしれない。以前セッキに持って帰れと押しつけられた水銀の体温計をくわえ、水の瓶を持って上にあがった。日よけをおろした室内は午後の日差しで赤みがかった黄色に染まっている。
寝台ではなく敷物をしいた床の真ん中にすわりこんで、僕はしばらくぼうっとしていた。床からみあげると部屋はずいぶん広く感じる。思い出して体温計をみると銀色の線がけっこうのびていた。たしかに熱があるのだ。横にならなければ。
そのとき、床じゅうが書物の山に覆われていたこの部屋を、クルトとふたりで片づけた日々が脳裏に蘇った。横にクルトが座り、ふたりで寝転がったまま、耳元で歌う彼の声が正確に思い出される。
ぼうっとした頭で僕はその歌を口ずさんだ。僕が熱いのか、部屋が暑いのかもわからないが、熱があるのにとても穏やかな気分だ。
起きあがるのが面倒になった僕は上掛けを寝台からひっぱりおろすと、そのまま敷物の上に横になった。クルトの歌を思い出しながら天井の格子を眺めるうち、眠くなる。
床がきしむ音が聞こえた気がして、目が覚めた。
あわてて起き上がると周囲は真っ暗だった。窓の日よけがはためき、風が部屋を通り抜ける。汗で体がべとついているが、頭はすっきりしていた。熱は下がったようだ。思い出してすぐ近くを手探りし、瓶から水を飲み干して、ついで物音のことを思い出した。
夢だったのだろうか。そろりと立ち上がろうとしたとき、また床がきしんだ。
はっとして僕は音の方をみやった。
「誰だ?」
「ソール――」
ほっとして僕は肩の力を抜いた。
「びっくりするじゃないか、クルト」
ゆっくり立ち上がり、手探りでランプをつけた。オレンジ色の光に照らされたクルトの顔は奇妙にこわばっていた。美貌なだけに、作り物の仮面のようにみえる。
その口が動いて「びっくりするのはこっちだ」とつぶやいた。敷物のうえでまるまった上掛けをみおろして「床で寝てたのか?」と聞く。
「熱が出てね」僕はなんでもないようにいう。「暑かったし、そのまま眠ってしまったらしい」
「熱って、大丈夫か?」
あわてた声と一緒に腕がのびて僕の背中を抱いた。
「横にならないと」
「もう下がったよ」僕はクルトのあわてように思わず笑った。
「それに汗で気持ち悪いんだ。体を拭きたい」
クルトは有無をいわさず僕の腕をひき、寝台に押しやった。
「拭くものなら俺が持ってくるから、ソールは横になっててくれ」
「そんな、大丈――」僕はいいかけてやめ、うなずいた。
「わかった。お願いするよ」
僕は寝台に座って待った。日よけをあげると窓からはさらに涼しい風が入って来る。月のない夜で、商店街の明かりも消えていた。また床板がきしむ音がきこえ、ふりむくとクルトが濡らした布を持って立っている。僕は布を受け取ろうとしたが、彼は首をふって「脱いで」という。
「自分でやるよ」
「いいから、脱いで」
口を尖らせて話す様子が幼くみえた。僕は思わず微笑み、汗で湿ったシャツを脱ぐ。クルトは黙って濡れた布で僕の上半身を拭き、めずらしくぶっきらぼうな調子で「ほら、うつぶせになって」と指示した。
看護師のようだと思いながら僕は敷布にうつぶせになる。背中を冷たい布で拭われ、次にクルトの大きめの手がさする。快適さにうっとりするうちにひっくりかえされ、下半身まで拭かれてしまい、最後は足の指のあいだをマッサージされた。
そのまま乾いた寝間着を着せられて、夢うつつで眼を閉じたまま、僕は「施療院の治療師みたいだな」と軽口を叩いた。すると耳のすぐそばで「そうか?」とささやかれ、不意打ちに背筋がふるえる。
「熱が出るのはよくあることなのか」
「たまにね」耳元の声が気持ちよく、僕は眼を閉じたままでいた。
「魔力欠乏と、体力のなさと……いくつか原因があるらしい。休めば治るから気にするな」
寝台に重みが乗って、肩に腕がまわる。ひたいからはえぎわにかけて指でなぞられるが、クルトは無言だった。これもめずらしい。
「寝ていて悪かったな」と僕はいった。「今は何時だ? もう遅いんじゃないのか?」
「ソール――」
僕は眼をあけた。
「どうした?」
虫がランプの傘にまとわりつき、羽音を立てた。クルトは寝台の端に腰をおろして僕を見下ろしていた。もし僕に魔力の放射がみえるなら、あたりはとても明るいだろうし、クルトの気分も感じられるにちがいない。だが部屋のほとんどは暗がりに覆われ、影になったクルトの表情はよくわからなかった。
「好きだ」クルトがつぶやくようにいう。
僕は微笑んだ。「ありがとう。僕もだ」
「ソール、もし――」クルトは何かいいかけ、ためらったようだった。
「ん?」
「いや。なあ――俺はほんとうに、あなたが好きだよ」
「ああ。知ってる」
僕は手を伸ばし、彼の頬に触れた。
「何があったんだ? 面接はうまくいっているか?」
「ああ……」クルトがもらした吐息が僕の指にも感じられた。「問題ない」
「早く決まるといいな。きみならきっと大丈夫だろうが、それでもほっとするだろう?」
ぎしっと寝台がきしんだ。クルトの唇が重なってくる。僕は眼を閉じる。優しい口づけだった。
「もう帰るよ。このまま寝ていて」
顔のすぐ上でそうささやかれ、起き上がろうとした僕の肩をクルトは軽く押しとどめる。そうして「何かほしいものはない?」と聞く。
なにも、と答えようとして僕は思い直した。
「歌ってくれないか」
「歌?」
「ああ。きみの歌をききたい」
ふっと軽く笑う気配がして、やがて低いハミングがきこえた。僕は眼を閉じたまま、クルトはこのメロディをどうやって思いつくのだろうとぼんやり考えていた。いつ眠ってしまったのかもわからなかった。
「ご覧のとおり、我が家の蔵書はたいしたものではありません。おまけに狭くてお恥ずかしい」
数日後、僕はまたレナードの屋敷を訪れていた。ここはやはり夏が快適な邸宅だ。外の暑熱が嘘のようでほっとする。
それにレナードは書物の扱いを心得ている。書庫はどっしりした壁に囲まれており、天井からさしこむ光も直接当たらないつくりで、書棚は扉つきだ。おかげで保管の大敵である太陽光やねずみをよせつけない。
レナードは狭いと謙遜するが、屋敷の敷地全体からみればの話だろう。居心地のよさそうな読書用の机や肘掛け椅子もしつらえられ、僕からすると羨ましい空間だった。
「この棚は海洋や船舶がらみの書籍をおさめていますが、今の航海は回路魔術がずいぶん役立っているらしいですね。私は魔術にはさっぱりなのでその手のものはないんです。素人にも読める本があればぜひ加えたいところで、ぜひあなたのお勧めを聞きたい……こちらは大陸関係で、貿易に必要だからという名目で買っているんですが、けっこうな比率で私の趣味が――」
レナードも前回会ったときと同様、話好きだった。ずっと解説してくれるので僕は黙って聞いているだけでいい。棚の中身はひと目で高価とわかる写本から廉価な印刷本までさまざまだった。革で装幀された大判本が目立つ。許可を得て一冊ひらくと、美しい色彩の鳥の絵が飛びこんでくる。
「大陸の南、大河の周辺の博物誌ですよ。美しいでしょう? 家業と直接関係がなくても、つい買ってしまう。そして家令に怒られるんだ」
「ええ、きれいですね。素晴らしい。保存状態もいいですね。手入れは屋敷の方がされているのですか?」
「いや、それがね……」
レナードは小声になった。照れくさそうに顔をそらす。
「自分でやってるんです」
「ああ――他人には触らせたくないとか」
コレクターにはありがちな話なので僕は驚かなかった。手に持った書物を棚にもどそうとするとレナードはあわてたようにそれをさえぎった。
「いや、ちがう。ちがうんです。私はそんなこだわりは持っていません。ただ、執事や家令に見せるのはすこし……恥ずかしくて。その……書物の趣味というのは、自分の興味が丸裸になるような気がしませんか? 家の者は私のことがよくわかっているだけに、これで蔵書まで把握されると、彼らに太刀打ちできなくなってしまいます」
僕は思わず笑ってしまい、失礼にならないかと焦った。本を棚に戻しながら何気なくたずねる。
「すみません。あの――ご家族は? 奥様がいらっしゃるのでは?」
「あいにく独り身です。妻は五年前に亡くしたので」
「それはお気の毒に」
「まわりは後添えをとうるさいですが。子供もできなかったし、家督を継ぐまで旅回りだったからその気になれないままです。やっと王都に落ち着いた今も気乗りはしていません。妻にする人にはこれも見せることになるでしょうが、それも怖い話ですから」
「なぜです?」
レナードは僕をしずかに見返していった。
「蔵書というのは内面の秘密ですよ。拒絶されたり否定されたらどうします? それにまったく興味を示されないのも困ります」
彼がいうことは理解できたが、なんと返せばいいのか困った。
「僕はあなたの本は素晴らしい趣味だと思いますが」
そういうとレナードは僕をまっすぐにみつめ「あなたの蔵書はどんなものですか?」と聞いてくる。
「商売で扱うものではなく、あなたの個人的な書物ですよ――ソール。教えてくれますか?」
「僕は……」
自分の興味が丸裸になる、などとレナードがいったばかりだからか、僕は急に恥ずかしくなった。特にないとか、適当にごまかそうかとも思ったが、結局やめた。
「海に関するものが多いですね。それから大陸の文物についての本も。何しろ自分が行けない場所ですから、書物で知りたいと思うのです」
「それは気があう!」
レナードはいきなり僕の手を握った。
「私はそれなりにあちこち旅行しましたが、行けば行くほど書物が欲しいと思います」
「そんなものですか?」
「ええ。それにソールも行けないなんてことはないでしょう。私が次に外遊するときに同行されてもいい。大陸の書物を直接仕入れることだってできる」
「いや、僕は……」
握られた手をどうしようかと思った。僕のためらいに気づいたのか、レナードは焦ったようにぱっと手を離した。
「すみません。私はふつう、こんなに性急に人に迫らないんだが」
「いえ。ご興味に合いそうなものを探しておきます」
「今度あなたの店にもお邪魔してみたい」
「それは光栄です」
レナードの屋敷を出たのは午後も遅かった。書庫をみたあと、彼の書斎で前回のようにお茶をごちそうになった。今回は前とはちがう花の香りがするお茶で、魚の形をしたお菓子がついてきた。レナードと大陸の話をし――といっても大部分は彼の話を僕が聞き――ずいぶん時間を食ってしまったのだ。僕は商店街へ急いだが、暑さのせいか人もまばらで、王都中がまどろんでいるような午後だった。警備隊もみかけない。
おかげで横の路地から突然誰かがあらわれたのに気づかなかった。あっと思ったときそいつは僕の肩にぶつかり、衝撃で僕は派手につまずき、転んだ。
「危ないだろう――」
つぶやきながら手をついて体を起こす。僕の外歩きに必須の眼鏡は、このごろセッキの大幅な改良の成果もあって、この程度で壊れないのがありがたい。視界を確認する僕の上に影がおちる。顔をあげると大柄な男が見下ろしていた。僕の方に手をさしだす。
「どうぞ。不注意でした」
「ああ、すみません」
何気なくその手をとって立ち上がった途端、強い力で路地の方へ引っ張られた。
「なんだ?」
「ちょっとこちらへ。カリーの店主」
強盗かと思ったが、あきらかに僕を狙っていて、おまけにこんな真昼間だ。ひきずられながら僕は首を回し、警備隊か少なくとも通行人はいないかと探すが、なぜかあたりには猫の子一匹いない。
見透かしたように「誰も来ないが、危害を加えるわけじゃない。すこし話がしたいだけだ」と男がささやき、僕の口をふさいだ。そのまま路地に連れこまれると、すぐそこにあった細い小さな扉がばたんと開き、押しこまれる。
ぱっと手を放されて僕は倒れそうになった。埃と黴の匂いが鼻をつく。
「悪いね、こんなところで」
男がそういいながら扉に触れ、魔力を流した。眼鏡のおかげで、回路魔術で即席の鍵がかけられたとわかった。さらに男はふりむきながら手をのばし、僕の顔からぐいっと眼鏡をつかみとった。
「これは外させてもらう。顔がみたいんだ」
細い指でなぞられるように背中を恐怖がくだっていく。男は商人のようななりをしているが、ラジアンほどの体格があり、得体のしれない雰囲気で、ここまで僕を引きずるだけの力がある。
きっと蒼白になっているにちがいない僕に、男は中央の木箱をさして座るように告げ、自分は壁際の樽にもたれた。すべての動作に余裕と自信が感じられ、僕はいわれるままに腰をおろす。足が震えるのを止められない。
「何の用だ?」
「ああ、そんなにおびえないでほしい」男は僕とは真逆の、気楽な感じでいった。
「すこし二人だけで話をさせてほしかったもので、驚かせて申し訳ない。何しろあなたの周りにはいつも誰かいるのでね。書店はいつ誰が来るかわからないし」
「金目のものなら、僕は何も持っていないぞ」
「いやいや強盗とかじゃないんだ。ほんとうにすこし話がしたかっただけでね」
男はふところに手を入れ、パイプを取り出した。空のまま一度口にくわえ、また手に取ってぷらぷらと右手で回す。
「いったいなんだ?」
「そう急がないで欲しい」またパイプを回した。「話はすぐに終わる――ん?」
男は顔をしかめた。
「カリーの店主、あなたの事情はかなりこみいっているらしい」
「いったい何を」いいかけた僕をさえぎって男がつぶやく。
「この防壁」
それでこの男が何をしようとしたのかわかった。精霊魔術で僕の心を探ろうとしたのだ。
僕はますますぞっとした。この男は精霊魔術師だ。でも学院や国の認可がない、いわば野良の魔術師にちがいない。彼が試みたのは掟に反する行為だからだ――つまりただの追いはぎよりはるかにたちが悪い。しかも目的すらわからないときている。
「無理だと思う」
あいかわらず恐怖が背中を覆っているが、僕はさとすように彼にいう。
「僕には魔力がほとんどないが、他人の魔力も効かない。〈視えない〉し〈読めない〉し、それに〈侵入〉もできない」
「なるほど」男は首をかしげた。「それは困った」
壁から離れ、僕へ近づいてくる。パニックが襲ってきた。男は僕の前に立ち、おおいかぶさるように体をかがめる。
「なにが目的なんだ? いったい――」
手のひらで口をふさがれた。乾いて冷たい。とても冷たい。
「申し訳ない、危害は加えないといったが」
男は僕の首をもちあげ、まぶたに指をかける。僕と眼をあわせる。彼の眸はほとんど黒くみえるほどの青で、白眼がほとんど見えない。
「事情が変わった。すこしあなたに怖い気分を味わってもらう必要がある」
上からものすごい勢いで何か銀色のものが降ってきた――ように思えた。僕は眼を閉じようとしたが、つぎの瞬間背中に氷のような冷たさが刺し、ぎりっと僕の中をつらぬいた。
痛みはない。痛みはないが、背中から細く細くのびていくものがあり、虚空に消えていくものがある。ゆっくりと力が失われていく。この感覚には覚えがある。これは僕から魔力が消えていくときの……。
怖い気分になるには十分だった。
すこしなんてものじゃない。
僕はそのまま意識を失った。
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