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【第3部 雲のなかの星】6.あめ

 クルトの前でソールが床に崩れるようにして、うずくまった。  クルトは寸前で間に合わなかった。駆けよって触れた手首の冷たさにどきりとする。頭を打っていないことと、脈があることにほっとした。呼吸もしっかりしているが、意識がない。  意識。  さっきクルトの意識へ届いたのは、たしかにソールの〈声〉だった。切迫した、しかしゆるぎない確信に満ちた声が、あの妙な男を追いかけようとしていたクルトを止めたのだ。  しかもそこには魔力があった。扉をあけた一瞬、たしかにクルトは〈視た〉。これまで他人から感じたことがなかったくらいの圧倒的な力が空間に充満し、それがあの男から伸ばされた力を跳ね返していた。加えて、あの男が操っていた力は青みがかった銀色の光輝を帯びて、ふつうの魔力の気配とは違った。  しかし今のソールに魔力の気配は感じられない。クルトが〈声〉を投げようとしても、固い防壁が立ちはだかっている。〈声〉の背後にあった膨大な力は拭われたように消えて、開け放たれた扉から屋外の熱い風が吹きこみ、無惨に散らばった書物のページがめくれている。  いったいあれはなんだろう?  いまここで何が起きたのか、クルトにはまったくわかっていなかった。何しろここ数日というもの、ハスケル家で父と激論を交わしていたのだ。理由はもちろん父がまとめようとしている自分の結婚話のため。おかげでクルトは、期せずして自分がこれまでかぶっていた「出来の良い息子」という皮をすっかり脱いでしまい、売り言葉に買い言葉で言い争ったあげく屋敷を飛び出して、ソールに会うためカリーの店へ駆けこんだのだ。  ――そうしたらこんなありさまである。  ソールの〈声〉は何といったのだったか。ヴェイユを呼べといったのだ。しかしあの厳しい面持ちの師へ直接念話を飛ばすのはためらわれた。ソールを抱きかかえて階上へ運びながら、クルトがまず念を送ったのはアダマール師だった。 『どうしたんだね、クルト』  いつもと変わらずおだやかな師の声は、ソールの店を襲った男と、ヴェイユを呼んでくれといったソールの〈声〉についてクルトが説明した途端、一変した。 『ソールはどんな状態だ』 『意識がなくて――今、寝台に運んでいるところです。呼吸も脈もありますが…』 『魔力は?』 『感じられません。……いつもとおなじです』 『頭を揺らさないように。我々が行くまで、魔力の出口になる部分をできるだけ温めてやりなさい。わかるな?』 『はい……わかりますが……』  アダマール師に答えながらクルトはソールを寝台に横たえる。階上の部屋はとくに変わりがなかった。寝台の近くの書棚はソールの好きな書物で埋められている。船や海岸の地形、風、鳥、波についての書物。物語――少年が読むような海賊のおとぎ話から魔術がらみの恋愛小説まで。すべて海についてのものだ。  アダマール師はさらにいった。 『それから、そうだな。歌いなさい』 『歌?』 『そなたの癒しの歌だよ。周囲に聴こえてかまわんから、思いきり歌うんだ』 『アダマール師、俺は――できるんでしょうか? 意識して歌ったことはないんです』  ため息のような感覚が伝わった。 『大丈夫だ。やりなさい。そして我々が行くのを待ちなさい』  師はそう伝えると会話を打ち切った。  寝台に横たえたソールは眠っているようにみえるが、かすかな呼吸以外は身じろぎもしなかった。夏のさかりなのに手も首筋も冷たく、クルトは不安にかられた。温めるようにという指示に従い、まずソールの手首をゆっくりさする。魔力の出口はひとの体の数カ所に点在している。手首、肘の内側、ぼんのくぼと頚椎。腰のくびれの中心。  ソールのシャツの襟元をくつろげ、細い首の後ろに手のひらをあてる。これまでも、ここに何度も口づけして、ソールが甘く吐息をもらすのを聴いた。いまは壊れやすい陶器で作られているようで心もとない。起きてくれと念じながら力の抜けた重い体を見下ろし、意を決して靴を脱ぐと、自分も横たわってソールを背中から横抱きにした。  初めてきいたソールの〈声〉は肉声よりも抑揚に富んでいたが、この冷たい体にまた熱がこもり、いつもの声で自分に話しかけてくれるほうがずっといい、と思う。目覚めてほしかった。知らぬうちにクルトは祈り、祈りながら歌い、歌うことに集中した。ほのかに温かさが戻ってきたような気がしたが、錯覚か、思いこみか。  どのくらいの時間がたっただろうか。突然、腕のなかの堅い体がゆれた。  息をつめたクルトのそばで、数十秒のうちにソールの体に熱が戻ってくる。胸がはっきりと上下し、熱く息を吐く。 「ソール?」  クルトはささやき、体を起こした。ソールをあおむけにして枕の位置を整える。何度か苦しそうな息があがり、ひゅっと喉が鳴る。そして自動人形のような動きで急に起き上がった。眼が大きく見開かれるが、焦点は合っていない。くしゃくしゃになった髪がゆれ、かくんと横を向いた。暗い眸がクルトをみつめて何度かまばたきする。 「クルト? 僕は――」  嬉しさのあまりクルトは無言でソールを抱きしめ、そうしながら階下に数人の気配があるのに気づいた。師たちが到着したのだ。クルトは知覚をひろげ、アダマール師とヴェイユ師、それにラジアンがいるのを感じた。あいつも来たのか。 「ソール。目が覚めてよかった。アダマール師やヴェイユ師が来てる」 「僕は……そうか……」  ソールは髪をかきあげた。クルトに聞こえないくらいの声でぶつぶつとつぶやいている。 「あの男……」 「あいつは何なんだ?」 「――ヴェイユに話さないと」  ソールが呟くと同時に、クルトにアダマール師の声が聞こえた。 『クルト、ソールの具合は?』 『いま気がつきました!』  クルトは乱れた服を直し、靴をはいた。ソールはまだぐったりした様子で寝台の背板にもたれている。 『だと思った。そなたの歌の効き目、なかなかだな。体の痛みがとれたぞ』  白いローブの師たちが部屋に足を踏み入れると、強力な魔力の光輝でクルトの視界が明るくなった。ソールがまばたきし、ひどく動揺したのがクルトにはわかった。アダマール師の背後でヴェイユの強い視線がクルトを射て、ついでソールの上をさまよった。 「これは二五番の左の方だ」  クルトは拾った書物のほこりを払うとラジアンに渡した。ページによれやひどい汚れがないかはすでに確かめてある。 「よく覚えているな」  ラジアンが鼻を鳴らしたが、半分はほこりのせいで、半分はクルトをからかっているらしかった。 「悪いか」とクルトは返す。  ひどく理不尽な気分だった。学院から師たちが到着すると、彼らはさっさとクルトとラジアンを階下へ追いやったのだ。ラジアンはもともと店を警護する目的で呼ばれたらしく、当然といった様子で階段へ足を向けたが、クルトは納得いかなかった。 「アダマール師、俺は――」  反論しようとしたクルトに断固とした声でヴェイユがいった。 「クルト。階下は大変な様子だった。私たちが話している間、騎士とふたりで多少は片づけてやってくれ」  アダマール師が駄目押しのようにつけくわえる。 「そうだな。そなたは店にも詳しいだろうから、ソールも助かる」  クルトがさらに苛立ったのは、ソールもあきらかに師たちに賛同していたからだ。しかし、だるそうに背板にもたれたソールに「悪いが、頼む」といわれては、さらにいいつのるのも子供じみている。あきらめて階下へ行ったものの、今度は階下の様子をみてげんなりした。いったいどんな力がかかればこうなるのだろう。扉に近い書架へ納められていた本の大半は床に崩れ、棚板が外れてしまった部分もある。 「……そんな仏頂面をするなよ。ソールが気がついたのを喜べ」とラジアンがいう。 「もちろん喜んでるさ。でも、なんであんたとこれをやってないといけないんだ」 「ハスケル。俺は年上だぞ。すこしは敬えよ」  クルトは聞かなかったふりで天井を見上げた。 「ちくしょう、まったく聞こえない」  上階にはふたりの師が精霊魔術で結界を張り、クルトの知覚にも、何が話されているのか、どうなっているのかさっぱり感知できない。  クルトのひとりごとはラジアンにしっかり聞こえたらしく「師が内密に話そうとしているのをのぞき見しようっていうのか?」と大柄な騎士は呆れ声でいう。 「あんただって気になるだろう」  顔もあげずに返したクルトにラジアンは眉をあげた。 「もちろん気になるが――魔術に関することは、俺は門外漢だ」 「俺は門外漢じゃない」 「おまえはまだ学生だろうが。よけいなことを聞かせて問題にならないようにしているんだ」 「わかってる」  クルトは腹立ちをしずめようと床の書物をまとめて拾い上げた。 「でも腹が立つんだ。何があったかも教えてもらえないなんて……」 「ハスケル」ラジアンが鋭くいった。「師やソールを信頼しろ。気持ちはまあ、わかるがな」 「ちくしょう、あんたがそんなに物分かりがいいのも腹が立つ」 「いってろ」  悪態めいた言葉を吐きはしたが、ラジアンの安定した感情はこんなときとても助かるのがやがてクルトにもわかった。アダマール師の課した任務をひとたび承諾したラジアンは、気分が岩盤のように動かないのだ。この男はおそろしく頑固にちがいないが信頼もおける。そのせいもあってか、クルトも上階に向けた苛立ちを店の原状回復へぶつけて、ふたりはせっせと働いた。  吊るしたランプの光が目立つようになったころには、歪んだ書架の補強も終わり、散らばった書物はあらかた片付いていた。作業に没頭していたクルトは『上がってきなさい』というアダマール師の声に驚いたくらいだった。結界はいつの間にかなくなっている。  寝室へ上がると、ソールはまた眠っていた。しかし顔色はずっと良くなっているようだ。ヴェイユが部屋中をゆっくり歩きまわっていた。天井や窓、床の絨毯を見回っているらしい。ソールのすぐそばに座っていたアダマール師が立ち上がると「大丈夫だ。今は眠らせた」と小声でいう。 「気になるだろうから、眼が覚めるまでついていてやりなさい。寄宿舎には連絡しておく」 「何があったのか、俺は教えてもらえないんですか?」 『今はだめだ』  突然心へ響いたのはヴェイユの〈声〉だった。 『そのうち教えてやれるかもしれないが、きみにはまだ資格がない』  ヴェイユの声にはなぜかクルトをカッとさせるところがあった。それは心で返したクルトの返事に如実にあらわれたにちがいない。なぜなら聞くまえにヴェイユは笑ったからだ。講義室でもときどきみる、かすかに唇をゆがめた、皮肉な笑みだった。 『いったいいつ、俺にその資格ができるんです?』 『卒業したまえ。そしてソールを安心させてやれ』  ヴェイユは店と寝室のいたるところに、防御のための回路魔術の装置を仕掛けていった。理論家で知られるこの教師にそんなことができるなどクルトには予想外だった。クルトにはなじみのない機械仕掛けを手慣れた様子で扱っているヴェイユは、教室で講義をする彼とはまるで異なる雰囲気だった。厳格な教師の顔からは予想がつかない、なにやら得体がしれない存在に思える。どちらかといえば、クルトが一瞬しか捉えられなかった、あの逃げた男に似ているような気もした。  ソールが目覚めるのを待つあいだ、クルトはぼんやり、寝室の中央に敷いた絨毯にすわっていた。以前はこの部屋に床まで大量の書物が積まれていたなど、想像もつかないな、と思う。片づけたクルトですらもう忘れそうになっているくらいだ。  ひとの記憶はとてもあやふやなものなのだ。クルトはふいにそう思い至り、はっとした。眼前にあるものだけを、まるで永遠にそこにあったかのように思いこんでしまう。現実は変化するのに、変化したことを忘れてしまうのだ。  そんなふうにぼんやりと考え事をするうち、自分まで眠ってしまったらしい。 「クルト?」  はっと目をあけると、ソールが見下ろしていた。 「大丈夫か?」  それはこっちのセリフだ、とクルトは跳ねおきた。ランプの明かりがオレンジ色に部屋を照らしている。ソールが床に膝をついていた。 「ソール、いつ起きたんだ」 「ついさっきだ。きみがいたから驚いた。店もきれいになっているようだし……」 「アダマール師にソールの目が覚めるまでいるようにいわれたんだ」そういってから、クルトは自分まで眠ってしまったことの可笑しさに気づいた。「ごめん、寝てしまった」  絨毯に座りなおし、ソールの肩に手をまわす。温かさに安堵すると同時に、昼間ソールを抱きかかえたときの冷たい感触を思い出してぞっとした。考える間もなくソールの肩口に顔をうずめていた。 「よかった……」  つぶやきに応じるように腕の中の細い肩がふるえ、小さな声がいう。 「ありがとう。今日はきみが来てくれて良かった。もしきみが来なかったら……」  その先をいわせたくなかった。こうするのがもっとも自然だとばかり、クルトはそっとソールの顎をつかみ、軽く唇を触れる。何度も小さな口づけをおとして、恋人が腕の中にいることを再確認する。手を巻き毛にからめて梳き、なめらかな感触に安堵しながら、どれだけ触れても足りないと思う。何度目かの口づけのあとでやっとソールにささやく。 「何が起きたか教えてくれないのか? 師たちは何もいってくれなかった」 「何が起きたか――か」  ソールは正面からクルトの眼をみつめた。底の深い暗い眸がクルトをみつめてまばたきする。まだ背中に回っていたクルトの腕をはずし、絨毯のうえに座ったまま正面から向きあう。 「師が教えなかったのなら僕にはいえない。禁書に関わることだから」 「俺は半人前だから」 「クルト、危険なんだ」  ソールは小声で、しかしはっきりといった。 「きみがまだ学生だとか、そんなことは本質的な話じゃない」 「でも」いいかけたクルトをさえぎって、さらに続ける。 「それにクルト、きみ――結婚するんだろう」  内心に斧で殴られたような衝撃があった。  予想外の言葉に絶句したクルトをソールはおだやかに見ていた。 「ごめん。例の男が僕に話したんだ」とつぶやくようにいう。 「なぜ?」 「さあ――」ソールはつと目をそらして、言葉を濁す。 「僕のことをよく知っていたから、きみについても調べたんだろう」 「それは嘘だ」  クルトは即座にいい放ったが、何について嘘だといったのか、自分でもわからなかった。とにかく、これではだめだ。正確に話さなければ意味がない。それにソールの言葉にも何か大事なことが抜け落ちている気がした。ソールは何かを隠している。 「嘘というのは、俺は承諾していないからだ。父が勝手に進めていることで、俺にその気はまったくない」 「そうはいっても、クルト。これはきみの将来の話だ。簡単にきみひとりで決められることじゃない」 「そんなの当たり前だ。俺ひとりじゃ決められない。俺とソールが一緒でないと」 「クルト」 「俺はソールがいない未来なんてもう考えない」  クルトは思いかえす。ここ数日間はこれまで経験したことがないほどストレスの多い毎日だったのだ。ラブレス家との会食をクルトは口実を設けて断ろうとしたが、結局は出席することになってしまった。その前後の父との直接的な、あるいは婉曲なやりとりは神経をすり減らし、能力試験の緊張感の方がましだと感じたくらいだ。だが今回は引くわけにはいかなかった。  理由はいくつかある。貴族にとって政略結婚はよくあることだとはいえ、王宮への推薦人を得るためというのは露骨すぎるし、父の力がないと目的が達成できないというのであれば、そもそも学院から王宮へ入ろうとした意味がない。それこそ、父の影響力を抜け出したくてはじめたはずのことに、自分から囚われることになるだろう。  加えて今はソールがいるのだ。  ハスケルとラブレスの会食はクルトが固い態度を崩さなかったために儀礼的なものに終始し、父親が期待したような和やかな雰囲気にはならなかった。それに会食で久しぶりに会ったヘレナ・ラブレスも乗り気には見えなかった。何年も前に学院で会ったときの記憶通り、美しい女性だったが、冷淡で無関心に感じられた。  彼女とは念話で正直なやりとりもできたのかもしれない。だがいまそんなことをすれば、父親との確執まで伝わってしまう。  当然父親は会食でのクルトの態度におかんむりだった。「いったいどういうつもりだ?」と、めずらしく余裕のない様子でクルトに詰めよったが、クルトも引くわけにはいかなかった。これまでも、自分の野心をかなえるためには他人の事情などどうでもいいという父の態度について批判的だったことはある。だがその意味を本当に理解できたのは、それが自分に降りかかってきた今なのだった。  そういう意味では、人間とは身勝手なものだとクルトは思う。人を人とも思っていない父のふるまいをみたのはけっして初めてではない。それなのに自分の問題になるまでは、父の非情さをほんとうの意味で理解していなかった。クルトがもっとも腹を立てていたのは、父が強引に結婚を決めようとしたことではなく――それは貴族の家柄では多分に避けられないことだった――ソールと別れたくないなら愛人にしておけという父のいいぐさだった。しかも男ならむしろ都合がいいとは、ひとを馬鹿にするにもほどがある。  もっともこんな家の内情すべてをソールにまくしたてるわけにはいかない。とにかく推薦人についての要点だけを話して、クルトは興奮気味に言葉をついだ。 「俺は父のいうなりに結婚などしない。だからソール……」 「クルト」  ソールは静かに立ち上がった。暗い眸がしずかにクルトを見下ろす。 「父上の考えに一理あるのは、忘れてはいけないぞ」 「ソール?」 「きみは嫡子だろう。今回のことがなくてもどのみち結婚のようなきみの家の事情からは逃げられない。僕のことは気にしなくていい」 「俺はそんなふうにあなたを裏切ったりはしない!」  思わず声を荒げたクルトに対し、ソールはまた静かにいった。 「きみが結婚したとしても僕を裏切ることにはならない。それにきみは相手が誰であれ、その人を好きになるかもしれないだろう」  クルトは呆然とソールをみつめていた。耳に聞こえる言葉が信じられなかった。 「どうしてそんなことをいうんだ」 「それにその人だって――きっときみを好きになる」 「そんなことにはならない!」 「なるさ、クルト。きみは最初にこの店へ来たとき、僕のことをどう思った?」  ソールはクルトを見下ろしたまま、唇のはしを曲げてかすかに笑った。 「僕はきみともう一度会うなんて思いもしなかったよ。きみだってそうじゃないのか? だから今、きみがどう感じているかは、あまり問題じゃない」 「そんなことをいわないでくれ」  まるで引き裂かれるような気がした。座りこんだままでいるクルトの髪にソールの手が触れるが、怖くて視線をあげられない。なだめるように髪を撫でつけられた。その手の心地よさと、反対に聞こえてくる言葉の乖離に胸がつぶれそうだ。 「クルト、僕はきみが結婚しても変わらない。王都を離れることもないんだ。今まで通り都合がつくときにここへ来るといい」 「そんな問題じゃない。俺は結婚なんてしない。あなたを置いて――」 「馬鹿だな」ため息のような音がきこえる。 「僕なら大丈夫だ。目的を達成するためなら何でもやれるのがきみの流儀じゃないのか?」  クルトは上を向いて思わず怒鳴った。 「あなたは嫌じゃないのか? 俺があなた以外の誰かと――誰かと一緒にいても……俺は嫌だ。あなたがここでひとりで――俺が知らないうちに誰かと笑っていたりしたら……」  クルトがふりはらったソールの手が宙でとまる。そのまま舞うように中をおよぎ、力なく落ちた。  ソールはにらみつけるクルトから眼をそらした。 「僕は大丈夫だ。クルト。きみだってそうだよ」  窓から吹きこむ風に日よけがぱたぱたと鳴った。さっきから揺れていたのに気づかなかったのだ。迷いこんだ蛾がランプにまとわりついている。外では猫が赤ん坊が泣くような声色で鳴きさけんでいた。相手を求めているのだ。  どっと疲れが襲ってきた。今日は長い一日だったな、とクルトはぼんやり思った。長すぎて何があったのかもわからなくなりそうだ。父の屋敷から飛び出し、意識のないソールにぎょっとし、ひどいありさまになった店を片づけ、そして―― 「クルト、よく考えるんだ」  クルトの内心に逆らうようにソールの声は穏やかで、それがますますクルトの気持ちをかき乱す。 「きみの将来のことだぞ」 「ああ、俺の将来だ」  クルトは言葉を絞りだした。自分が空っぽになるような気がした。 「あなたにいわれたくなどない。あなたに指図なんてされない」  立ち上がってソールのそばをすり抜ける。まっすぐ階段を下り、裏口をあけると外へ出て、そのまま叩きつけるように扉を閉めた。  猫と虫の声が驚いたように一瞬やんだ。風はあるが、しずかで暑い夏の夜だった。頭上に星が散らばっている。クルトが路地を歩き出すと、何事もなかったようにまた虫が鳴きかわした。猫はもう鳴かなかった。どこかへ行ってしまったのだろう。  自分はどこへ行けばいいのだろう。クルトにはわからなかった。

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