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【第3部 雲のなかの星】7.ちぎれ
クルトが走り去る音に続いて、大きな音を立てて裏口の扉が閉まった。
あの扉は僕には開けることができない。回路魔術で施錠されていて、鍵を開けられるのはクルトだけだ。ヴェイユならこじ開けられるのかもしれないが。
クルトを傷つけたのはわかっていた。僕に愛想をつかすだろうか。あの扉はまたひらくだろうか。
いや、ひらかなくてもいいのだ、と僕は思う。「彼」のように失ってしまうくらいなら、ひらかない方がいい。
「ソール。我々が予想していた通りだった。そなたの力は消えたわけではない」
クルトとラジアンを階下へ追いやったあと、妙なパイプを振り回す男の襲撃とその結果について、一通り僕から聞き出したアダマール師は穏やかな口調でそういった。師はいつも穏やかだ。十数年のあいだ、師が取り乱した場面を僕は一度しか見たことがなかった。
パイプ男は僕のことを「閉ざされた本」と呼んでいた。つまりあの男は知ったのだ。僕が例の〈本〉を読んだということ、心の奥底に保持し、記憶しているということを。だが問題はそれだけではないらしい。
部屋は物音ひとつしなかった。ヴェイユが結界を張ると同時に屋外の物音もしめだしたからだ。
「僕の力はどこかに――僕の意思では届かないところにつながっている、ということでしょうか?」
と僕はきく。
「おそらく例の〈本〉についての記憶と関連しているんだ」
とヴェイユがこたえる。
数年ぶりに聞くヴェイユの声は覚えている響きと変わらなかった。すこし固く、ぶっきらぼうだ。むかしから口に出す言葉にあまり感情が出ない友人で、心で話せるならかすかな機敏がわかるだろうが、今の僕には無理な話だった。しかし見た目や雰囲気よりもずっと細やかな性質なのを、もちろん僕は忘れていない。
「あの〈本〉の魔術はまことに厄介だな」とアダマール師がいう。
「〈本〉は燃えても消えないように仕組まれていたわけだ。おそらくそなたの魔力を糧にしてどこかに存在し続けている」
「しかしどこに? それに、いったい何が実際に存在しつづけているというんです? 本を書いた人間ですか? それとも本に書かれた知識ですか?」
「知識は力だ。秩序づけられた力。我らが使っているのはそういうものだ。〈本〉については……実体が正確にはわからなくともまだ存在するのだろう。紙とインクという物質の形を取らないだけで」
ヴェイユの言葉はいかにも理論家らしかった。僕はまるで学生時代のような懐かしさに襲われる。
「〈本〉は僕の頭の中にある?」
「いや、私はちがうと思う。我々の肉体や心には届かないどこかの次元にあって、ソールが――ソールの力がその場所へ通路をかけているんだ」
ヴェイユは腕を組む。考えごとをするときの癖だった。
「〈本〉がある場所も、魔力がそもそも来るところなのかもしれない。よく議論しただろう。魔力というものの本質は生き物の能力、生き物がつくるものなのか、あるいは力はそれ自体で存在し、生き物を通して発現するものか。これで通路仮説に一票が投じられるな」
「では僕が死ねばその通路も――」
「ソール」
ヴェイユとアダマール師、ふたりが同時に声を出した。僕は黙った。ヴェイユがちらっとアダマール師をみる。
「そんなことは今は関係がない。それよりパイプ男に襲われたとき、なぜソールの力が一瞬だけ戻ったかが問題だ」
「たぶん『彼』の名前が鍵になっているのだと思います」と僕はいう。
「僕は『彼』の名前を認識できない。思い出せないし、覚えられない。つまり誰も僕から『彼』の名を引き出せない。なのにあの時だけ僕は『彼』を呼ぶことができて、そのとたん僕の力が戻った。でもあの男を撃退したとたん力は消え、いまの僕は『彼』を思い出せない」
「つまり彼は、かたちを変えてそなたを守っているともいえるのか……。我々はもう誰も失いたくない」
アダマール師の声は僕を無理やりなぐさめようとしているわけでもなく、僕はかえってそれに救われる気はしたものの、気分は晴れなかった。ヴェイユは部屋を歩き回っている。
「そのパイプ男だが、すぐにあきらめるとは思えない。防御と呼子を仕掛けておく」
回路魔術師のような物言いだった。僕はあっけにとられた。
「いつの間にそんなことができるようになったんだ」
「十年たつからな」
彼は僕を見なかった。部屋をうろうろしながら「クルト・ハスケルはどのくらいここに来ている?」とたずねた。
「さあ……このごろは三日に一度くらいか?」
今後はどうなるだろうと思うと気が滅入った。目覚める直前、僕はきれいな色の夢をみていた。透きとおった翠色が揺れ、あわい金色の砂がこぼれる。世界が力ある色彩であふれ、僕は驚きに眼をみひらく。あれはクルトの魔力の色かもしれない。
「クルトを守ってやってくれ」と僕はいう。
「僕と関わるのは……彼にとって良いことじゃなかった」
ヴェイユはくるりと振り返って僕をみた。
「そんなことはない。春以来、あれはずいぶんましになった」
「ソール、少し休みなさい。クルトに見ていてもらおう」
アダマール師が僕のひたいに手を置く。僕は急いでいった。
「クルトには何もいわないでください。危険だ」
「もちろんだ」と師は答えた。
一方的に喧嘩をしたようなかたちでクルトが出ていったあと、僕は顔を洗ってまた寝台に戻った。クルトを失望させたり、傷つけたくはないが、今はこのくらいの方がいいのだと思う。妙なパイプを振るあの男のおかげではっきりとわかったのは、例の事故から十年経ったいまでも、僕はまだ危険な存在だということだ。
何が起きようとも避けたいのはクルトが危険な目に遭うことと、彼の将来が――僕のように――台無しになることだった。自分のしたことが逆効果にならなければいいがと僕は不安になる。
親しい相手に重要な事実を知らせない、教えないことで、失うものはいくつもあるのはよく知っている。とはいえひとの口は嘘をつくし、ひとの口は嘘を吐く自分自身すら欺ける。
ほんとうは欺きたかったわけではなかったし、クルトと離れたくもなかった。だがこの世には知らない方がいいことがあり、近づくと良くない結果が起きる物事や人間がいる。自分がそうなのだとクルトにじかに伝えたところで彼が納得するとも思えなかった。
世界は作用と反作用で動いている。自分が動けば世界のどこかへ影響し、まわりまわってどこかへはねかえる。その予測をするのは難しい。
誰にも話していないことがひとつある。パイプ男が最初に僕に近づいた目的についてだ。
路地で僕を待ち伏せした日について、暗示をかけようとした、と彼はいった。僕がクルト・ハスケルに興味をなくす暗示、と。
男がいう「暗示」は精霊魔術を使える人間にはなじみ深い。強い感情を消し、平らにならしてしまう忘却の暗示だ。施療院ではごくまれに治療の一環で使われる場合もあるとはいえ、本来他人に向けてはならないと掟で定められている。だが魔力の少ない普通の人間に対してこの術をかけるのはそれほど難しくないため、暗示を使って他人の意思を変える裏稼業は根強く残っていた。
精霊魔術師が他人の心を読むこと、操ることは掟で禁止されているが、魔術師の裏稼業はなくならなかった。そもそも、裏稼業というものはたいていの専門職につきものだ。僕があきなう稀覯本界隈も無縁ではない。盗品が市場に出回ることも多く、売り手にも買い手にも誘惑の手がのびる。
もっともカリーの店は警備隊がつねに周囲をにらんでいるから、僕自身はその手の連中とほぼ縁がなかった。しかし市場でもれきこえてくる話では、ルイスはなにかと裏の連中を重宝しているという。
パイプの男は辻占い程度の仕事だといった。裏稼業にしては口が軽いが、野良魔術師による小遣い稼ぎのひとつなのだろう。そしてこの仕事の原因がクルトの結婚なのだとしたら――手を回したのはハスケル家か、または結婚相手の方か。
いずれにしてもクルトに近い存在なのはたしかだった。男がクルトへ暗示をかけに行かなかったのは、クルトが精霊魔術を使えると知っていたからだ。魔術師に暗示をかけるのは簡単ではない上、クルトほど魔力が強ければ逆にやられてしまいかねない。一方僕はといえば、あの男が路地で僕の心へ〈侵入〉しようとするまで、ただの人だと思われていたのだろう。
そしてあの男がクルトの家に関わっているとなると――うっかりすれば宮廷の政争にまで発展しかねなかった。
それもこれも僕が抱える事情がややこしいからだ。十年前の事故以来、僕は学院と審判の塔の取り決めで彼らの監視下にあるが、同時にラジアンとセッキを通じて、回路魔術師団と騎士団の庇護を受けている。師団の塔と騎士団はレムニスケート家の影響下にあるから、僕は政治的にはレムニスケート側といっていいだろう。僕自身の意思がどうあれ、十年前の事件を知っている者にはそうみなされているはずだ。
一方クルトのハスケル家が、宮廷でレムニスケートと対立する一派を作っているのはよく知られた話だった。あとは単純な計算になる。間接的にレムニスケートの庇護下にある僕が襲われた。僕を襲った人間がハスケル家に関係がある、そう外部の人間が知ったなら? これがレムニスケートに知られたなら?
僕はもうごめんだ。自分の好奇心が原因で、見知らぬ誰かの書いた魔術書に人生を狂わされるのも、誰かの野心や思惑の指に動かされるのも。忠実でいるのは自分の望みだけで十分だ。
それにクルトも彼自身の野心や望みに忠実であるべきだ。かつて僕がそうだったように、誰にでもその権利がある。
「やはり良くないな。あまり動き回るなよ、ソール」
店の天井は低くはないのに、長身のカルタンとセッキがいるだけで縮尺がおかしい。奥の小さな空間にふたりが並ぶとなおさらだ。
「そんなこともない」
仏頂面で腰に手をあてて見下ろしているカルタンに僕はそう返したが、タイミングよくお茶の缶から手をすべらせてしまった。床で響く騒々しい音にイーディのまるい眼がこちらをふりむく。
「ソールさん、あたしやります」
「いいよ。きみは店をみていてくれ」
アダマール師から連絡がいったのだろう。僕の診察と眼鏡の調整のためにふたりがわざわざ来てくれたのはパイプ男襲撃の翌日だった。帰省していたはずのイーディまであらわれ、僕はありがたく店番を彼女に任せた。
カルタンは僕をしげしげとみつめると「前に渡した薬はまだあるか?」ときく。
「ああ」
「ともかく診察するぞ」
「別にどこも痛くはないよ。だるいだけだ」
今日になっても僕は体に力が入らず、気力もなかった。ずっと以前もこんな状態が長かったと思う。意識せずにため息がもれる。一生この変調とつきあうのだと覚悟していても、すこし前まで体の調子がいいと感じていただけに落差に気が滅入った。
「お茶くらい俺がいれよう」
呑気な口調で口をはさんだセッキにイーディがぴしりという。
「師が? ありえません。被害を拡大させたいんですか?」
「俺だってそのくらいは――」
「師匠にできないなんていってませんよ。被害を拡大させたいのかといっただけです」
「ひどいなあ。せっかくの俺の意欲を……」
「その意欲の結果があの研究室じゃないですか。ソールさんと座っててくださいよ。みなさん上に行ったらいいんじゃないですか。お茶なら持っていきます」
「ああ、そうしてくれ」
カルタンが凸凹師弟を面倒くさそうに見回した。
「セッキ、出来のいい弟子に任せておけよ。いい歳してまだ自分が駄目人間だって自覚がないのか」
「いい歳になる前から自覚はある。自覚はあっても、多少いいところをだな」
「おまえがうちの院でその「いいところ」を見せようとした日にどれだけ俺が苦労したか、もう忘れたらしい」
カルタンがニヤッと笑うと温厚な丸顔になぜか凄みがついてくる。
「――わかったよ」
セッキは不満げだったが、背を縮めるようにして階段を上った。
「端的に魔力切れの症状だ。無理しないで騙し騙し、だな」
カルタンは寝台に横たわった僕を診察していった。
「対症療法しかできないのは残念なんだが――ただ、前からいってるがな、ソール。王都はおまえに向いていない」
「またそれか」
セッキがうろうろと寝室を歩き回っているのを横目に、僕の口からは勝手にため息がもれる。朝から何度目だろう。
「二年前もいっていなかったか? でも僕が王都を離れてどうしろっていうんだ。この店はどうする」
「こんなに消耗するんじゃなあ。体が参ってしまっては元も子もないだろうが。前からいってるが、王都は人が多すぎて魔力が不均衡なんだ。不安定になるのはそのせいだ。もちろんこれまで同様、耐えられなくなって森へ避難するのはかまわんが、森の周辺だって仕事はある。というか、うちで雇いたいくらいだ」
「施療院は嫌だよ」僕は即座に返した。
「それだけは勘弁してくれ」
「気持ちはわかるが……」
「それに僕が王都を離れるなんて、審判の塔が承知するものか。たまに逃げ出すくらいなら見逃されているが、施療院にまで審判の塔が口を出すようになってもいいのか?」
カルタンは顔をしかめた。
「ソール、師団の塔をつうじてレムニスケートに口をきいてもらうのはどうだ。騎士団でもいい。騎士の友人がいるだろう?」
レムニスケートだって? とんでもない。
「ますます嫌だ。レムニスケートにこれ以上関わったら宮廷政治に巻きこまれかねない。カルタン、大丈夫だよ。これまでもなんとかやってきたんだ。少々の我慢は慣れている」
「おまえの立場が面倒なのは承知しているがな……」
カルタンはあきれたように首を振り、ふと床を這っているセッキをみとがめた。この回路魔術師はさっきから奇妙な体勢で寝室中を点検していて、おかげで暗色のローブはほこりまみれだ。
「おい、何してる」
「ん? いや、いろいろ防御が仕掛けてあるなと思ってな。王宮みたいだ」
「昨日ヴェイユがやったんだが」と僕。
「あの理論師が? それは意外だな」セッキは楽しそうに口笛を吹いた。
「うちにスカウトしたい」
カルタンは足でセッキのローブを払った。
「スカウトだと? 相手はごりごりの精霊魔術師だぞ」
「精霊魔術師なら慣れてる」セッキは床にはいつくばったままいった。「そこにいるいけ好かない治療師とかな」
「理論師なんて俺の一千倍はたちが悪いぜ」
「たちが悪いくらいの方が師団の塔には向いて――」
「もう! 師匠、お茶ですよ、立ってください!」
唐突に階段から陽の光のようにイーディの声が響き、とたんセッキは弾けるように起き上がった。
「ソールさんの部屋で床を這うなんてやめてくださいよ。恥ずかしいでしょ!」
カルタンはやれやれといった調子でまた首を振る。
「とにかくソール。環境を変えることを考えた方がいい。主治医として何度もいうからな」
「わかったよ」
僕はイーディの運んでくれたお茶をすすった。生姜とはちみつの味がする。
「わかってる。ありがとう」
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