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【第3部 雲のなかの星】13.さい

「眩しいですね」  ハミルトンが日射しを避けるようにひたいに手をあてる。晴天で、足元に落ちる影が濃い。波止場へ通じる坂道を見下ろすと、ずっと先で水平線がきらめいている。  海からゆるりと風が吹いてくる。潮の香りにまじって香ばしくて美味しそうな匂いも漂う。道端の屋台で褐色の背中がせっせと炭火をあおいでいるのだ。 「食事にしましょうか。実のある会合でした」  ちらりと匂いの方向を見やってハミルトンがいう。 「いい匂いだ。このあたりの名物は白身魚と貝のスープですよ。焼き栗には少し早いかもしれません。残念です。美味いんですよ」  彼のすぐうしろで青い旗がぱたぱたと風にはためいている。その向こうにそびえる石造りの建物がこの港湾都市で最大の商業ギルドで、さらに奥にこの都市の評議会がある。この都市は貴族と同じような身分を王に与えられている。  レナードから預かった最後の書状は評議会の議長宛だった。儀式的なやりとりのあと僕らはギルドへ移動し、ハミルトンが別室へ消えているあいだに僕は豪奢な応接室で菓子をご馳走になっていた。出されたのはアーモンドの香りがするクッキーで、お茶は甘く、ふわりとはちみつが香る。  運んできた少年は僕らがどうやってここまで旅してきたかを聞きたがったが、僕は逆に彼からこの都市の話を聞き出そうとして、少しは成功したかもしれない。旅の間じゅうハミルトンの話術を観察していたおかげだ。  王都を出て一カ月以上たつ。日射しはきつくても風は秋だった。  移動しては知らない土地で宿をとり、ハミルトンについて現地の人に会い、また発つという繰り返しは体力のない僕に最初の頃かなりこたえた。だが体は疲れても、王都にいるのとくらべて何かが楽だった。手の届かないところに嵌められていた枷が突然とれたような気分で、視界まで明るく、頭も軽くなったような気がした。不健康な肌の色も移動のあいだに多少はましな色になったと思う。  森や畑地をぬけるあいだは眼鏡をかける必要もなく、公式の使者のしるしである緑の帽子をかぶった僕は農夫や行商人に敬意をもって扱われて、面映ゆかった。国境を越えて隣国に入るとひとびとの話す言葉の抑揚が変わる。書物で読んだだけの語彙やいいまわしが実際に使われるのを聞き、僕は興奮した。はじめて聞いたあいさつを現地の人の真似をしておそるおそる声に出すと、笑顔とともに同じ言葉が返ってくる。  隣国の都市も初体験だった。なにしろ僕が国を離れたのは十年前の夏だけだ。昼間は見るものすべてが新鮮で、そのぶん夜はくたびれてぐっすり眠った。  衝動的な慌ただしい出発のあとに残してきたものはもちろん気になっていた。とくに国境を越えるまでは辛かった。レナードにはあらかじめ、最後の都市へ着くまでは手紙を書かないようにと指示されていた。理由を聞かなかったが、機密保持のためかと僕は勝手に推測した。  だが手紙を書くのをとめられていたことは逆に僕の精神によく働いたのではないだろうか。僕は書きとめずともなんでも覚えられたが、誰かにあてて手紙を書こうとすれば、自然と不穏なこと、心を乱すことを考えるからだ。  ハミルトンは各地のギルド会館を通じてレナードと連絡をとっているようだった。彼にしてみれば僕はたまたまついてくることになった面倒なお荷物のはずだが、ハミルトンは不満のかけらもみせなかった。そして町や都市に到着するとかならず僕を書店へ案内し、さらに当地の学者に紹介して、僕が彼らからどんな話を聞いたかを後で知ろうとした。  つまり僕は現地の専門職から情報を引き出せる人間として同行していたわけだ。王都で本に埋もれながら貯め込んだ知識がこんな風に使えるとは。  移動中の馬車でよく居眠りしていたせいもあっただろう、旅に慣れると時間がたつのは速く、それと比例して王都の出来事の記憶が鋭い針のように僕をさいなむことも減った。だが、内陸から海岸へ近づくにつれ僕はすこしずつ落ちつかなくなっていた。あの海をもう一度見たら、僕はいったいどうなるだろう? カリーの店の奥でふいに記憶が呼び戻されるたびに感じた痛みがここにもやってくるのだろうか。  意外にもそれはなかった。高台の宿に荷物を降ろしてハミルトンと波止場まで坂道を下り、魚や海藻の生臭い匂いの横を通り抜けるあいだも、記憶は僕をうちのめしたりしなかった。ゆるりと曲がった海岸の、先の方の桟橋には大きな船が接岸し、荷物をかついだ男たちが周囲を行き来している。 「大陸へ行く船です」とハミルトンがいう。  こちら側の波止場は明け方の漁から戻った漁船で賑わっている。ハミルトンは慣れた様子で明るい色に塗られた食堂の戸口をくぐる。日焼けした漁師たちが彼をみて眉をあげたが、何もいわずに自分の食事に戻った。小鍋にあふれるほど盛られた名物料理はとてもおいしかった。まだ日も高いのに、ワインを飲みながらぱりっとしたパンの皮をこくのある金色のスープに浸し、合間にコリコリした枝のような青菜をかじる。茹でて塩をふっただけなのに、妙にあとをひく。 「手紙を書いたら、ギルドから王都まで運んでくれますよ」  さらりとハミルトンがいった。 「それに当主からあなた宛の手紙も受け取りました。宿で読んでください」  旅のあいだに見慣れた封蝋がほどこされた書状を僕に渡す。ワインを飲み干し、小鍋に残った最後のスープをなごりおしげにパンでぬぐってから、彼はふと僕をみて照れくさそうに笑った。 「好物なんですよ。たまにしか食べられないと思うとね」  この都市でハミルトンが案内してくれた書店は迷路のような市場の奥にあった。大陸から来た物が直接流れるから面白いですよ――というハミルトンの言葉を裏切らず、市場は見慣れないものや匂いであふれていたが、書店は僕のテリトリーだから、そうでもない。  店の中が乱雑なのは入荷が多いのか、単に店主のやる気がないのかもしれなかった。大陸の言語で書かれた本が目立つのは、長い船旅のあいだに読みおわった本が持ち込まれるからだ。大陸からきた船乗りが、読めないし価値もわからないが波止場の賭けで巻き上げたからと束で持ってくることもあるらしい。あいだには最近の出版らしい本が雑に並べられていた。これも分野など気にしない配置で、ここまでごちゃごちゃだと逆に面白い。  きれいな緑色の飾り布にひかれて僕はそのひとつを手に取った。小さな本だが、ひらくと細密に描かれた草木や鳥の絵が目に入る。版元はこの都市にあり、著者もこの地方で暮らす在野の学者らしいが、専門がはっきりしない。書棚を見回して、おなじ著者の本が何冊もあるのに気がついた。  しばらく店内をうろついたあと、僕は結局二冊を選んだ。  その夜、僕は宿でレナードの手紙を読んだ。大胆にはねる筆跡で彼は僕が去ったあとのことを簡単に説明し、時期をみて王都へ戻るのは問題ないが、審判の塔が落ちつくまで年内はそのまま隣国へ避難するのを勧める、と書いていた。その場合は海岸沿いで安全な住まいを手配するよう、もうハミルトンに伝えてあるという。  カリーの店の状態やクルトについても触れてあった。レナードは僕の願いを叶えてくれたようだ。ハスケル家の当主は召喚を受けたが、学生のクルトは面倒な事態には巻きこまれなかった。このまま学院にいれば無事に卒業できそうだというので、僕は胸をなでおろした。最後は、誰に手紙を書いてもかまわないが取り決めで僕の居場所は明かせないので、その点だけは考慮してくれと結んで終わっていた。  宿の小さな明かりの下で紙にペンを走らせるのは不思議な感じがした。ほんの半年前、僕はこんな未来を予想できただろうかと思う。レナードへ返事を書くのにあまり時間はかからなかった。彼が勧めるとおり、まだしばらくこのあたりにいる、感謝していると書き、アダマール師にも一筆したためたが、ヴェイユには何を書けばいいのか悩み、また今度にすればいいと思い直した。  それから新しい紙を取り出し、クルトに宛てて書こうとして――手が止まった。  何度か書き出そうとして止まり、実際に最初の一語を書いて止まり……気がつくと夜が更けていた。僕は書き損じを押しのけ、肘をついて頭をかかえた。そもそもクルトと最後に会った時、僕らはいい別れ方をしていない。それから僕ひとりが黙っていなくなり、知らせもなく、今さら何を――と思われるかもしれない。それにもしかしたら彼は僕をもう――  視野のすみで飾り布の緑色がちらついた。この本を手に取ったきっかけはこの色だった。クルトの眸と同じ色だ。僕はページをめくり、繊細に描かれた図版をながめた。波のスケッチがあり、自然における魔力の分散や平滑性が語られている。  いつのまにか読書に夢中になっていた。鳥の声がしてはっと我に返った。外がうっすらと白んでいる。こんな風に読みふけったのは久しぶりだった。本を閉じて息をつき、眼をあげて、奥に押しやった書き損じの紙を思い出す。  僕は新しい紙をとり、表書きを書いた。クルトはきっとこの書物を気に入るだろう。  なにしろ僕は本屋だから、本くらいしか彼に渡すものがないのだ。  ハミルトンに王都へ送るよう頼むことにして、書物を包み、表書きを添えた。少しだけ眠ることにした。  港湾都市から沿岸を北上すると、岬や小さな入り江があらわれ、集落や小さな町が点々とちらばる。  たっぷりした宿の朝食のあとで、ハミルトンが広げた地図の一点をさした。半円の砂浜を抱えた小さな村だった。 「とある貴族の別荘があるんですが、持ち主は長く訪れていません。『ソル』はここの管理人です」ハミルトンは僕の名をこの国の人の発音で呼んだ。「身の回りのことは村の人がやりますが、ただ……」  高台の上の空はすばらしく晴れわたり、海は街並みの向こうでサテンのリボンのように光る。僕は風景に気をとられながらぼんやり聞き返す。 「ただ、なんです?」 「子供に読み書きを教えるのや、代書を頼まれると思いますよ。嫌ですか?」  とんでもないと僕は首をふった。ついでに地図の海岸線について、昨夜読んだ本に載っていたと告げると、ハミルトンは眉をあげた。 「このあたりに著者が住んでいるのでしょうか」と僕は聞く。  ハミルトンは首をふったが、ふと思い出したらしく「そういえばこの岬に学者が住んでいるらしい、と聞いたことはあります」といった。 「らしいというのは……」 「偏屈なうえによく留守にするので、実際に会った人がほとんどいないと。魔術師という噂もありましたが、高齢で魔力をなくしたともいわれて、結局すべて噂です」  はは、と僕は笑った。 「僕みたいだな。もし著者が近くにいるのなら、会ってみたいものです」 「それが叶ったら、次に会った時、詳しく聞かせてください」とハミルトンはいった。  目的の村へ向かう馬車は海岸ぞいの入り組んだ道を通った。ときおり岸壁を迂回し、ときおり海すれすれを走り、小さな集落を通りぬけ、ついたのは日が暮れるころだった。  別荘は十年前に訪れたヴェイユのそれと似ていた。僕は数人の村人に紹介され、しばらく人がいなかったらしいがらんとした室内へ入った。裏手は小さな浜に向かってひらかれている。キッチンには素焼きのタイルが敷かれ、風で侵入した細かい砂が靴の底でざらざら鳴った。  王都を出てから一カ月というもの、一日ごとに周囲の環境が変わるのがいつの間にか当たり前になっていたようだ。夜、階上で清潔な寝具に横たわりながら、ここをしばらく動かないのだと思うと奇妙な感じがした。ハミルトンは翌朝あわただしく発ち、ひとりになった僕はしばらく暇なのだろうかと思ったが、それもほんの一時だった。  午後になると最初に子供たちがやってきた。一番乗りは女の子と男の子の姉弟で、大きい子がくたびれた教本を抱え、おずおずと「あの……あたらしい先生?」とたずねる。  うなずくと「よかった!」と僕に本をさしだした。 「お母さんが、読んでくれるって」  ハミルトンが予告したのはこういうことか。僕は笑い、彼らをテラスから中に入れて文字を教えた。  子供の数は翌日三倍に増え、翌週になると今度は大人がやってきた。お礼だと食べ物を渡され、洗濯を引き受けると申し出られ、つぎに頼まれたのは役所へ送るという書類の代筆だった。  なるほど、と僕はハミルトンがためらいがちだった理由をまた理解した。文章を読んでほしいとか、代わりに書いてほしいという頼みは子供よりむしろ大人のほうが多かった。子供は教えてやればどんどん自分で先を進めていく。いっぽう、僕が村になじむにつれて、あれもこれもという調子で村人は相談を持ってくるのだった。ここの管理人というのは長年そんな立ち位置だったらしい。  それでも日暮れや朝の早いうちはたっぷり時間があり、僕は天気が良ければ村の近くの浜を長く散歩した。もう朝晩は冷えこむようになっていたが、よくはだしで砂の上を歩いた。誰も見ていないのをたしかめてから靴を脱ぐのだ。  左足首にはいつもあの輪が嵌っている。波打ちぎわへ歩いていき、そっと足を水に浸す。波の動きにそって輪がなめらかに揺れる感触が好きだった。そのたびに思い出すのはクルトのことだった。あと少しで学院では〈審問〉がはじまるのではないだろうか。  ある朝、例によって浜でひとり遊びをしていると、見知らぬ老人が波打ちぎわをやってきた。僕は黙って会釈し、向こうも黙って会釈をかえす。足指の間を海水がぬけるのを楽しんでいる僕を老人は黙ったままみつめ、そのまま去っていった。  それからしばらく、毎日老人と顔を合わせた。朝のこともあれば日暮れのこともあったが、いつも周りに誰もいないときだった。初めて会ってから何日後だろうか、僕が靴をはきながら足首の輪をさすっていると、上から声がした。 「よくできた回路だ」  僕は顔をあげた。この輪をきれいな装飾以上のものと見破る人間など、ここではめったにお目にかかれない。  老人の声は外見より若々しかった。すこししゃがれているが、深く響く。 「きれいでしょう?」  内心の動揺を隠して、何気なさそうにこたえる。 「ああ、回路もだが、魔力もな」 「あなたは魔術師ですか?」  僕の警戒を感じ取ったのか、老人は両手をあげた。 「いやいや。大昔はそういうときもあったが、いまはただの博物学者で、岬に住んでいる。でもその輪っかにきれいな力が流れているのはわかる」 「もしかして――アルベルトさん?」岬に住んでいると聞いて思い当たることがあった。僕は本の著者の名を告げる。「あなたの本を読みましたよ」 「どれだね」  題名を教えると老人は驚いたようだった。僕らはしばらくそのまま浜辺で本について話しこんだ。僕は例によってすべて記憶していたので、本文を暗誦すると彼は大袈裟に喜び、今度岬へ遊びにおいでといって、この日は立ち去った。  その後も何度も同じ人々と顔をあわせ、やがて僕には友人ができたらしい。読み書きや計算を教えてもらいにくる子供たちや、都市に住んでいる息子への手紙を代筆するよう頼んできたり、食事や掃除の面倒をみてくれる村人たち、それにアルベルト。  海辺の村での暮らしは思っていたほど静かでも、隠遁者のようでもなかった。僕は地元の発音で「ソル先生」と呼ばれ、この小さな共同体の中でいっぱしの名士のように扱われるようになって、それはなんとも可笑しなことに感じられた。  王都にいた僕には想像もつかないだろうと皮肉っぽく僕自身へ問いかけると「だからなんだ?」と僕の内側から響く声がある。クルトの声だ。自信にみちて、快活で、楽しくてたまらないという声。 (俺が何度もいったじゃないか。ソールはすごいって)  このごろの僕は朝夕の海を浜からみつめるとき、クルトのことばかり思い出していた。彼とはほんの半年程度のつきあいしかないのに、何でも、いくらでも思い出せるのだ。  晴れの日の夕暮れは何度みても飽きない。日がまさに落ちる西の海や空も美しいが、おとろえた太陽の光をうけて、中天や東の雲がさまざまな色に反射するさまも好きだった。今日の空はすこし雲が多く、傾いた太陽の動きに沿って虹色の影がきらめいていたが、やがて一面紅色に染まり、すこしずつ夜の青色へ移りかわる。  たとえこの身が魔力を感じられなくても、世界は美しい。 「きれいだな」  聞きなれた声がすぐうしろで喋っている。  最近の僕はよくこの声を聞くのだ。現実のようにありありと思い出せる、便利な能力のせいで。 「ああ、きれいだ」と僕はくりかえす。 「すこし前に彩雲がみえていたよ」 「さいうん?」 「光が雲の水蒸気で屈折して、虹色に染まってみえるんだ。幸運のしるしといわれているが、かなりありふれた事象でもある。ひとは単純だからな。見かけるとそれだけでいい気分になれる」 「それは惜しかった。もう少し早く着けば一緒にいい気分になれたのに」  記憶の中の人物にしてはおかしなことをいう。  と、砂を蹴る足音がして、僕はびくっとした。  まさか。  ふりむくのが怖かった。僕が本当におかしくなったのでなければ、いるはずのない人物がそこにいる。 「こっちを向いて。ソール」  名前を呼ばれて我慢できなかった。僕はふりむいた。  まっすぐに伸びてくる腕が僕をつかまえ、正面から抱きしめられる。 「やっとみつけた」  そうクルトがいった。

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