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【第3部 雲のなかの星】9.きり

 クルトが僕の左足をもちあげ、かかとに口づけする。  くすぐられるような軽い感触がきて僕は最初笑ってしまうが、足首の内側からつま先へと唇を押しあてられ、指の一本一本に舌をはわされるうち、それどころでなくなる。曲げた足を抱えられ、クルトの指が内股を上にたどる。僕の意思と無関係にふるえが走り、クルトが吐息をもらして、かすかに微笑む。  重みが上にのしかかり、クルトが裸の僕をみおろしている。何度もみられているのに、緑色の眸に何もかもさらけ出されていると思うと僕は急に羞恥にかられ、ぎゅっと眼を閉じる。栓を抜く音がきこえ、とろりとした感触が肌におちる。甘くスパイシーな香りとともに香油に濡れた指が奥に入りこみ、僕の内側をほぐしていく。立ちのぼる香りに肌が熱くなり、たまらずもれてしまうあえぎを噛み殺すと、クルトのささやき声がたつ。 「がまんしないで、声を聞かせて」  僕は枕に頭を押しつけ、背をそらしながら顔を横に振ろうとする。子どもがイヤイヤをするようだし、無駄な抵抗なのだが、両手にふれる敷布をつかんでクルトの指と唇がもたらす快感に耐える。クルトは僕の胸を舌でもてあそび、たまらないほどゆっくりした速度で、首筋にかけて点々と噛む。  いつの間にか内側をまさぐっている指の数が増えているのに僕は気づく。快楽の中心にふれられるたびに小さく声が出てしまう。クルトの屹立が腹の上ですべり、もっと欲しいと僕は腰を揺らして、せがむ。 「クルト……」 「ああ、可愛い――ソール……大好き」  彼の声にふるえてしまうのは僕の体だけではない。どこか奥のふかい場所だ。そこが揺さぶられると、自分の根本のところで何かが変えられてしまうような気がする。こうして変わってしまったら最後、僕はもうどうしたらいいのかわからない。クルトの屹立が侵入し、深いところから僕を突き上げる。くりかえし温かい波がやってくる。  まるで現実のように感じていたのは、記憶を夢うつつの中で再現していたのか、それとも自分の願望なのか。  目覚めるとよくわからなかった。しばらくのあいだ僕は余韻のなかにいて、暖かさと幸福感に包まれていた。覚醒して、ひとりきりで寝台にいるのに気づいたとたんにやるせなさが襲ってくる。  僕は馬鹿だ。どこがどう馬鹿なのか考えたくもないくらいの大馬鹿者。  のろのろと寝台を降りて汚れた敷布をひきはがした。左の足首に嵌った輪に視線がいった。セッキが作った防御回路だ。強力な魔力が貯めてあるから守りは無敵だぞ、と説明されたが、昼間はずっとつけていてもあるのかないのかわからないくらい軽い。夜になって靴も靴下も脱ぐと、足首で回って皮膚に触れ、存在を思い出す。  銀色の金属にびっしりと刻まれた回路は美しい紋様のようで、宝飾品も同様だ。強力な魔力が貯めてあるといっても僕にはさっぱり感じられなかった。魔力のこめられた道具にはときおり僕の体調を崩すものがあったが、この輪をつけてもそんなことは起きない。たったいままで見ていたのが記憶にせよ夢にせよ、これのせいにちがいないと僕は思った。魔力を溜めるとき、クルトに協力してもらったとセッキが話したからだ。  クルトの声は本物のようで、うれしいのに寂しかった。目が覚めなければいいのにという言葉が頭をよぎり、次の瞬間また自分のことを馬鹿だと思った。 「ソールさん、洗濯頼んできましたよ。それから後で何か持っていくって、金物屋さんが」 「ありがとうイーディ。カールから伝言はなかったか?」 「伝言じゃないんですが、ルイスさん――だったかな、ソールさんのことを聞かれたとかいってました。直接行けばいいのにおかしな人だって」 「手形を気にしているんだろう。期限はまだ先なのに」  不審そうな顔をするイーディに僕は適当に返事をした。もちろんルイスのことだ。手形については当然気にしているだろうが、情報収集に余念がないのは彼らしい。  妙なパイプを振る男の襲撃から七日たつ。昼間も夜も店に異常はなく、来客で扉があくたびに緊張することもなくなったが、外出するのは怖かった。買い物や雑用はイーディや商店街の知り合いに頼んだが、動かないと体力も落ちるとわかっている。  一生こうしてびくびくと生きていくのはごめんだと僕の一部はいう。だがパイプ男が僕を『閉ざされた本』と呼んだように、僕の中にあの禁書が封印されているにせよ、ヴェイユがいうように〈本〉の存在するどこかへの通路となっているにせよ、このことがろくでもない筋に知られれば、あの男以外にもトラブルが湧きかねない。  王都は人と情報が行きかう場所だ。暗い情報ほど売り買いされ、値段をあげていく。  いっそ僕が王都にいなければいいのだ。魔力による知覚の拡大で僕をみつけることはできないから、森のように魔力が均衡した場所にいる方が隠れるのは楽だし、商店街のように、噂がすぐに広がる区画に住まなければいい。僕の体調にもその方がいい。カルタンは昔から王都それ自体が僕を消耗させるのだと主張する。僕がときどき施療院の森へ逃げ出すのもまさにそのせいなのだと。  とはいえ彼にもくりかえし話しているように、学院と審判の塔の監視対象である僕に、王都を離れるなんて日が到来する可能性はかぎりなく低い。  加えて、王都を出るといっても森の施療院に住むのだけはいやだった。森は落ちつくのに施療院は嫌だというのはカルタンに申し訳ないとも思うが、十年前の事件に近すぎる。それに僕は田舎の出身で、田舎に心底うんざりして王都にやってきたのだ。実家の反対をふりきって学院へ進学するのは簡単ではなかった。王都に到着したときの嬉しさはいまもはっきりと僕の中にある。  それに王都を離れてしまったら最後、クルトに会うこともできなくなってしまうだろう。彼が結婚しようがなんだろうがかまわない。たまに、ごくたまにでいい。この店へ来てくれれば――いま彼が僕の近くにいるのはいろいろな意味で危険だとしても、いずれそのうち、ほとぼりが冷めたら……  いや、こんなことを願うのもおかしいと僕は首をふる。そもそもクルトがしばらく僕に愛想をつかすくらいでなければ危険だと思って、僕は彼にああいったはずだ―― (あなたは嫌じゃないのか? 俺があなた以外の誰かと――誰かと一緒にいても……俺は嫌だ。あなたがここでひとりで――俺が知らないうちに誰かと笑っていたりしたら……) (僕は大丈夫だ。クルト。きみだってそうだよ)  大丈夫なわけはなかった。クルトをめぐる僕の感情も思考も矛盾して、どうしようもなかった。クルトは何を心配することもない。僕はとっくの昔に彼のものだ。でも彼が他の誰かを抱きしめていれば心穏やかではいられないだろう。そこにたいしてクルトの気持ちがなかったとしても、彼は魅力的で、男でも女でも出会う人を魅了する。だいいち彼はまだ若い。学院を出て王宮へ入れば自分の世界も考えも変わっていくに違いない。卒業するとはそういうことだ。それでも時々ここに……この店に彼が来てくれれば……  そしてクルトは店に来なかった。完全に矛盾しているが、僕は扉がひらくたびに安心し、同時に落胆していた。僕が扉をみてため息をつくたび、イーディが何かいいたげな顔をしたが、黙っていた。  ともあれ僕は王都を離れたくないし、離れられないし、離れないだろう。  この時点でたしかに僕はそう思っていた。つまらないきっかけでひとは簡単に考えを変えるのに、自分だけはそうならないと、信じるべきではなかった。  一方でクルト以外の知り合いは何人も店にやってくる。僕の様子を確認する連絡網でもあるのだろうか。カルタンこそあらわれなかったが、セッキはその後も新しい回路の様子を見に来たし、ラジアンは毎朝やってくるし、かと思うと今日はレナードがあらわれた。  見舞いだと大陸のお茶を机に置いて「襲撃があったと聞きましたが、大丈夫ですか?」という。 「いったいどこから聞かれたんです?」  僕は眉をあげたが、レナードはあっけらかんとしていた。 「騎士団から報告がきたとレムニスケートの息子から聞いたんですよ」  僕はひやりとする。「あなたはレムニスケート家と懇意なのですか?」 「懇意といえばそうですね。彼らは国防の中心ですから。それがどうかしましたか?」  僕は肩をすくめた。 「ハスケル家からご紹介いただいたので、てっきりそれはないのかと思いこんでいました」 「私は中立なのです。この国にとって益になることだけを考えたいので。大陸が長かったせいでしょう」  黙りこんだ僕にレナードは含みの感じられない笑顔をみせる。 「実はハスケル家の性急な部分とは意見が合いません。しかしずっと表面だけ凪いでいる海はありません。風はいつか嵐を呼んできますが、雲は目に見える。相手の望みがわかる方が交渉もできるものです。むしろ怖いのは底に秘められた力が爆発するようなときですよ」  僕はまた肩をすくめた。 「つまらないことをおたずねしました。ただの庶民で、宮廷には疎いものですから。レナードは了見が広いですね。これも見聞がひろいから?」  レナードは嬉しそうに笑った。 「今、褒めてくださいましたよね? あなたに褒められると嬉しい。それはそうと、大陸は小さな国が乱立していますから、政争はこの国より直接的で醜いのです。私はその渦中に巻きこまれたこともあるので、故郷ではうまくやろうと思っているだけですよ」 「それはただの見聞ではありませんね。本物の経験とただの知識の差だ」  別の時なら僕はもっと楽しい返事ができただろう。レナードは軽く首をかしげたが、確信をこめた声でいう。 「経験に嘘や本当なんてありませんよ。ソールも少し王都を離れて旅をすればいいだけだ」  レナードの口から聞くと「旅」という言葉がずいぶん魅力的に響くのは困ったことだった。 「いや、僕は……王都から簡単に出れないので」 「カリーの店のため?」 「いえ――」  おかしなことだ。僕は急にこの浅黒い長身の男に、僕が置かれている状況を打ち明けたくなった。彼が飄々として世俗のことがらと無関係にみえるからだろうか。実際はその真逆に違いないのに。  わかっていても衝動にはあらがいがたく、僕は十年前の事件について、自分が王都を離れられない事情をかいつまんで説明した。クルトについては触れなかったし、今回のパイプ男の話もしなかった。  レナードはさしたる感情もみせずに僕の話を聞き、ついでなんでもないことのようにいった。 「なるほど、誰にでも事情はある。でも宮廷でいう私の外交手腕とは、まさにこんなときに使えるものです。ソールが王都を離れたいときは教えてください。きっと助けになれます」  僕はあっけにとられてレナードを見返した。彼はふっと微笑み、手を差し出した。 「約束しますよ」  翌日、今度はヴェイユがやってきた。イーディが帰って僕は店を閉めようとしていたところだった。ヴェイユは精霊魔術師のローブを来ておらず、まるでそのあたりの街の者のような身ごなしだったが、ランプの明かりに影が落ちたとき、すぐにわかった。 「ローテーションでも組んでいるのか?」と思わず僕はいった。 「ローテーション?」 「僕を見張るローテーションだ。ラジアンは毎日来るし、セッキも来るし、昨日はレナード、そしてきみだ」 「そんなものはない」 「どうかな」 「ただの偶然だろう」  ヴェイユは店をぐるりと歩き回った。建物の防御回路を仕掛けていったというから(これも僕にはさっぱり感じられず、どこにあるのかもわからないが)確認しているのかもしれない。 「ここを襲った男だが、だいたい特定できた」書棚の向こうからぼそりと声が聞こえた。 「もう?」 「クルトが見ていたからな。フックスという魔術師崩れで、掟破りで十五年前に追放されてからあちこち点々としているらしい」 「どうするんだ?」 「騎士団がすでに手配した。ただ彼の掟破りは禁書に関するものだった。だから学院も動く」 「ヴェイユ、きみは――」  僕は問いかけようとして、棚の影からあらわれた彼の眼つきをみつめ、なんとなく言葉を失くして黙った。 「なんだ?」とヴェイユがきく。 「十年は長いな」と僕はつぶやいた。「クルトに会ったか?」  ヴェイユはうなずいて机の前に来ると、椅子をひいて座る。彼とこんなふうに話すのは本当に久しぶりだった。ふいに、ずっとひっかかっていたことを聞きたいと思った。 「なあ、ヴェイユ。どうしてクルトを僕の店に寄こした?」  ヴェイユは顔をしかめた。「なぜそれを聞く」 「気になっていたんだ」 「彼くらい魔力があればミュラーを手に入れられると思ったからだ。ソールの手元にずっとあれがあるのは良い事と思えなかった」  僕は肘をついてヴェイユを見上げる。 「狙いはたしかだったよ。たしかにあの本はクルトを選んだ」 「そうだな」ヴェイユは視線をそらした。「そして本の持ち主もきみに選ばれたわけだ」 「何を――」  僕は一瞬意味がわからず、問い返そうとして思いとどまった。 「ヴェイユ。きみはおかしいよ。僕が選んだわけじゃない」 「あの若造に選ぶことができたとでも?」 「そんなのは……」僕らはいったい何を話しているのだろう。「そんなのは、選ぶようなことじゃない」  僕は立ち上がる。 「お茶を飲むか? 昨日レナードが変わったのを持ってきてくれた」 「レナード・ニールスが? ああ、ご馳走になろう」  奥で湯を沸かしているとヴェイユがするりと横に立った。猫のように静かだった。彼は以前からこんな風だっただろうか。それとも僕が知らなかっただけなのか。 「ソール、十年前のあのとき……」  反射的に僕は緊張する。「なんだ?」 「どうして彼を選んだんだ? なぜ……私も誘わなかった?」  僕は思わずヴェイユの顔をみた。 「僕は――僕らは選んだわけじゃない。きみに何度も話そうとしたんだ。ただあの頃……きみは忙しそうだった。きみは僕らとちがって……いろいろあったし。その……社交とか」  湯を注いだポットの中で茶葉が勢いよく浮き上がり、香りが立つ。その場でカップについで渡すと、ヴェイユは立ったまま湯気を吹く。 「社交か。そうだな。だがクルト・ハスケルは私とはちがうぞ」  僕はため息をついた。「謎かけはよしてくれ。僕はもう、昔のようには話せない」 「謎かけなどしていない」ヴェイユは一口飲んで顔をしかめた。「変な味だな」 「風変わりだろう」 「ものはいいようだ」  やはり謎かけのようだった。ヴェイユはそれ以上あまり喋らず、お茶を半分残して店を出た。  この知人来店ラッシュは、ヴェイユが訪れた翌日、クルトの友人のアレクサンドル・ハンターが打ち止めにした。以前一度店に来て、僕が森に逃げ出すきっかけとなった学生だ。一度会っただけで知人と呼んでよいのかは怪しいが、二度以上来店した客なら僕は常連扱いすることにしているから、似たようなものだ。  以前彼が店に来た時はイーディがいたが、今回は僕ひとりだった。向こうもひとりで、しかも僕が店を開けるのを待っていたらしく、朝、扉をひらくと目の前にいたのだ。 「あ…」僕の声は間が抜けていたと思う。「きみはクルトの――」 「カリーの店主」  学生はためらいがちに礼をした。前よりていねいだなと僕はどうでもいいことを思った。こんなに毎日誰かしらやってくれば、フックスとかいうパイプ男がもしまた襲来したところでやりにくいだろうが、どうも調子が狂う。 「話があってきた」若者は以前と同様居心地悪そうに立ち、ポケットに手をつっこんでいる。「入ってもいいだろうか」 「ああ。どうぞ」  僕は以前と同じように彼を奥へ通した。「お茶でも?」 「その……いただけるなら」  昨日ヴェイユが「変な味だ」と評した茶葉をポットに入れる。アレクは伸びやかな動きをする若者で、扉をくぐるときの身ごなしや歩き方にラジアンを連想した。まっすぐな背中は入隊したばかりの警備隊員や若い騎士を連想させ、いかにも乗馬が似合いそうだ。しかし奥の小さな空間では店の前にいるときよりもっと居心地が悪そうだった。 「話って?」  お茶のカップを学生の前に置くと、彼はためらいがちに手を伸ばし、口をつけて妙な顔をした。 「もらいものでね。風変わりだろう」  レナードのお土産には当たり外れがあるらしい。アレクは一口飲んでカップを置いた。僕と目をあわせ「クルトのことだ」という。 「彼に何かあったのか?」 「ああ」僕の顔をみてあわてたように手を振る。「いや、何かあったというわけじゃない。そうじゃないんだが……」 「とにかく、話したまえ」  アレクサンドル・ハンターが語るハスケル家当主の話は興味深かった。クルトは彼の母やきょうだいについては僕によく話したが、父親の話はあまりしなかった。僕は僕で自分の家族のことを話さなかったからクルトのそんなところは気にならなかった。ただ、クルトの野心、つまり王宮の政策顧問になるという夢に彼の父が絡んでいるのはうっすらと察していた。アレクはクルトが父親に抱いていた敵愾心について話し――クルトはごく最近までそんな自分の気持ちを父親に悟らせなかったという――アレクからみたクルトの父、ハスケル家の当主について語った。  正直にいうと、僕は途中で彼の話に興味をなくしていた。クルトの父が息子によく似て、目標に向かってまっすぐ進む人物なのはよく理解できた。目標に到達するためならとる手段は選ばない、そんな人物だ。アレクにとっては、自領経営に専念しているアレク自身の父親より、宮廷で野心をもってエネルギッシュに活動し、影響力をもつクルトの父の方が尊敬の対象にふさわしいようだ。隣の芝生は青く見える。 「それで……」  アレクはなおも話を継ごうとする。彼のカップのお茶はすっかり冷めてしまった。たしかにこの味は風変わりすぎる。話に飽きた僕は面倒になって手を振り、アレクと目をあわせた。 「それで今日は何をいいに来たんだ?」  するとアレクは座りなおして僕に眼を据えた。  彼の眸は鳶色だった。中央で金色の点が舞っている。瞳孔がかすかに大きくなり、金色が強くなったようだ。  彼がやろうとしていることを察して、僕は片手をあげた。 「やめたまえ。無駄だ」  いつものことだが魔力が感じられないというのは不便だ。僕に精霊魔術を行使しようとした者は防壁に跳ね返される。だが僕自身はどんな仕組みでそうなっているのか、さっぱりわからない。  ただ、アレクが僕から苦しそうに顔を背け、ついで下を向き、固まったのがわかるだけだ。 「あんたは――」 「僕には魔力が通じないんだ。〈読めない〉し〈視えない〉し〈侵入〉もできない」  この言葉を喋っているのは何度目だろう。 「僕の心を操ろうとするのは君自身の意思か? それとも誰かに頼まれたのか?」 「もちろん頼まれたさ!」アレクは突然叫んだ。「彼の父にな。でも俺は俺なりの考えで来たんだ」  僕はまじまじとアレクをみつめる。「どんな?」 「あんたがここにいると、クルトは破滅しかねない」 「なぜ?」  アレクは大きく息を吐いた。 「俺が心配しているのは、あんたのせいであいつは学院に入ってからの数年を無駄にして、このうえ掟まで破りかねないということだ。進路や結婚のためにハスケル家の当主と嫡子が争うなんてスキャンダルが彼に傷を残さないわけがないだろう。あいつと別れてくれ。頼むよ。でなければどこかへ行ってくれ。あいつが探せないようなところへ……」 「クルトが自分の意思でやることが、なぜきみにとって問題なんだ?」  アレクは歯を食いしばるようにして僕をみた。  貴族の子弟とはいえ、彼は誠実そうだし、好男子だった。たぶん友人思いでもあるだろう。自分の家の事情だってもちろんあるはずだ。ひとの動機はひとつではない。それに彼は僕より昔からクルトを知っている。僕が知らない彼を。  僕は無意識にカップを取って飲み干した。冷めたお茶は意外にも落ちついた風味で悪くなかった。レナードの今度の土産は供し方が問題だったらしい。 「精霊魔術を使える人間は、ひとの心を、簡単に形を変える粘土のようなものと考えがちだ」  僕はいった。アレクの眉がぴくりと動き、何かいいかける。 「何――」 「魔力が強い者にはつねにそんな危険がある。他人を自分に都合よく操りながら、自分がそうしていることに気づかないこともある。世界の方が自分の望むように姿を変えてくれるのだと信じている。これが極端になると、他者と自分の境界が混ざり、区別がつかなくなる闇におちる。教師は口をすっぱくして教えてくれたのに、当時の僕らは気づけなかった。でもいいんだ。だんだんわかってくる」  アレクは眼を細めて僕をにらむ。 「何がいいたいんだ?」 「僕が何をするかは僕が決めるということだ。僕がクルトから離れたとしても、それはきみが僕にそうさせたいと思ったからじゃない。僕自身がそう決めたからだ」  アレクの眉がしかめられ、困惑したように下がった。僕は立ち上がる。 「話はわかったから帰りたまえ。そのお茶、冷めると悪くないようだ」  アレクはガタンと椅子を揺らして立った。歩き出そうとしてテーブルを眺める。カップをとって一気に飲み干した。そして僕に頭を下げると、黙って出て行った。

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