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【第3部 雲のなかの星】11.もつれ

 あとで思い返すと、僕はかなり頭に来ていたのだった。  フックスというあの男に襲われてからの一連の出来事は、僕にいくつかの不自由をあらためて認識させることになった。魔力欠如、虚弱なこと、慢性的に金策に悩むといったおなじみの事柄もだが、近所に出かけるのさえびくついてしまう事態になると、王都は巨大な檻のように感じられた。セッキは足に嵌めた輪の防御があれば問題ないというが、僕は怖かった。  好きなはずの書店の仕事すらなんとなくやる気がなくなっていた。それに、小さな店をやっていくにはいろいろと外出も必要で、誰かに頼んでばかりというわけにはいかない。  しかしアレクが店を訪れたあとはこれらのもつれた事柄が一周回ったとでもいうのか、急に僕はやけくそになった。どうなってもかまうもんかという気分で好きに出歩くことにしたのだ。といっても遠出するわけではなく、見舞いをくれた商店街のみんなにあいさつ回りをする程度だったが―― 「ソール、大変だったらしいな」 「ルイス」  大通りで出くわした同業者は見舞いの言葉にそぐわない顔つきでにやにやしていた。抜け目なさそうで小狡い表情はいつも通りだ。 「あんたについておもしろい話を小耳にはさんだが」 「僕におもしろい話なんかあるわけないだろう」  僕はそう答え、はずみでずれた眼鏡をかけなおした。しかしルイスは僕の返事などどうでもよかったにちがいない。 「裏の人間に襲われるなんてさぞかしすごいブツを狙ってるようだな。品行方正なカリーの店主に何があったんだ」 「何もない。ただの物盗りだ。――離せ」  ぎょっとして僕の声は大きくなった。ルイスが僕の肘をつかんで引いたのだ。つい最近路地へ引きずりこまれた記憶が脳裏を走りぬける。 「離せといっただろう!」 「ちょっと引いただけじゃないか。そんなに騒ぐなよ、お嬢さん」  侮蔑の響きに僕は気色ばみ、ルイスの手を払おうとしたが、ルイスはぐいっと僕を脇道に引っ張りこんだ。 「何がお嬢さんだ」 「カリーの店は警備隊に特別扱いされているからな。箱入りもいいところだ」  ルイスは僕の肘を押さえたまま脇道をさらに奥へ行こうとする。 「ソール、あんた、何を持ってる?」 「あんたが欲しがりそうなものはもうないよ。例の書物はニールスに納品した」  僕は体をねじってルイスの腕を払った。 「なんで今さらそんなことを聞いてくる。僕が扱ってる本についてはよく知ってるだろう。カタログをさんざん読んでるし、もっと知りたいなら店に来ればいい」  ところが、ルイスがカリーの店に来たことは実は一度もなかった。出くわすのはたいてい市場や寄り合いで、たまに取引するときもルイスが指定する街中の店で、あたりに人目がある場所だった。逆にいえば僕は、人目がない場所で彼が何をしているのかまったく知らないということだ。どうにかしてこの男から離れたかったが、ルイスはそばの壁に手をついて僕の前に立ちはだかり、進路を阻む。 「意外な筋から噂が聞こえてきてな……カリーの店主が『開かない本』を持ってるっていう……」 「噂を本気にするのか? だいたいそんなの、ただの伝説だ」 「へえ。そうかな」 「当然じゃないか」  僕は動揺を悟られないよう、相手を小馬鹿にした態度をとろうとした。 『開かない本』や『隠された本』そして『閉ざされた本』――いくつかの隠語で呼ばれる一群の魔術書、所有すれば力が手に入るとか、不老不死になるとか、この世を超えた叡智が手に入るとかいう眉唾物の魔術書がどこかの屋敷や、魔術師の洞窟に隠されているという伝説は、市井からけっしてなくならない。半分でたらめかもしれないと思いつつ集めようとする好事家もひきもきらない。ルイスの上客にも多いにちがいないこの手の金持ちは、怪しげな書物に大金を払う。  そういう意味では僕がカリーの店で扱う魔術書は、稀覯本であっても、本来の意味で実用的な本ばかりだった。だいたい、そんな眉唾物の伝説を信じる人間はアマチュアで、もともと魔術師になれるほどの魔力がない。学院で真剣に魔術を修めた魔術師なら、こういった書物は実在しないとわかっている。 「あんたはでたらめで大金を稼ぐ主義だから、おかしな噂も真に受けてしまうんだろう」 「そうか? なあ、ソール。あんたが昔学院にいたこと、俺は覚えているんだぜ?」  ルイスはにやっと笑った。 「病気で魔力をなくしたそうだな。あのころ学院で火事があった」 「だからなんだ?」 僕は馬鹿馬鹿しいと首をふった。 「僕は魔力欠如で学院を出された魔術師のなりそこないさ。だからなんだというんだ?」  ルイスはまたにやにや笑う。 「だから、そんなあんたが〈本〉を持ってる、なんて聞こえてきた日には、たしかに納得するじゃないか。道理で警備隊がいつもいつもあの店の周りにいるわけだ」 「そんな〈本〉なんて僕はもっていない」  僕は唾を飛ばすいきおいで強くいったが、ルイスが別の話をしているのがわかり、ぞっとして背筋が寒くなった。  市井に眠る魔術書伝説はただの眉唾だが、魔術師なら別の種類の〈本〉が存在する可能性は理解している。それは危険で巨大な力へ接続する書物、ひらいた人間を破滅させるしくみをもった〈本〉で、僕と友人が関わったのはまさにそんな書物だった。しかしこの国では、大きな魔術の力が秘められた本は禁書として学院で管理されているし、管理されている事実すら、ごく少数の人間しか知らない。  眉唾物の魔術書の伝説は実はこれら〈本〉の目隠しとなっていた。好事家が求めるのは幻想的な夢の対象だが、禁書に関わった人間が払う代償は、夢想の結末にしては大きすぎる。  しかし僕を襲撃したあのパイプ男は僕を「閉ざされた本」と呼んだ。眉唾の伝説が実際に――何らかの形で――存在するという噂が流れているなら…… 「謙遜するなよ。カリーの店は手堅くやってると感心してたが、こんな裏があったなんて、ますます驚くじゃないか。でも魔力のないあんたにはそんな〈本〉、宝の持ち腐れだろう」 「だからそんなものはないっていってるだろう」 「ソール」ルイスはもっと下卑た笑みを浮かべる。 「あんたの店を襲った男はいろんな裏稼業をやっててな。この話、聞いてるのはたぶん俺だけじゃない。もっと面倒なことが起きる前に渡さないか? 手形もチャラにしていい」 「馬鹿馬鹿しい」僕は吐き捨てた。 「期限はまだ先じゃないか。宝の地図がうちにあると本気で思ってるのか? あんたも含めて、夢でもみてるんだろう」 「どうだかな」ルイスはふと真顔になった。 「俺は申し出たぞ。気が変わったらいえよ。妙なやつらに横取りされたくないからな」  その顔を正面からみつめて、思わずため息がもれた。そもそもルイスは魔術書について何もわかっていないのだ。 「何を横取りするっていうんだ。ないものはない」 「仮にほんとうにそうだとして、誰が信じるんだ?」  誰が信じるか?  僕はふと硬直する。十年前の事故で強力な防壁が備わったおかげで、僕は精霊魔術師に心を読まれることもないが、自分の意思で防壁を取り除くこともできない。そしてどうやっても〈読めない〉からこそ、僕が何か隠していると考える者もあらわれるだろう。見上げるとルイスの顔にはまたにやにや笑いが戻っていた。 「ハスケル家の長男とつきあってるんだってな。貴族の愛人なら安心か? だが警備隊もあんたについてるようだし、そうなるとあちこちを向いて大変だな」  腹の底で熱いものが沸騰した。僕は無言で前に立つルイスを押しのけた。ルイスは肩をすくめて僕に道をゆずったが、笑いながらまたひとことささやいた。 「メス犬」  怒りで足が震えた。もうたくさんだ。僕はそのまま足を速めて脇道をぐるりと回り、店の方向へ戻った。商店街のはずれまで来たとき、何だかおかしな感じがすると思ったが、理由はわからなかった。神経質になりすぎだと自分を叱って、店に通じる路地へ入りながら何の気なしに、ほんとうに何の気なしにふりむいて、みつめる黒い眼と眼が合った。  僕の記憶は正確だ。  今日はあと二回、この眼をみている。たしかだった。外見はごくその辺りにいる庶民の服装をした男だが、今日より前に会ったことはない。  ルイスと話していた時よりもひどい寒気が背中をくだった。僕はくるりときびすを返し、商店街を引き返した。何でもないのだ、気のせいだ、といいきかせようとしたが、見知らぬ人物にあとをつけられていたという確信はぬぐえない。そのまま人通りの多い道を大股に歩き続け、時々うしろをふりむき、さっきの顔がみえないかたしかめる。  しばらくのあいだ、それ以外のことを何も考えていなかった。どのくらい王都の石畳の道をぐるりと歩きまわっていたのか。我に返ってあたりをみるとよく知らない区域まで来ていた。焦ってきょろきょろ見回すと、貴族の屋敷が立ちならぶ上品な区画だった。そうとわかるとすこし落ちついたが、貴族、と思ったとたんまた不安で心臓が鳴った。  ハスケル家の屋敷もこの区画のどこかにあるはずだし、書物狂の好事家にも貴族が多い。好事家には欲しい本のために手段を選ばないものもいると聞くが、ルイスはまさにそういう連中の仲介をしているのだ。そしてさっきの男やフックスのような野良の魔術師が王都を、店の周りをうろうろしているなら……。  急に胸が苦しくなり、パニックが襲ってきた。僕はひざをつきそうになるのをこらえ、手近な壁に手をつく。眼鏡をとって壁の一点をみつめ、ゆっくり呼吸する。息を吐き、吸って――ちくしょう、僕は永遠にこれを繰り返すのだろうか、この都で?  呼吸を落ちつかせて、僕は今度は背中を壁にもたれさせる。たぶん外出するべきでなかったのだ。カリーの店は安全だ。ただし僕はもうあそこから出られないのかもしれない。檻のようだが安全で、孤独で、ずっとあそこにいる。僕は自問自答した。それでよかったのではなかったか。そしてたまに――クルトに会えさえすれば……。 (貴族の愛人なら安心か?)  ルイスの声が頭の中に響きわたった。さすがだな、と僕は自嘲をこめて内心で笑った。何をいえば効率よくダメージを与えられるか、よく知っているものだ。  絶望した気分で僕は頭をあげ、周囲を見渡した。そのときだった。見覚えのある屋敷の門が視界に入った。  レナードの屋敷だった。 「あなたは私の家令と共に使者として発つことになります。あなた自身の今回の事情については、国防が絡んだ一時避難の名目で、レムニスケート家から審判の塔へ話を通します」  レナードがまるめた書状の束と使者の帽子を僕に手渡す。帽子は明るい緑色で、興奮したときのクルトの眸を思い出させた。僕は書状を鞄に入れ、巻き毛をまとめて帽子の中に入れる。貸してもらった上下はどちらも裾が短めで、貴族の使者が着る服装だった。これも借り物の長いブーツの紐を結ぶと、靴下に覆われた左足首の輪はぴくりとも動かない。 「ところで昨夜も話しましたが、使者の旅は長い。家令は何度も私の名代としてこの旅に出ていますし、私としても彼を信頼していただきたいのですが、ほんとうに良いのですね?」  レナードの家令はすぐ横に立っている。レナードと同じく浅黒い肌をした恰幅のよい中年の男性で、レナード同様落ちついた雰囲気だ。ひょろひょろと痩せて怯えた自分がとてもみっともないと感じる。僕はまともな返事をしようとして一瞬つまり、承諾のしるしにやっとうなずく。 「はい」 「それではあなたを正式に使者へ任命しますが、家令のハミルトンと共に隣国の四都市を訪れるだけでなく、私の個人的な仕入れにも携わってもらうことになります。買い付け内容や私の好みはハミルトンが知っていますが、ソールには書物もお願いしたい。あなたの知識や鑑識眼を生かしてもらいたい」  レナードはおだやかな表情だったが、視線は真剣で、まっすぐに僕をみる。 「本当は私が一緒に行きたいのですが……ちょうど家令が発つところでしたから、むしろこの方が隠れるにはいいでしょう」 「はい。重ね重ねありがとうございます」 「臨時休業は残念ですが、カリーの店については心配しないように。それから、今回の旅の最終目的地にはいずれ私も訪問するつもりです」  レナードは手を差しのべ、僕らは堅く握手した。車寄せで馬車が待っている。  僕は王都を出るのだ。  こんなことをしてレナードになんの利点があるのだろう。馬車に乗りこみ、窓の外にニールスの屋敷を眺めながら、まだすこし僕はそう思っている。昨日の僕はたしかにパニック状態で、突然屋敷にあらわれた不審者も同然だった。レナードが在宅していたのが幸いだったが、あらためて思い返しても僕はあの時ほとんどまともに考えていなかったと思う。  施療院の森へ逃げ出したときと同じで、衝動に身をまかせただけなのだ。だがレナードは僕を落ちつかせ、話をさせて、僕から王都を出たいという望みを吐き出させた。先日も思ったが、ニールス家の当主には他人の話を引き出す素晴らしい才能がある。レナードは僕の話を聞きおわるとしばらくのあいだ考えこんだ。やがてこういった。 「良ければ私の家令と一緒に王都を出ませんか。ただし出発は明日です。暑い気候のせいで延期していたのですが、もう待てなくてね」 「明日……ですか」  さすがに僕は動揺した。それではヴェイユやセッキ、ラジアン――それからクルトに――何も伝える時間がない。だがその方が安全かもしれない。王都を離れれば僕を追うのは魔術師にも難しくなるからだ。 「それに今の話では、あなたをつけてくる妙な連中を避けるために、あなただとわからないようにして出発するべきです。師団の塔や学院への連絡は私から内々にできます」  あまり悩む猶予はなかった。僕はレナードの提案に乗った。自分の人生を大きく変えてしまう提案なのだとはっきり自覚していたが、それでも乗ったのだ。  そう、僕はたしかにいろいろな事柄に腹を立てていた。魔力がなくて不自由なこと、得体のしれない連中につきまとわれること、自由に歩き回ることもできず、アレクのような学生にどうこうしろといわれ、ヴェイユやラジアンなど、みんなにまったく無力な人間のように守られること、そしてルイスに侮蔑されることに。十年のあいだ問題ないといいきかせ、どうにか乗り越えたと思っていた事柄だが、実際はふつふつとたぎる熾火のように溜まっていたのかもしれなかった。  そして今回レナードの助けを借りることで僕はまた自分にうんざりするのだろうか。だが僕はこのとき、どうしてもカリーの店に帰りたくなかった。かといってレナードの屋敷に匿われるのもまっぴらだった。僕は移動したかった。自分の足で歩きたかったし、未知の風景をみたかった。書物の中でしか出会っていない事物をこの目で見たかった。  旅は永遠に続くわけではなく、旅程は一か月程度で、最終の立ち寄り先は隣国の港湾都市だ。僕はまた海をみることができる。そしてクルトは僕が不在の間に進路を決められるだろう。フックスの襲撃がらみで彼の将来を危険にさらしたくなかったし、腹立たしくはあるがアレクの願いも叶えられて、一石二鳥かもしれない。こうして僕はもう二度とクルトに会わないのかもしれない。 (貴族の愛人なら安心か?)  安心などありえなかった。僕は馬鹿なのだ。クルトが他の誰かを抱きしめるなんて、ほんとうは許しがたい。許しがたいなんて考えること自体が許されないとしても。 「よい旅を。ハミルトンは腕も立ちますから、安全だとは思いますが、気をつけて」とレナードがいう。  僕は黙って頭を下げる。何といったらいいのかわからなかった。レナードと昨夜遅くまで話しこんだとき、僕はいつのまにか彼の誘導尋問にのるようにして、クルトを家がらみの政争に巻き込まないよう、何度もこの当主へ頼みこんでいた。  クルトは僕にまだ腹を立てているだろうか。最後にクルトと話したとき、もっと穏やかに伝えられればよかった。きみが何よりも大事だと。 「ソールがもし隣国にしばらく滞在するなら、私も後から行きますから。ハミルトンも道中つつがなくな」 「当主、私がいないからといっておかしな真似はしないでくださいね」  と家令がいう。 「当たり前だ。安心しなさい」  ハミルトンは御者に合図をし、馬車は動き出した。レナードが手をふり、僕も片手をあげて返礼する。  そして僕は王都を離れた。

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