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【第3部 雲のなかの星】10.まだら

 夏の休暇もなかばをすぎ、学院には人影が戻りつつある。昼間急な雨が降り、暑熱にしおれていた庭園の植物がよみがえったようにぴんと張っている。夕暮れ時になっても濡れた草の匂いがむっと漂う中庭から建物へ一歩入ると、みえないカーテンをくぐったように空気が乾いたものに変わる。向かい側の回廊を白いローブの影が通り抜ける。魔力の光輝はあきらかで、いちいち〈視る〉必要もないほどだ。ヴェイユだった。  クルトは教師の姿を追いかけ、回廊を曲がった。クルトが後ろにいることをヴェイユは知っているにちがいないのに、教師の歩調は速かった。といって姿を隠したいわけでもないらしい。走るのは癪だった。クルトの頭には、精霊魔術師は優雅に動くものだという思いこみ――または理想――がある。子供のころ父について王宮へ行ったとき、最初に会った顧問団の精霊魔術師がそうだった。汗をかいたり、急いだり、声を荒らげたりしなかった。  今の自分はそんな、夢見ていた像からほど遠いと思う。とはいえそれで何が困るというのか。おまけに学院へ入ってわかったのは、実際の精霊魔術師はそれほど優雅でもないということだった。アダマール師のように穏やかなひともいるが、短気で喧嘩っぱやい教師もそれなりにいる。先を歩くヴェイユのように気難しく謎めいた教師もいる。クルトは回廊の先の階段をのぼる。廊下の両側にずらりと教師たちの部屋が並んでいる。ずっと先でヴェイユが研究室の扉を閉めた。  まっすぐ伸びる廊下を見通したとき、クルトの中に唐突に、奇妙な懐かしさがわきあがった。廊下は透かし彫りで飾られた窓枠ごしに夕方の光がおち、寄木の床につる草の模様が影をおとして、美しい。  俺はもうすぐここからいなくなる。  急にそんな思いがつよく兆した。  扉をあけると、教師はまるでクルトを待っていたかのようにすぐ前にいた。手を振って扉を閉めるよう指示し、自分は奥へ歩きながらいう。 「どれだけつきまとえば気が済むんだ、ハスケル」 「俺は独自に調べようと思っているだけです」クルトは素知らぬ顔でうそぶいた。 「そうしたらたまたま師に出会うんだ。図書室のときと同じですよ」  実際はこの数日、クルトはあからさまにヴェイユをつけまわしていた。最初は学院から開始し、城下へ出て彼がローブを脱ぎ、気配を消してからもつかず離れずにいようとした。一日目はヴェイユが魔力を隠してしまうとすぐに見失ってしまったが、二日目には〈視る〉コツがつかめたのは、ソールにもらった魔術書の書きこみのおかげだ。 「で、何がわかった?」ヴェイユは腕を組み、皮肉っぽくいう。「きみは優秀なんだろう」 「例の男がソールを狙う理由、事故の原因となった〈本〉のせいですね。あの本は消えてしまったわけじゃないんだ。ソールの中に閉じこめられているか、さもなければ……俺がミュラーの本の所有者となっているようにソールと絆を繋いでいて、どこかにある」  ふん、とヴェイユは鼻を鳴らした。 「私の仮説は後者だ。これで満足したか?」 「どうするんです?」  ヴェイユは完全に平静だった。 「私には学生を巻きこまない義務がある」 「ヴェイユ師、俺はまだ追求しますよ」 「教師を脅迫するのか? 思ったより優秀ではないな」  ヴェイユはクルトを凝視する。 「きみが自分の将来を棒に振るようなことになったら、悲しむのはソールだ」  虚をつかれてクルトは黙った。 「帰りなさい」とヴェイユはいった。ふと思い出したように「推薦人は決まったのか?」と付け加える。「必要なら私にも可能だが」  クルトは一瞬耳を疑った。王宮はふつう魔術師を推薦人に選ばない。だが学院の教師には例外がいて、名家の出身であるヴェイユには可能だ。しかし彼が学生の推薦人を引き受けたなど、これまで聞いたことがない。 「ヴェイユ師?」 「ソールからきみを守るよう頼まれている。私としてはきみが愚か者ではないと信じたいが」  そういわれるとうなずくしかなかった。加えて推薦人をヴェイユが引き受けてくれるなら、父を引き下がらせる口実にもなる。 「ありがとうございます。感謝します」  ヴェイユはクルトの礼を手をあげて制し、あごをゆるく扉へむけた。廊下に出た瞬間、頭に教師の声だけが響く。 『例の男は図書室に誘いこむ。近寄らないように』  明かりがクルトの行く先を次々に照らした。うすぐらい教室が歩みにあわせて暖かい色に染まり、窓格子や床の意匠がふわりと浮かんでは暗がりにおちる。城下のざわめきから隔離された建物は時間と無縁のように感じられる。いつも視界が明るいこと、細部まで見通せることにクルトは慣れていた。欲しいものを見定めて、探し、手に入れることにも。  今はどうだろう。  ハスケルの屋敷へ到着するころにはもう夜だった。庭園は夏の花のさかりだ。ほとんどは朝咲いて夕方にはしおれる。すぐ近くで猫の鳴き声がきこえ、縞の長い尻尾がクルトの足元にまとわりついた。 「久しぶりだな」クルトは微笑むとかがんで猫を抱き上げる。「元気そうだ」  クルトが学院に入る年に生まれた猫で、すっかり大人になっている。すべすべの毛並みを撫でると喉を鳴らし、するりとクルトの腕を抜けて肩にのぼった。子猫のときからそうなのだ。クルトはそのまま正面玄関を通り、まっすぐ父の書斎へ行った。途中であわてた顔の執事が飛び出してくる。 「クルト様……」  答えは知っていたが、礼儀としてクルトはたずねた。「在宅か?」 「はい。ただ来客中なので人払いをと――」 「かまうな」  クルトは扉に軽く手をあてた。父のほかにもうひとり中にいる。それなりに強力な魔力を持つ者だ。魔術師だろう。なぜ父が人払いをして魔術師と面会するのか。おまけに結界が張られている。ヴェイユが張ったのと似ているが、はるかに雑な結界だった。気づかれないようのぞきこむのはたやすい。  掟にひっかかるぞと、頭の片隅にアレクの声色をした小言が聞こえる。クルトは無視した。知覚を広げて魔力の網目にすべりこむ。肩に乗っている猫のように、ただし重さは中の魔術師に感じられないように、すきまから細い糸をたらすように。  父は書斎の机に座っている。机の前で椅子に腰をおろしている男に苛立ちと不満が向けられているが、男は平然と受け流している。 「報酬はいただけると聞いております」 「しかし相手はまだ王都にいる。ちょっとした小細工でうまくいくという話ではなかったかね。これではまだ足りない」 「あなたの情報が甘かったようなのです。さらに私が動くなら……」  父と相対している男の顔や体形がろうそくの炎のようにちらちら揺れる。父にむけてめくらましがかけられているとクルトは気づいた。知覚を集中させて〈視る〉と焦点が定まり、部屋の家具がすべて透明になった。  突然理解した。  猫が肩から飛び降りた。クルトは扉の把手をまわし、まわしながら錠前に刻まれた回路を魔力で焼き切った。横で執事がおろおろと声をあげるのを手を伸ばして制し、バタンと音を立てて扉をあける。父が机の前で立ち上がり、相手が誰ともわからないまま声をあげる。「入れるなといっただろう!」  父の前にいる男がクルトに視線を向け、立ち上がった。 「父上、その男は手配犯だ」 「クルトか。何をいってる」 「騎士団から重罪で追われている。そんなのと何をやってるんだ?」 「いきなりなんだか知らんが、無作法すぎるぞ、クルト」  父は憤懣やるかたない様子だ。その前に立つ男はちらちらと瞬くようにして、いま、まさに姿を変えていた。クルトはハスケル家の当主に細く焦点をあて、父がそうだと信じている男の姿を〈視た〉。  ラブレスの使者の印をつけた実直そうな、平凡な見てくれだ。それがなめらかに大柄で騎士のような体格の見かけに変わるのに、父親は異常に気づいていない。ただ、くみし易しと信じていた相手がなぜか急に、立っているだけで威圧してくることに驚いている。  しかしどんな姿をしていても魔力の形は鮮明だった。彼はクルトがソールの店で見た男で、そしてヴェイユがクルトに見せた男だ。 「噂の息子さんですね。なるほどこれは将来性がある」と男はいう。  その手がふところへ入り、銀色に光る何かを引き出す。 「クルト、下がりなさい。あることないこといいだすんじゃない。彼にはラブレス家からの紹介状もある。第一おまえの問題で力を貸してもらうことに――」  クルトは最後まで聞かなかった。  「父上、下がって!」叫びながら男の前へ走り出る。  男の手から銀色の力が湧く。父親を突き飛ばすようにしてクルトは男の前に立ちふさがり、手のひらでその銀色をうけとめた。するどい痛みが手首から体幹をつらぬく。まるで刃を素手で受けとめるようだ。息を抜けば自分の魔力がこの銀色に吸いこまれてしまうと本能的に悟った。視界は銀色と虹色の被膜に覆われ、色彩の多さに頭の中がぐちゃぐちゃにかき回される。唐突に、クルトに侵入するこの力は何かを探しているとわかった。探しているものは――  ふとクルトは肩の力を抜いた。銀色の力を手のひらでおさえつけ、ゆっくりと押し返していく。相対している男がたじろいだのがわかった。クルトは自分の内側へ、魔力の根源へ降りていく。学院で学んだ事柄のうち、もっとも理解と習得がむずかしい技術だった。クルトの魔力が拠る場所は小さくて硬い宝石のような像をむすぶが、無数の輝く断片となってクルトの全身をめぐっている。ひとが操る魔力の根源はひとつではないのだ。それはクルトという存在の内部からにじみ出て存在そのものを縁どり、断片同士が強力につながりながらもゆるゆると形をかえ、世界の変容に寄り添っていく。  これが生命だ。  そのつながりをクルトは手に――思念の手にとり、ゆるく集めた。自分の魔力をしっかり確保したまま男の中へ入ろうとする。銀色の力を押し返して、いまやクルトの手は男の胸にぴったりとあてられていた。ふと、これからどうすればいいのかという思いが頭をかすめた。騎士団に引き渡す? 資格のある魔術師を呼ぶ?  男はクルトの迷いを逃さなかった。あっと思った時はもう遅く、衝撃がクルトをはじきとばし、机の向こう側へ投げとばす。ぼやけた視界のなか、男が肩で息をつき、何度か腕を曲げ伸ばし、そして部屋を出ていく。 『ヴェイユ! 師よ!』  クルトは叫んだ。 『あいつが逃げる!』  驚いたことに即座に応えがきた。 『きみのしるしは見えた』ヴェイユの〈声〉だ。『図書室へ誘導する』  クルトは起き上がった。そのまま父の机に腰をおろす。椅子や高価な置物のいくつかがなぎ倒されていた。 「クルト様……?」怯えた顔の執事が部屋をのぞきこむ。 「父上は?」  父は床に座りこんでいた。肌が土気色だ。クルトは机からすべりおり、ひざまずいて彼の手をとった。あの男は父に何をしようとしたのだろうか。魔力を奪い、意志をのっとろうとでも?  父の手は思ったよりも小さかった。手首から魔力を流すと顔に生気が戻ってくる。前に父の手を握ったのがいつだったか、思い出せなかった。 「――クルト」低い声がいう。 「もういい」 「大丈夫?」  クルトの手に感じられる父の魔力はまだ弱かった。そのせいか声もいつもの張りを取り戻していない。 「私はへまをしたか? あの男は私を――」 「いや、大丈夫だ」  クルトは父の背中をさすり、そうしながら執事を呼びつけた。 「警備隊に連絡してくれ。手配中の魔術師に襲われたというんだ。ああ、ラジアンという隊長に通すようにもいえ。家令はどこだ? ほかに従僕をふたりここへよこして、父上を寝室へ」 「はいっ。クルト様」 「父上に暖かい飲み物を。それから、警備隊が来たら逃げた男のことを正直に話すように」 「クルト様は?」 「俺は……」  クルトは父を机にもたれさせた。触れた手のひらに安堵と不安を感じたが、ひどくぼんやりしている。 「俺はヴェイユ師に呼ばれている」  魔力の渦がふわりと体を包みこむ。  自分がいま燠火のように光っているのをクルトは自覚している。通報を受けて駆けつけた警備隊の馬がいななき、なだめようとした騎士が眼をみはる。  ラジアンの姿は見えない。あとの始末は家の者にまかせ、クルトは学院へ急いだ。  ヴェイユにはほんの数時間前、学院の図書室へ近寄るなと告げられた。しかもクルトは正確に、ヴェイユが図書室の近寄るなと釘を刺したのかも理解している。  それでもクルトは確信があった。ヴェイユは自分を必要としているはずだ。クルトの思念はまだ自分の魔力の根源を、束ねたロープのようにつかまえていた。これまで経験したことがない鮮やかな感触で皮膚が満たされ、雨に洗われた木の葉のようにくっきりと魔力の脈が〈視え〉た。水が湧くように地表を盛り上がり、空間と空間をつないでいる。透きとおった青のはざまで虹色が輝く。  ハスケルの屋敷から逃げ出した男の軌跡は紫がかった藍色をして学院の敷地を通っている。クルトには太く空間を漂うなめらかな蜜色の魔力がわかった。男の軌跡はこれを辿っているのだ。ヴェイユが「誘いこむ」といったのをクルトは思い起こす。 『クルト!』  その時ヴェイユが強い〈声〉で呼んだ。  しかしそれは、ナイフで切り落とされたようにかき消えた。  クルトは駆け出した。図書室はすでに閉室し、入口は暗い。扉をあけるのはたやすく、施錠の回路に意思を向けるだけでひらく。とがめる声はない。学生に隠された奥の禁書の部屋へ向かうが、今のクルトの視界にはすべてがあらわになり、何ひとつ隠れていなかった。  すべてが見えていた。書架の列の最奥で、竜巻のようにまっすぐ魔力の渦が立ち上がり、ふたりの人間が押しあっている。  力は奇妙に拮抗して、クルトは変だと思った。ヴェイユの方があの男より強力な魔力をもっているというのに。ふと周囲の壁に注意がいく。書物で埋められた書架を氷のようなぶあつい層が覆っている。あたりは金属めいた匂いがたちこめ、パチパチと青紫の奇妙な火花が飛ぶなかで、壁は明白に守られていた。その守護を維持する魔力の持ち主はあきらかだった。  ヴェイユだ。  クルトは考えることもせず反応した。ほとんど本能的なものだった。ふかく息を吸い、思念の手でみずからの力の根源をつなぐロープをゆるくひろげ、そして――  歌った。  歌はクルトの体の底から生まれてきたようだった。〈声〉と共に自分が大きくひきのばされ、部屋の周囲をくるりとめぐるように感じたが、他の存在にどうみえていたのか。書物を覆うヴェイユの守護をクルトの歌がつつみこみ、守護を交代すると同時に教師の力を解放する。  部屋の中央で押しあっていた魔力の渦が変化した。青白い光が一直線の柱のようにのび、すべての色を塗りつぶしていく。  悲鳴がきこえたような気がする。  歌っているクルトにはよくわからなかった。自分が心で歌う〈声〉を自分で聴いたのは初めてで、そもそもどうやってこんな守護の歌をうたえるのかもよくわからないままだった。それどころか、俺は音痴ではないとやっと自分で確認できたわけだ、などど頭の片隅で考えていた。鼻唄と同じだ。  光がもっと強くなる。 『残念だったな。ここの書物は一冊たりとも渡さない』  ヴェイユが語っている。クルトはまぶしさに眼を閉じるが、周囲の魔力の気配が急速に小さく、狭くなっていくのがわかる。拮抗していた力の一方が風船の空気が抜けるようにしぼんでいるのだ。  最後はあっけなかった。一方の力が押しつぶされ、収縮し、小石のように、物理的な物体のように、ぽたりと落ちたのが感じられた。部屋の中央で男がかくんと膝をつく。  部屋は唐突に真っ暗になった。  クルトもいつのまにか歌うのをやめていた。いつやめたのか、覚えていなかった。 『終わりだ』とヴェイユがいう。  彼が手を振ると薄明かりが室内にうかび、三人をぼんやり照らし出す。ヴェイユは白いローブ姿だった。床にうずくまる男を見下ろし、ひざまずく。男が体を折り曲げて激しく咳きこんでいるのもかまわず、ローブの下から取り出した輪を首に嵌めた。 『おまえを騎士団と審判の塔に引き渡す』と厳格な声がいう。  ところが次にクルトの耳に入ったのは小さな笑い声だった。  男が笑っているのだ。可笑しくてたまらないといいたげにしばらく笑って、それがおさまるとひとりごとのようにつぶやく。 「ご苦労だよな。ああ、俺は失敗した。だがあの……あんたらの閉ざされた〈本〉――」  男はまた激しく咳きこんだ。 「なんだ」  ヴェイユの声は冷たく、容赦がない。  一方男の方はといえば、ヴェイユとのせめぎあいで魔力を使い果たしてへたばっているのに、つぎの言葉はむしろ楽しげに部屋に響いた。 「あの……〈本〉の持ち主……書店の……彼は――王都を出たぞ」 「――なんだと?」  クルトとヴェイユの声が重なった。  男はふたりを見上げてさらに笑った。ささやくような小さな声はやがて哄笑になり、壁を覆い隠す書物の背表紙にぶちあたり、吸いこまれる。 「もう終わった契約だが、俺は少なくともひとつは達成したわけだ。あんたの親父の望みをな」笑いながら男はいう。 「あんたらどうやって探すんだ? 魔力で探知できない、あの――〈本〉を」

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