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【第3部 雲のなかの星】12.しらす

 裏口の鍵はそのままだった。  敷居をまたぎ、カリーの店に足を踏みいれた瞬間、ピリッとした感触を感じる。ヴェイユが設置した回路魔術の装置がここを通る者を認識したのだ。  クルトはかまわず戸口をくぐる。通風孔をぬけるかすかな風の動きのほかに、回路から回路をめぐっていく魔力の波を肌に感じる。魔術師の襲撃のあとでヴェイユが仕掛けた防御は徹底していた。王宮なみだと評していたのはセッキだったか。  これをヴェイユが作ったのだろうか。この教師はほかの精霊魔術師と同様に、回路魔術を敬遠しているとクルトは思っていた。学院の教師として回路魔術の基礎は理解しているだろうが、精霊魔術の使い手は学生のころから回路魔術師とあまり交流がない。  もちろん回路魔術が日常生活に不可欠なほど浸透したいま、精霊魔術師も回路魔術の装置をふだんから使っているが、回路魔術装置を「作る」となれば話はべつだ。力の原理が通底していても、方法においてふたつの魔術はまったく異なる。  セッキの弟子で下級生のイーディはクルトと念話で話すことはできないが、イーディが設計する回路をみてもクルトにはちんぷんかんぷんだ。とはいえそこを走る〈力のみち〉は魔力が強いクルトの方がよくみえる。ことにいまは鮮やかにみえる。  店も奥のキッチンもソールらしく、几帳面に片づけてあった。寝室へと階段をのぼり、閉まっている窓をあけると、鳩がうっとうしいといいたげに喉を鳴らし、首をふってよたよたと雨樋を歩いていく。以前ソールが森へ出発したときのように急いで出かけた様子はなく、かといって遠出をするために荷造りした様子もない。  防御回路を調べたヴェイユによると、ソールが店を出たのは二日前の昼間だ。その夜彼は店に戻っていないらしい。そして昨夜ヴェイユとクルトが捕縛した魔術師はソールが王都を発ったと断言した。暗い図書室で警備隊が到着するのを待つあいだ、詰問するヴェイユに男はにやにや笑いながら答えたのだ。 「あの店主、回路魔術を使った眼鏡をかけていただろう。あの反射をとらえるように探知機を王都にいくつかまいていたんだ。ほとんどは役立たずだったが、まさか最後のひとつが王都の境界を出るところをつかまえるとはね。いやあ、ほとんど奇跡だよ」  捕縛されているのに男はずっと笑っていた。笑いながらべらべらとしゃべった。 「探知機は単純な仕掛けだからずっと繋がっていたわけでもない。たまたまあんたが俺の魔力を吸い上げたせいで、さいごのさいごに残った回路と俺の〈力のみち〉が重なって、おかげでわかったんだ。あんたらの大事な〈本〉が王都を出たのは昼間だよ。いまはどこへ行ったんだろうな……」 「おまえは回路魔術も使うのか。つまらない経歴の小物にしては小細工が多いな」  ヴェイユは苦々しげにつぶやいた。その手にはパイプのような形をした銀色の金属が握られている。 「つまらない? は! 評価ありがとうよ」  男はさらに何かいおうとしたが、ヴェイユの強い視線が向いたとたん、がくりと頭をおとした。  カリーの店を歩くクルトの知覚はひどく鋭敏になっている。昨夜以来ずっとそうなのだ。あらたに魔力を感知する感覚の眼がひらいたかのようだった。自分の魔力の根源がつながり、協働し、全体を支えていることがはっきりとわかる。魔力を制御するのも段ちがいにたやすくなっていた。いまなら自分に流れる力のみちを、粘土をこねるように、あるいは糸を編むようにして思いのまま形づくり、あやつることができるだろう。  立って歩くことをいきなり覚えたようだ。これまで自分は眠っていたようにも感じる。昨夜までは出来なかったはずのことが突然やすやすと可能になり、しかもはじめからこうであったように何の違和感もない。たくさんの存在が放つ感情を一度に受け取っても、混乱することもない。アレクや他の級友たち、学院の師たち、商店街の人々、すべてを感知できて、しかも超然としていられる。離れた森の施療院にいるカルタンの気配も、意識を向ければ捉えることができた。  なのにソールだけがみえなかった。  ソールだけがどこにもいない。  商店街の誰もソールの居場所を知らなかった。セッキも、アダマール師も、森の施療院のカルタンの元にもソールは行っていない。警備隊からもなしのつぶてだった。唯一わかるのは、少なくともソールのためにセッキが作った防御回路は壊れていない、ということだけだ。おそらくソールは無事なのだ。彼がまだあの輪を嵌めているのなら。  レナード・ニールスから学院へ内密の一報があったのは翌日の午後だった。呼びかけで王宮へ招集されたのはレムニスケート家、審判の塔、そして学院からアダマール師とヴェイユ。  王と政策顧問も含めた極秘の会議でなにがあったのか、ただの学生にすぎないクルトはもちろん蚊帳の外だった。あとでアダマール師から秘密裏に知らされたのは、ソール・カリーはその知識を買われ、ニールスの特使と共に国外へ任務に出ているということ。これは「禁書」に関するソールの情報が漏洩した結果を受け、王都からの一時避難もかねている、ということ。  国外へ出すくらいなら軟禁するべきだったという審判の塔の意向はレムニスケートによって否定された。したがって彼の行先は極秘とされている。  帰還がいつになるのかも、誰も知らなかった。  当然のことながらカリーの店は閉まっている。  クルトが路地を歩くとあいさつでもするように猫が鳴く。ベンチには誰もいなかった。  ソールがいなくなってまた七日すぎた。休業状態の店は静かだ。商店街の人びとには店主は故郷で急用ができたと話してある。期限のきた請求書はニールスが代わりに支払ったらしい。  クルトは裏口から入るとあてもなく店じゅうを歩きまわる。ソールが王都を離れたあと、ここに来るのは三度目だ。なぜ来ているのかクルト自身にもよくわからなかった。たぶん自分はソールが王都にいないということがいまだに信じられないのだろう。ソールは王都を離れない。離れられない事情があると何度も彼はいったし、それに……自分にひとこともなくいなくなるなど、あるはずがない。  二階へあがり、ソールの寝台の前にひざまずく。敷布にひたいをつくとかぎなれた匂いがした。ソールの匂いだ、と思う。クルトが持ってきた香水の匂いもする。ソールが気に入って、使っていたのだ……なのに、つけている肌がない。吐息も聞こえない。  階下に降り、クルトはソールの仕事場に座った。ここで最後に恋人と別れたときのことを思い出そうとした。ソールは大丈夫だといったのだった。クルトが結婚しても、他の誰かを好きになっても、大丈夫だと。自分はずっとここにいると。  細かい文字で埋められた紙の束をみつめていると、眼の奥が熱くなってくる。あの言葉の背後に何があるのかもっと考えるべきだった。もともとクルトと出会う前からソールには複雑な事情があったのだ。あのとき彼が何を思っていたのか、きちんと話して、聞き出せばよかった。  ソールがそっけないふるまいをするときはいつも裏に何かあるのだ。生意気にヴェイユを追いかけたり、父との確執や、自分のことに必死になっていなければよかった。ソールがどんな理由で王都を離れたにせよ、その前に会って約束することができたはずだ。  約束。だが、何の。 『クルト、どこにいる』  アレクの声が聞こえて我に返る。 『カリーの店だ』 『そこへ行っていいか?』 『いや、学院へ戻る』  ソールがいないのに他人を店に入れるわけにはいかない。アレクの用件を聞く気にもなれず、クルトは心を閉じて学院へ戻った。図書室近くの木陰に手持ち無沙汰な顔のアレクが待っていたが、クルトをみて眉をあげる。 『何があった?』と聞かれた。 『何も』 『体調でも悪いのか?』 『どうして? 何もないぞ』 『だが……魔力が薄い』 『ああ、これか』  クルトは手のひらを地面に向けると、一瞬自身の力を解放した。水が湧くように〈力のみち〉がクルトと地面の間につながり、反射して吸いこまれる。アレクの驚いた顔をみたとき、数日ぶりの笑みが浮かんだ。 『魔力の制御が以前よりずっと細かくできるようになった。これで無意識に漏れていた魔力も操れる。で、これまでのだだ洩れが恥ずかしくなって、ひっこめることにした』 『――そんなことが可能なのか?』 『ああ。やれる者は少ないようだが、ヴェイユ師はやってる。ふだんは俺たちを脅かさないようにしているんだ』  ほんの短いあいだにクルトはあの教師のさまざまな側面をみているが、親友に伝えられる内容ではなかった。おそらく自分は想像より大きなことに巻きこまれている。しかし不思議とクルト自身に直接の影響はない。  騎士団に魔術師が引き渡されたとき、クルトは当然自分も事情を聴かれると覚悟していた。ところが意外にもそのまま寄宿舎に戻され、翌日は父の屋敷について話を聞かれたが、これも短く簡単に終わった。  騎士たちは形式的な事柄以上に踏みこまず、クルトの説明を手短に終わらせたのである。精霊魔術を学院外で使ったことを問い詰められなかったのはありがたく、父が手を回したのかとクルトは当初疑っていた。しかし父は父で、ラブレス家の当主と共に王宮に召喚されているのだ。  父が呼ばれた理由をクルトはすでに察していた。父は例の魔術師を王都に引きこんだ経緯を問われている。その大元にはハスケルとラブレスの連合があるはずだ。王宮は貴族同士が結びつくのに文句はいわないが、そのために得体のしれない魔術師が国を――厳密には国の保護監視対象であるソール・カリーを――脅かしに来たとなると話はもっとややこしい。  だとすると、クルトがうんといわないせいで宙づりになっているヘレナ・ラブレスの婚姻も焦点のひとつに違いなく、自分は渦中のひとりになる資格が十分にある。なのになぜ放っておかれているのか、クルトにはわからなかった。 『クルト』  アレクの声がまたクルトを呼び戻す。 『おまえに謝らなければいけない』 『なんだ』 『おまえの、その――カリーの店主がいなくなったのは、たぶん俺のせいだ』  気がつくとアレクは木にもたれたまま、罪悪感をにじませている。クルトは無表情に親友を眺めた。 「ソールに何かいったのか?」と口に出して聞く。 「その……おまえのことを思うなら、王都を出ろと。父上からもそう頼まれて……」  アレクは頭を振り、クルトの眼をみつめた。 『悪かった』 『いや。いいよ』  クルトは短くこたえ、これだけでは足りないと気づいて付け足した。 『ひとが何かをする動機はひとつじゃないんだ。おまえのせいもあるかもしれないが、それだけじゃない』  父はたぶん、ソールが王都を離れた原因のひとつだ。だがアレクにくわしく話を聞いても得るものはないだろう。それにここ数カ月、クルトは親友のことをほとんど考えていなかった。自領を継ぐために王都を離れる彼の将来や、たぶん彼が好きな幼馴染についても相談に乗ったりしなかった。友情を裏切っていたのはむしろ自分の方かもしれない。  たくさんの人間の動機や理由が連鎖して、誰かの行動にむすびつく。誰かの行動はべつの誰かの動機や理由となるだろう。 「そうか」  突然理解がひらめいて、思わずクルトは口に出していた。 「どうした?」とアレクが怪訝そうにいう。 「いや。いいんだ。わかったんだ」クルトは頭をふった。 「ああ、あとその、おまえの話はわかったよ。もういいだろ? これからどうする。何か食べにでも行くか?」  できるだけ快活な声を出すようにつとめながら、アレクに笑いかける。 「ああ、そうだな……」  アレクは拍子抜けしたような顔でクルトをみつめ、釈然としないようだったが、それなら……と歩き出した。クルトは友人に続きながら、天啓のように降ってきた理解を噛みしめていた。どんな動機や原因があるにせよ、ソールは自分で決めたのだ。王都を出ることを。  ソールはずっと――行きたがっていたじゃないか。  頭に浮かぶのは寝室の本の山だった。海と、見たことのない世界をしるした書物の山だ。出会ったばかりのころ――ずいぶん昔のような気がするが、ついこの春のことだった――なぜそんなに書物が好きなのかとソールに聞いたことがある。 (連れて行ってくれるから)  そう彼はいった。 (どこへ) (僕が一生行けない場所だよ)  では俺はどうしよう。これからどうすればいいだろう。  友人に追いつこうと足を早めながら、クルトはずっとそれを考えていた。 「何度聞かれても無駄です。ハスケル君に教えることはできない」  取りつく島もないとはこのことだ。レナードはクルトの何十回目かの問いを即座に却下した。  そもそもクルトの方も答えてもらえるとは思っていない。しかし最近、この外交手腕で名高いニールスの当主にクルトは毎日会っている。ほとんどつきまとっているといってもいいくらいだ。王城でたまたま出会う――出会ったふりをすることもあれば、父の使いだと口実をつけて屋敷へ訪ねていくこともある。  ソールがいなくなって一か月以上すぎていた。季節はゆるやかに秋へうつり、学院ではつぎの学期がはじまっている。しかしクルトは講義をさぼりがちだった。王宮の推薦人と密にやりとりしているわけでもなく、進路はいまだに宙に浮いている。数週間で学院で最後の審査があり、最終的に精霊魔術師の資格が得られる。しかし、さしせまったこれらの物事を棚に上げて、クルトは口実をつくってはレナードにまとわりついていた。  まるでソールに会えないかと審判の塔の書庫や店を行ったり来たりしていたころのようだったが、大きな違いがひとつあった。クルトにはレナードがどこにいるのかいつでもわかるのだ。首尾よくレナードをつかまえると、たずねることはほぼ決まっている。主な用事を済ませてから、何気なさそうに聞くのだ。 「ソールは元気ですか? いまどこにいます?」  レナードは答える。 「何度聞かれても無駄です。ハスケル君に教えることはできない」  回数をくりかえしすぎたせいか、この会話はレナードとクルトの間で、いまや去りぎわのあいさつのようになってしまった。おかしなことにレナードも癖になっているらしい。一度クルトが用件に気をとられてたずねるのを忘れたとき、不思議そうに呼びとめたくらいだ。 「ハスケル君、いつもの質問はいいのですか?」と。  とはいえ最初の一度は本物の用事からはじまっていた。父がラブレス家も含めた一連の騒動に、最終的に調停の労をとってくれたレナードへ届け物をと、クルトに指示したのがはじまりだった。これがなければレナード・ニールスがソールの行方を追う鍵だとクルトが思い出すことはなかったかもしれない。  現在クルトと父の関係は膠着状態だったが、レナードとの接点を作ってくれたことだけは感謝していた。ラブレス家との連合が面目をつぶすような形で終わってしまい、父は多少落胆していた。フックスが掟破りの技で父を襲ったのもあって、魔力が回復するのにも時間がかかっている。  そんな父にクルトは同情できなかった。ほんの半年前までは違ったと思う。あのころはただ父を追い越したかったし、だから政策顧問となって王宮へ入るのが自分の目的だったのだ。しかし今はまったく興味が持てない。  家がらみのいざこざにも関わらず、クルトの推薦人は降りなかった。五人目の推薦人をヴェイユが引き受けてくれれば、クルトの進路はほぼ確定だろう。つぎの春には白いローブを着て王宮へ入り、庶民の暮らしとも貴族の暮らしとも異なる魔術師たちのひとりとなれるのだ。  だが王都にはソールがいない。 「あなたもしつこいですねえ。もう答えはわかっているでしょうに」  レナードがいう。今日のクルトはレナードの屋敷で彼の蔵書について口を出していた。二日前、家令が留守で手入れ方法がわからないともらしたレナードに、書物の保存について講釈を垂れたせいである。短い期間とはいえカリーの店や書庫でソールに教えられたおかげだった。 「しつこいのは俺の特技なんです」クルトはとっておきの笑顔をみせる。 「何か教えてくれる気になりましたか?」 「そうそう安売りはできませんから」  問いに答えてはくれないが、意外なことにレナードの方も、クルトがついてくるのが嫌でもないらしい。彼はクルトのことを年のはなれた従弟くらいに思っているらしかった。とはいえおだやかな顔と口調の下には鉄壁の意思があり、ソールの居場所について情報を持っているのは確かなのに、けっして丸めこまれたり、口をすべらしたりはしなかった。  当然というべきだろう。  だがクルトはめげなかった。だいたい、直接答えを聞こうなどと思っていないのだ。 「手がかりになりそうなのはあなたくらいだ。探しに行くにしても、ヒントがないと」 「本気で探しに行くつもりなんですか?」 「もちろんです」  この会話も時々交わされて、そのたびに黒髪の男は眼を細めてクルトを見下ろす。そしてだいたいここで話は打ち切られるのだが、今日は違った。 「ソールをみつけたら、どうするつもりです?」とレナードはいった。  レナードの書庫は個人のものにしては広く快適で、カリーの店とちがって明かりも十分だった。クルトは日に焼けた男をみつめた。レナードから漂うのは好奇心と共感で、当初よく感じたからかうような調子もなく、さらにかすかな驚きの感覚もある。彼が何に驚いているのかクルトはわからなかった。なにしろここ一か月、短い時間とはいえほぼ毎日、同じような話をしているのだ。 「約束をします」と静かに答えた。 「どんな?」間髪入れず問いが返ってくる。  クルトは微笑んだ。 「秘密です。他の人には聞かせない」  レナードも微笑んだ。日に焼けた精悍な顔に優しい影がおちる。 「私も亡くなった妻とむかし、約束をしましたよ」といった。 「どんな?」 「もちろん、秘密です」  レナードはふりむき、棚から小さな包みを取った。 「しかたがない。あなたにこれをあげます」  油紙の包みだった。表書きにクルトの名前がある。几帳面で整った筆跡だった。 「これは……どこから?」 「おやおや、わからない男だなあ……」レナードは声をあげて笑った。 「何度聞かれても無駄です。ハスケル君に教えることはできない。探してください。魔術師は探すのが得意なはずだ」  クルトは包みを受け取ったが、まだ表書きとレナードの顔を交互にみていた。包みの大きさは手のひらの二倍ほどの縦長で、厚みは小型本くらいだった。クルトの魔力はレナードの言葉に嘘がないと教えている。それでも聞いた。 「俺が受け取っていいんですか?」 「あなたが表書きの人物なら。いらないなら私がもらいますよ」 「いります」 「残念だ」  両手をあげたレナードのしぐさはやや芝居がかっていた。 「私はすこし妬ましい。あなたがね、クルト。幸運を祈ります」

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