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【第3部 雲のなかの星】5.かさ
物音が聞こえた気がして目が覚めた。
部屋は暗かった。横になったまま見える窓のむこうも真っ暗で、まだ夜明けまで遠いらしい。
「クルト?」
僕は寝ぼけていたのだろう。名前を呼んでからそんなはずはないと気づいた。前にクルトが来たのはレナードが訪ねてきた日の夕方のこと。今日の僕は店を閉めたあとを読書についやし、やっと眠ったのは真夜中をすぎてからだった。
階下から上がったところの床板はすこし浮いているらしく、踏むとギシギシ鳴る。この部屋に誰かいるのか? まさか。
「そこに誰かいるのか?」
それでも僕は体を起こし、暗闇に声を投げた。
何の音もしない。気のせいだろうか。
休息が足りないのだろう、ひどくだるかった。のろのろと起き上がりランプをつける。オレンジ色の光が部屋を照らす。やはり誰もいなかった。気のせいだ。この前不覚にも道で倒れてからこっち、体調はぱっとしなかった。物音に過敏になっているのはわかっていたが、今度は音もしないのに目が覚めるとは。施療院の薬もあまり効いていないらしい。
ついでだ、水を飲んでおこう。僕は裸足のまま部屋を横切った。
扉の近くにくると、やはり床板がぎしりときしんだ。
ふと僕は立ち止まった。
嗅ぎなれない匂いがしたのだ。煙の……煙草の匂いのようだった。
この店にあるはずのない匂いだ。先代のカリーの時代から、パイプを持った客はこの店に入れていない。僕が店を受け継いでからというものは、万が一火種が落ちて火事になったらどうするんだという偏執的な恐怖も手伝い、この規則はさらに徹底されている。路地にあるベンチは締め出された喫煙者のためにあるようなものだ。
夏の夜なのに背筋がぞくりとして僕はその場に硬直した。たしかに煙草の匂いだ。すこし焦げて香ばしい灰の匂い。それに音が聞こえないだろうか? 炎が木をなめ、はぜる音。いや、これは僕が記憶している音だろうか? この匂いも――
あまりにも感覚をとがらせようとしたせいか、突然耳鳴りがはじまって、僕はゆっくりと首を振る。とたんに匂いはわからなくなった。頭をめぐらしてみるが、ランプの光で照らされた室内に異変はない。
夢でもみていたのだろうか。
階段を下りて冷たい水で手と顔を洗った。鏡に映る顔はひどく青ざめていた。裏口、キッチン、店と順にランプを灯しながら歩く。裏口は閉まっていたし、店にもとくに異変はないようだ。すこし安心してキッチンへ戻ったとき、テーブルの上のほこりに眼がとまった。
ほこり? 昨夜はきれいに拭いて眠ったはずだ。
僕はランプを下げてほこりをつまんだ。軽く指先でほろりと崩れる。細かい粉と屑がまとわりつく。燃えがらだ。煙草の葉の……
恐怖で喉がつまった。
僕はしばらくその場に硬直していた。必死で耳をすませても、聞こえるのはぽとり、ぽとりと水桶にしずくの落ちる音だけだ。木がきしむ音もしなければ、足音もしない。どのくらいそうして固まっていたのか、足がしびれたようになって、また耳鳴りがはじまった。頭の中でうなるような音が響く。
動け。足を動かして、階段をのぼるんだ。そして眠れ。
何度かいいきかせてやっと歩き出すことができた。そうなると今度は逆にじっとしていられなくなった。僕は転びそうな勢いで階段を駆けのぼり、まっすぐ寝台に飛びこむと、上掛けを頭からかぶって眼を閉じる。
どうやら朝まで寝たふりをして過ごすことになりそうだった。
「侵入者だと?」とラジアンがいう。いつものように騎士服をきっちり着て、店の中で岩盤のように安定している。
「たぶん――だが自信がない」
僕はぼそぼそとつぶやく。
「夢をみたのかもしれない。夜中は煙草の灰だと確信していたが、朝みるとそうだともいい切れない気がして……」
「ソール、眠れているか?」
「あまり」
昼間の光のなかでは夜に感じた恐怖はまぼろしのようにしか思えなかった。
朝になって店に立ち寄った警備隊に夜中の異常について話すと、昼にラジアンがやってきた。こういうときはやはり警備隊や騎士は頼もしいと思う。もっとも、ひと通り周囲を確認してもらっても、特に異常はなかった。なくなった物もないし、周囲の店や家に物盗りが入ったという通報もない。
「あいつはいなかったのか。ほら――あの学生」
「クルトなら……毎日来れるわけじゃないし、夜中まではいないから」
ラジアンは鼻を鳴らした。「まったく、肝心な時に……」
「仕方ないだろうが」
いったいラジアンは何をいってるんだと僕はつぶやいたが、自分の心の奥にも、クルトがここにいればいいのにという思いがくすぶっているのはわかっていた。だめだ、といいきかせる。クルトはそんな立場じゃない。
「僕の気のせいかもしれない……というか、その可能性は高い。ここ何日か、かなりおかしな体調なんだ。戸締りを心配するより、施療院に行くべきなのかも」
「ソール……」ラジアンは僕を正面からみつめていった。
「おまえは――まともだぞ」
「そんなのおまえにわかるか。僕は自信ないね」
「とにかく、また異常があったらすぐに知らせるんだ。この通りの夜警を増やすように進言しておく」
「あまり警備隊がうろうろすると客が怖がるよ」
「うしろめたいやつは勝手に怖がっていればいい」
気をつけろとしつこく念を押し、ラジアンは出て行った。気をつけろといわれても、きちんと施錠するくらいしかできることはないとも思ったが、僕は神妙にうなずいた。
夕方クルトが店に来たが、妙にそわそわして心そこにあらずといった感じだった。どうしたのか訊ねると、これから家族の待つ屋敷へ戻らなければならないのだという。
「ごめん、今日は早く出なくてはいけない」
「気にするな。だいたい、ハスケル家は避暑には行かないのか?」
学院はもう夏の休暇に入っている。残っているのは試験の結果が思わしくなく、補講に明け暮れている者か、でなければ王都の外へ行く場所も手段もない者――かつて僕もそうだった――だけだ。店を訪れる学生は目に見えて減り、イーディも実家に帰った。学生に限らず、暑い王都から涼しい場所へ逃れる人びとがふえたせいか、店はここ数日閑古鳥が鳴いていた。
「ああ、家族はたしかに、行くだろうけど……」
クルトの口調は歯切れ悪かった。「俺は――行かないと思う」
「どうして? ご家族と過ごすのは久しぶりじゃないのか?」
「両親には王都の屋敷でいつでも会える。ソールに会えなくなるほうが問題だ」
彼がそういうと僕の心臓は跳ねたようにどきりとする。顔をそらして「何いってる」とつぶやいた。
「僕は王都を離れられないんだ。きみはせいぜい涼しいところで過ごしたらいいのに」
「ソールがいないなら意味ない。今日だって……」
クルトはひどく浮かない顔をしていた。僕はいったいどうしたのかと思った。
「進路については大丈夫なのか? 何かうまくいかないことでも?」
聞くと顔をしかめて「いや、大丈夫だ」という。
「もう行くよ」
そういいながらも気が進まないようにため息をついている。クルトの様子が気になって、結局、夜中のおかしな出来事については話さずじまいだった。
真夏と真冬は、客足が完全に途絶える日が何日かある。例年ならこんな時期には、溜めっぱなしの雑務を片付けたり、時間がないからと読まずに積んでいた大部の書物に手をつけたりするものだ。だが今年はうまくいかなかった。いちいち気が散るのだった。窓の外で鳩がカサコソするのや、吊るした虫よけのハーブが揺れるようなささいなことに気をとられる。さもければ耳鳴りがはじまって、頭を揺らすと視界がぼやける。
何かがおかしかった。施療院のカルタンに診てもらうのが最良なのだろうが、この体調では森まで出向くのもつらい。緊急の場合は学院へ連絡すればいいのだが、警備隊にことづてを頼むのも大げさだ。セッキに相談するにも師団の塔まで行かなければならない。これだけ周囲の刺激に過敏になっているいま、暑い街中でまた倒れたら、と思うと不安だった。
まったく、魔力がないとは不便なものだ。不審な夜から三日、クルトも姿をあらわさなかった。王都には緊急事態も起きていないようだし、貴族はみな涼しい自領や避暑地ですごすのが当たり前の季節だ。クルトも行ってしまったのかもしれない。
もし彼が僕に何もいわずに王都を離れたのだとしたら、あまり――嬉しくはなかった。でも失望はすまい、と僕は思った。今後はもっとこんなことが増えるはずだ。王宮に入るとどうなるのか直接知っているわけではないが、昔ヴェイユに聞いた話だと、市井の人間には想像もつかないほどの激務になる場合もあるらしい。ヴェイユ本人が王宮への野心をもたなかったのも、彼の学究心もさることながら、周囲にいる王宮勤めの者たちのようにはなりたくない、ということらしかった。
クルトがここへ来なくなるのも、いずれ数日どころではなくなるだろう。
――と、こんなふうに語ってみると、僕は冷静にこれからのことを考えているように思われるかもしれない。しかし実際のところをいえば、クルトがこの店に来て僕の近くにいると、まったく冷静に考えられなかった。彼にいつも手の届くところにいてほしくて、無意識に体が動きそうになる。さすがに明るいうちは自制しているが、寝台で抱きしめられるとだめだった。羞恥もなにもなくクルトを求めてしまうのだ。
深夜にクルトがいなくなり、翌朝ひとりで目覚めるときは、体にぽっかり穴が空いたような気がした。僕はいつも先に眠ってしまい、クルトは僕が気づかないうちに敷布からなにから、すべてを整えて立ち去っている。清潔な布の上で眠るのは心地よかったが、クルトの匂いもなくなってしまうせいか、とても寂しくもあった。
ぼうっとしていたので、突然店の扉がひらいた時ははっとした。大柄な男がするりと入ってきて扉をしめる。はじめてみる客だ。
「やあ。ここが、カリーの店ですね。涼しいな」という。
僕は座ったまま、ええ、とかなんとかいった。男は頭をまわし、取り囲む書架を眺めている。商人のような身なりだが、ギルドの印もなく、どこか得体がしれない。服の上からもしっかりした体つきがわかった。体格だけみれば、まるで騎士のようだ。
「なるほど、さすがだ」
満足した様子で男はうなずいてふところに手を入れ、パイプを取り出した。
僕はすばやく声を投げた。「ここでは煙草は禁止だ」
「おや、悪かった」
男はいいながらもパイプをしまおうとせず、手に持ってくるくる回す。
眺めていると急に気分が悪くなった。パイプ? 煙草……。
突然、真っ黒な煙が視界の正面から覆いかぶさってきたような息苦しさと恐怖が僕を襲った。数日前の夜がありありとよみがえる。床板がきしむ音が聞こえ、かすかな煙の匂いがして……
「おや、大丈夫ですかな?」と男がいった。
「暑い時に申し訳ないが、稀覯本で名高いカリーの店だ。探し物があって来たんです」
僕は男に焦点を定めようとした。いまだに指先へひっかけるように回しているパイプの吸い口に眼がとまる。銀色で、突き出た枝のような形で、いったいこれはパイプなのか?
「ご存知でしょう。『宇宙の理法について』とか――そんな名前のつくものを」
聞いたとたん、僕の口の中が一瞬でカラカラに乾いた。
「そんな書物はない」
舌が喉にぺたりとくっついたようだった。ひき剥がそうとするとしゃがれた声が出た。
「残念だが、無駄足だ」
「いえ、ある。あなたの頭の中に」
男はにやりと笑った。「たまたまなんだ。ちょっとした暗示をかけるだけの安い仕事のはずだった。まさか『閉じられた本』に出会うとはね」
男はまたパイプを回し、一歩こちらに近づいた。まるで巻き戻されるように僕に記憶がよみがえった。路地にひきずられ、小部屋に連れこまれて、銀色の枝が降ってきた衝撃。糸を巻くように抜きとられていく力をぎりぎりで留めた、あの――
はっとして僕はまばたきをした。
つばを飲み込み、唇をなめる。
男はさらに近づいてくる。もう僕の眼の前にいる。
口をひらくとやはりしゃがれた声が出た。
「僕をどうしようと何も出ないぞ。〈侵入〉はできないとわかったはずだ」
「でも暗示をかけられない以上、当面はあなたをどうにかしないといけないものだから」
「暗示って、なんだ……?」
「あなたがクルト・ハスケルに興味をなくす暗示」
僕を上から見下ろしながら男はまたにやりとする。うすい唇のはしがめくれ、表情は肉食獣めいていた。
「辻占い程度の仕事だよ。クルトの結婚にあなたが邪魔なのでしばらくひっこんで欲しい向きから依頼があっただけだ。貴族の子弟にはよくやってる仕事でね、終われば解けてもかまやしない。だがあなたが『閉じられた本』ならまた違う話になってくる。先日は失敗したが――」
男の指にひっかけたパイプがくるくる回った。
「あなたがほしい。その、頭の中身がね」
僕は回転の中心をみつめた。
どういうわけか今度は『それ』が来るのを見逃さなかったし、遅れなかった。僕は飛びあがるように立ちあがる。急に体内にわきあがった不思議な力にうながされたように、ひりついた喉をむりやりあける。僕のうえに銀色の線が降りかかってくる。まるで滝のようだ。
だが今は、僕はその銀色に対抗するようにひとつの言葉を発していた。
祈りをささげているような気がした。きっとこの瞬間がすぎれば僕はまた忘れてしまうのだろう。だが今だけは祈れるのだと思った。燃える書物の炎で失われた『彼』がそこにいたのだ。僕の魔力を糧にして、僕の頭に納められてしまった〈本〉から、僕自身を守るために。
――僕は『彼』の名前を呼んでいた。
パイプが弾かれたように真上にとび、ついで床におちた。みえない力の衝撃で大柄な体が扉の方へ飛んでいくのと、扉がひらいたのは同時だった。聞きなれた声がひびいた。語尾をすこし引き伸ばしたような、甘い抑揚をもつ声だ。
「ソール?」
男は書架にぶちあたり、書物がその上に降りそそぐ。だが彼はすぐに体勢を立て直した。動物を思わせる敏捷なうごきではねるように立ち上がると、驚いた顔のクルトの前に飛び出し、押しのけるようにして外へ駆け出す。
「おい、おまえっ……」
「クルト、追うな――」
一瞬だけ、裸眼の僕にクルトの魔力が〈視えた〉。
ほとんど反射的に男を追って感覚を伸ばそうとするクルトをとめなくてはならなかった。あの男は今は手負いで、危険すぎる。僕はクルトに〈声〉を放った。
『追ってはだめだ。ヴェイユを呼んでくれ――』
そして世界は急速に平坦になった。
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