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【第3部 雲のなかの星】14.雲のなかの星
砂浜に波が打ちよせる。
ソールからは潮の湿った感触と日にさらされた布の匂いがする。しっかりと両腕を腰に回して、クルトは鼻とくちびるでソールの顔をなぞる。白い肌はすこし日に焼け、ところどころ赤らんでいるが、王都にいたときより血色がよかった。クルトは砂浜とおなじ色をした前髪に口づけし、ソールの背中がかすかにふるえたのを感じとる。
自分以外の存在を腕の中にとじこめ、その息づかいを感じることの特別さに胸をうたれて、しばらく声が出なかった。ひたい、鼻先、くちびる、と、肌で直接かたちに触れる。
「やっとみつけた」とささやく。
「クルト……」
腕の中から小さく声があがる。
「どうしてここが?」
「本をくれたじゃないか」
「でも――」困惑したような声だった。「僕はそんなつもりであれを送ったんじゃない。単にきみなら気に入ると思って……」
クルトは腕をゆるめ、顔をかたむけてソールの耳元に唇をよせる。
「うん。気に入った。ソールの贈り物はいつも役に立つ。前もそうだったし、今度もそうだ」
「だけど、どうやってここが?」
「探したんだ」クルトは低く笑った。
あたりはしずかだ。波の音がずっと響いているのに静穏だと感じられる。クルトの拡大された感覚にも、海は巨大な一枚の布を広げたかのようになめらかだ。個々の存在は紛れる砂の一粒のように、海を背景にすると消え失せてしまう。魔力の影を落とさないソールはここでは砂の上の透明な水たまりのようで、以前より強力になったクルトの魔力を使っても、みつけるのは難しい。
だから森へソールが逃げこんだ時よりも今回は手こずった――などと、クルトは白状するつもりはなかった。まして、ソールの足に嵌った輪から投げられるほんのかすかな影をもとめ、港湾都市からずっとこの海岸を北上してきたなんて、絶対に話すつもりはない。
「クルト、僕の居場所は秘密にされているはずだ」とソールがささやく。
「いったいどうやってここを?」
「本を送ってくれただろう」とクルトは答える。
「たしかにレナードは教えられないといったが、探すのはとめなかった。本を送ってくれなかったらもっと時間がかかったと思う」
「でも……僕はそんなつもりはなかった」
クルトは得意げな笑顔を返した。
「あの本は出版されたばかりだった。版元は王都では全く無名だったし、問い合わせてもこの国の首都でさえ売られていない。版元の周りでしか流通していないなら、ソールがこの本を手に入れた場所は限定されるだろう?」
「それできみはこの国まで来たのか?」ソールはぽつりぽつりという。
「ずいぶん、直接的な……調査方法だな」
「足で稼ぐのが好きなんだ」
「それはまた庶民的だ」
「俺は実用的なんだ。知らなかった?」
そういってクルトは腰を抱く腕をはずし、するりとソールの手をとった。拒否はなかった。奥の建物へ眼をやってたずねる。
「住んでいるのはあそこ?」
ソールはうなずき、クルトの手をひいて自然な足どりで浜の奥へ歩きだした。歩調をあわせてついていくと胸の底からよろこびがわきあがり、クルトを満たす。
「貴族の別荘らしい。僕は管理人ということになってる」
「先生と村の人が呼んでいたけど」
「子供に教えてる。親たちもいろいろ用事をもってくるし」
ソールはテラスで靴の砂を払った。海の方をみて「潮が高くなると――」といいかけ、急に言葉を切った。
「クルト。〈審問〉はどうした?」
「学院は休んでる」
「卒業がかかってる秋学期だぞ!」
「休みについてはヴェイユ師に許可を取ってある」
「でも、きみの進路は……」ソールはいいかけて首をふり、扉をあける。
「中で話そう」
窓を大きくとった建物は夏の一時住まいらしく、簡素で広々としている。手作りらしい素朴な装飾で壁や床が飾られていた。ソールは靴を脱ぎ捨ててはだしになった。クルトもそれにならって靴を脱ぎ、部屋を横切る細い足首に、銀の輪が揺れるのをみつめる。輪に彫られた回路の中を力がきらめく。
そのあとを追いながら、クルトはソールの背中へ告げた。
「ソール。俺は顧問団には入らない」
キッチンへ入ろうとした足が止まった。
「なぜ?」
こちらをふりむかないまま小さく問う声が響く。
クルトはその場に立ちどまり、明瞭に答えた。
「俺はもともと、父に対抗したい一心で顧問団へ入りたかったんだ。何年も前にそう決めて、それ以外の選択はないと思っていた。でもあなたに会って考えが変わった。だからやめた」
ためらうような沈黙があった。クルトが先を続けようと口をひらきかけたとき、堅い声がいう。
「きみはここ何年間かの自分の努力を無駄にするつもりなのか? 僕は何度もいったじゃないか。取り返しのつかない物事や、取り返しのつかない季節というのがあるんだ。……きみが」
「俺がいなくなっても教室はそこにある。そうだろう?」
止まった足がまた動いた。
ソールがふりむく。うすぐらい部屋の中で砂色の髪はほとんど白くみえ、その下の表情はこわばって、仮面のようだ。クルトは安心させるように微笑んだ。
「ヴェイユ師には話した。俺は治療師になろうと思ってる」
ソールがはっと息をのむ声がきこえた。
クルトはまっすぐ歩いていった。キッチンは大きな調理台があり、やはり大きく窓が切られている。クルトにつきあたりまで押しやられて、ソールは壁を背後に立ち止まった。クルトは暗い色をした眸をのぞきこむ。
「あなたを襲った男についても、父と話した。あなたは最初から気づいていたんだろう? 父が関係していると」
ソールは一瞬目をみひらいたが、首をふり、視線を外した。早口でいう。
「クルト、僕に罪悪感を感じる必要はないよ。僕のせいできみが不本意な選択をするのはおかしい。きみはきみの望みをかなえるべきだ。その価値がある」
「そんなのじゃない」クルトはささやいた。
「父のことは、ただ俺は悲しかっただけだ。彼が野心のためにまわりをみないとか、あなたを傷つけたとか、すべて……ただ俺はこれまで、父との関係でしか自分のこの先を考えたことがなかった。たぶん俺は変わった。あなたがいない王都で王宮に入っても、いまの俺には何にもならない」
「――何にもならないなんてことはないだろう」
ソールは低く、つぶやくように言葉を落とす。
窓の外で波が白かった。ソールの右手がかたく握りしめられ、一瞬クルトをかすめた視線が焦ったように左右にふれる。
「クルト、きみの父上が何もしなくても、僕は遅かれ早かれフックスのような輩にみつかったに違いないんだ。それに今回のようなことはまた起きるかもしれない。そうなれば僕はまた人に迷惑をかけることになる。だけど僕は――僕はきみの足手まといにだけはなりたくないんだ」
「ソール」
「僕の人生はたぶん……失敗だった」ソールは淡々と続ける。
「いままでも――これからも。でも、自分の人生の責任は自分でとるものだろう?」
かたく握られたソールのこぶしに血管が浮きあがっている。そんなふうに強くにぎらないでほしいとクルトは思い、ソールのこぶしの上に手のひらをかさねた。
「そうかな」といった。
「ちがうかもしれないだろ?」
「クルト、僕の話を聞いているのか?」
「ソール、俺は治療師になるよ」
クルトは今度は両手でソールのこぶしをとると、一本一本指をひらかせにかかった。
「こんどあなたに何か起きたら、カルタンじゃなくて俺に頼るんだ」
ソールはあっけにとられた顔でクルトをみつめ、口をひらいては閉じた。
「クルト――でも、きみの家は……」
「ヴェイユ師が俺の後見につくから、父も納得するさ」
「ヴェイユが? でも――」
「俺は楽観的で脳天気な馬鹿なんだよ。知ってた?」
クルトは笑った。
「でもそんな俺も、あなたが近くにいないと不安で仕方がない」
クルトはソールの指先に唇を押しあてる。ソールの肩がぴくりと震える。
「だいたいあなたがいつまで俺みたいな子供につきあってくれるのかも、心配で仕方がない」
ソールのまぶたがふるえ、吐息がもれた。
「――クルト、僕はきみを……子供だなんて思っていないよ」
遠く沖の方で波がたつ音が響く。白い敷布の上にソールの髪がちらばる。うなじや首筋、腕が日焼けし、赤らんだ境界線ができている。クルトはその線をくちびるでさかのぼり、耳のうしろを舌でなぞり、耳朶を口に含み、歯を立てる。前の管理人が置いていったままの化粧油は果物の香りがして、つながった腰を揺らすたび甘い匂いがたちのぼる。
クルトは浅いところから深いところへずらしては突き、くりかえしながら絶頂へ追い上げていく。ソールの喉からもれるあえぎが激しくなり、悲鳴のようになって、内側がひくひくとふるえ、クルト自身を熱くしめつける。一度達しても到底足りなかった。クルトはソールの敏感になった皮膚を内側から擦り、快感に悶えて声をあげる彼を、こんどは膝に抱く。
「…波が…来るんだ……」
あえぎながらソールがつぶやく。
「きみに――こう――されていると……」
「そう……どんな波?」
クルトはささやくが、ソールはもう答えられない。そのままふたりで抱きあっている。温かい海の上を浮かんでいるようで、遠くから光が昇ってくる。
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