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エピローグ きみがいなくなっても教室はそこにある

 店の扉がひらいて、見慣れた姿が戸口に立った。  イーディが顔をあげて「あら」と声をあげる。 「早いわね」  快活な声が響く。「早く終わらせたんだ」  僕は整理途中の本を片手に店に入ってくるクルトをはしごの上から見下ろす。灰色のローブを着ていても美形ぶりはあいかわらずだ。 「ちょうどいいところに来たな。手伝ってくれないか」  声をかけると「もちろん」とクルトはこたえ、はしごの横の平台に積んだ書物をさした。 「これをしまうのか?」 「ああ。こちらへ渡してもらえるとありがたい」 「よろこんで」  クルトが本を渡してくれるとき、彼が学生だった頃の光景が一瞬脳裏によみがえって僕はめまいに似た感覚をおぼえる。でも今日のクルトは学生の深緑は着ていない。それに彼はまだ見習いとはいえ、隣国の施療院では「先生」と呼ばれているのだ。 「思うに、白より灰色の方がいいわよ」とイーディがいう。 「白は染み抜きが大変だもの。実用性では回路魔術師の黒にはかなわないけど」 「何を自慢しているんだ。さすがセッキ師の弟子だ」 「何ですって?」  イーディとクルトの掛け合いもあいかわらずで、このふたりはたぶん本当に仲がいいのだ。僕はいちばん上の棚に書物を並べ、はしごをおりた。  王都に戻るのは久しぶりだった。秋学期がはじまる前だ。カリーの店には学生たちがちらほらあらわれ、必要な教科書を物色していた。店の品ぞろえはあいかわらず魔術関係ばかりだ。魔術が関係するなら物語から博物誌まで並べることにも変わりはない。だが…… 「僕ひとりのころより成績はいいんじゃないか?」と僕はイーディにいう。 「売上数は多いんですけど、単価が低いので……」  イーディは台帳をみて首をかしげた。 「学生向けの品ぞろえを細かくしたせいだと思います。でも本職の方はかならず、ソールさんがずっといる方が問い合わせにちゃんと答えてもらえるのに、っていうんですけど」 「手紙で問い合わせてくれれば答えるといってくれ。いちゃもんをつける客はどうしてる? たまに来るだろう?」 「それなんですけど」イーディはぱっと顔を明るくした。 「レナードさんが寄こしてくれる方々は面倒なお客さんのあしらい方がとんでもないくらい上手いです! ほんとに!」  予想していた通りだ。僕は黙って微笑んだ。  去年の冬の年明け、僕はレナードにカリーの店の権利を半分売ったのだった。  というのも――秋にレナードの家令について王都を出て、隣国の海辺の村でしばらくすごしたあと、僕は納得するしかなかったのだ。僕が王都でこの先も暮らしつづけるのは無理だと。主要な理由は王都の環境が僕の体に合わないという、それにつきる。  なにしろその年の終わり、そろそろほとぼりも冷めたかと王都へ戻ったとたん、僕はたちまち調子を崩し、一週間も寝たきりだったのだ。一緒に王都へ戻ってきたクルトを死ぬほど心配させただけでなく、カリーの店の再開も怪しくなった。  レナードが店の権利を半分買い取ろうと申し出たのはそのときだ。要領がわかっているイーディや彼女の友人の学生をアルバイトに使い、営業と日々の経理はレナードのよくできた家令、ハミルトンの手配でニールス家がみる。僕は仕入れや顧客からの専門的な問い合わせや、蔵書探しなどへの指示出しをするが、王都からではなく、隣国の海辺の村に住んだまま――ということで、最終的に話がまとまった。  そう、僕はいま一年のほとんどを隣国の海辺で暮らしているのだ。  かなり驚いたのは、学院とレムニスケート家が僕のなかに眠る〈本〉の件で審判の塔を説得してくれたことだった。  審判の塔に対しては僕は複雑な気持ちがある。よくアルバイトをしていた地下書庫の人々とは親しかった一方で、僕が王都を離れることに十年前からもっとも難色を示していたのも彼らだったからだ。とはいえ王都を離れるのは条件付きだった。ひとつは、セッキが作った防御の輪をつねに嵌めていること。もうひとつは、学院が認めた精霊魔術師が緊急の際、すぐ駆けつけられるようにすること。 「レナードさんが残念がってました。用事でしばらく王都を離れているんだそうです」とイーディがいう。「会いたかったのにって」 「彼なら隣国にも寄れるだろうに」  そう僕がいうと、イーディは「いえ、単にソールさんに会うのでなくて、カリーの店の扉をあけて、ここにソールさんがいるのがいいんですって」とやや不満げにいった。 「私がいるのはすこしちがう、だそうです。まあ、わからないでもありませんから……」 「そう?」と僕は聞く。 「ええ。あの扉をあけて――」とイーディは腕をのばした。 「この奥の机にソールさんが座ってる。店に入るでしょ? 私は書棚を見まわして、欲しくても買えない本や、新しく入った本を眺めて……そしてふっと横をみると、ソールさんが真面目な顔でじっと書き物をしてる。だからしばらく本を探すふりをして、ソールさんをこっそり見るの」  僕は笑った。 「知らなかったよ」 「それにいまでも、カリーの店の店主はソールさんですよ?」  イーディはいたずらっぽく眼を瞬かせる。 「次はいつ戻ってきます?」 「決まったら知らせるよ」と僕はいう。  残りいくつか確かめておくべき書類があった。僕はイーディにああでもない、こうでもないと指示を与えるのに熱中して、時間の経過にしばらく気づかない。「遅くなると宿が大変だ」とクルトが声をかけてやっと、後始末をはじめる。  僕とクルトはふたりで帰るのだ。隣国の海岸まで。  イーディはまだ残念そうな顔をしている。僕はまた手紙を書くと彼女に約束する。  僕らは笑顔で別れる。  王都を出る馬車はハスケル家のものだ。クルトと彼の父の関係は小康状態らしい。クルトは立場上嫡男だが、ハスケルの現当主はまだ退くつもりもないから、今のところは好きにしろと放任されているのだという。  クルトは年が明けてから特例で〈審問〉に通り、春に正式に学院を卒業した。その後は僕が暮らす村近くの施療院で、治療師の見習いをしている。  それと同時に、彼は精霊魔術師として僕の専属になっている。これは冗談ではなく、学院が――おそらく審判の塔を牽制するために――正式にそう決めたのだ。僕の魔力欠乏症はあいかわらずだから、いまだにとてもおかしな気分だ。クルトのような強力な魔術師がそばにいても、僕にはさっぱりわからないというのに。  でも、クルトが僕のそばにいるのは学院が決めたからではない。  それはもう、僕にはよくわかっていた。  村に帰ると子供たちが待っている。最近はこの村だけでなく近隣の子供たちもやってきて、教室がわりに使っている別荘の階下は手狭になってきた。平日の午後、一階はほとんど初等学校の様相を呈し、そこへたまに大人もついてきて、僕に代書を頼んだりする。アルベルトも何度か来たし、僕も何度か岬の家へ行った。記録を手伝ったり、膨大な資料を整理するのだ。  夕方になるとクルトが施療院から帰ってきて、僕らは遠くで海が鳴るのをききながら食事をとる。昼間起きた出来事や周辺の町のニュースを話しながら、ふと僕は心配になる。王都で賑やかな暮らしをしていたクルトにとってこの生活は寂しすぎないだろうか。書店に閉じこもっていた僕は、むしろ逆に人に接することが増えたくらいだが、彼はまだ若く、僕がいなければ、田舎にひっこむこともないのに。 「クルト――」  と、いいかけた僕とクルトの声がかぶった。 「カリーの店、ソールがいなくても順調そうか?」  僕は話を切り出しそこね、そのまま彼の問いに答える。 「問題なさそうだ。レナードが半分権利を買ったおかげで逆に売却ルートは多くなったし……やはりコネは大事だよ」 「そうか。実は……」クルトは妙に後ろめたそうな顔をした。 「もう時効だと思うんだけど……昨年からずっと、ソールに黙ってたことがあるんだ」 「なんだ?」 「その……」  クルトがためらっているのをみて僕はどきりとする。何か決定的なことを切り出されたらどうしようか。たとえば、こんな生活は……自分が思っていたのではなかった、とか…… 「レナードが半分出資した、例の双子本の片割れ、あれの手形があっただろう」  しかしクルトが持ち出したのは思ってもみなかった話だった。  手形? と僕は思う。  ――手形! 「ルイスに振り出したあれか?――!」僕は思わずスプーンを振った。 「まずい、期限なんてとっくに過ぎてるじゃないか! 僕としたことが――すっかり忘れてた!」 「それなんだけど……実は」  クルトがなおもモジモジと、いいにくそうにする。 「俺が払った」 「え?」 「個人の信託財産から、俺が払っておいた」  彼にしてはめずらしく、しょんぼりして自信なさげだった。 「その……ソールを探している時にルイスに会ったんだ。それでその……詳細は省くが、俺の一存で期日に払った」  ごめん、とクルトは頭を下げる。 「前に――ソールに怒られたから、今までいいだせなかった」  僕はぽかんとしてクルトの話の内容をもう一度頭で繰り返し、そして思わず笑いだした。 「何を謝っているのかと思えば……クルト」  途中で涙が出そうになり、驚いた顔でみつめるクルトに向かって手を振る。 「きみが謝るようなことじゃない。謝るのは僕の方だ。いや――感謝する方かな。ルイスに払ってくれたなんて、どれだけ感謝してもたりないよ」  クルトは僕が笑うのを妙に心配そうにみつめている。 「ほんと? それでよかった?」 「ああ。ありがとう」  クルトはほっと安心したように頬をゆるめる。そうすると彼はすこし子供っぽくみえて、可愛いな、と僕は思う。 「よかった。俺の告白はこれで終わり」 「いったい何かと思うじゃないか。そんなにあらたまって」  するとクルトはまだ話を続ける。 「あらたまってといえば、もうひとつあるんだ」 「請求書の話はもういやだな」 「いや。レナードが隣町に書店を出さないかと手紙をくれてる」 「書店?」  僕はまたぽかんとした。  クルトはなんでもないことのように話をすすめる。 「このあたりで書物を扱っているのは雑物商しかないんだ。だからカリーの店の支店を出さないかって」  まるで野菜を売るなら八百屋でないと、とでもいうような調子だった。  書店。  僕は唸った。  思わず「さすがレナードだな」とつぶやいてしまう。非常に彼らしい―― 「あまり貴族らしくない……でもそんな資金、どこから調達するんだ? 僕はもう彼に出資してほしくない。世話になりすぎている」 「それで……その……」クルトが再び、ためらいがちにいった。 「もしソールにその気があるなら……俺の信託財産を出資したいんだけど……」  僕はため息をついた。 「クルト、信託信託っていうが、きみの財産ってどのくらいあるんだ」 「知りたい?」  クルトは立ち上がった。  テーブルを回ってかがみこみ、僕の耳にさらりとすごい金額をささやく。 「そんなに?」  僕はあいた口がふさがらなかった。これでハスケル家が中堅貴族にすぎないって? たしかに家格としては中堅かもしれないが…… 「その話、また今度にしよう」と僕は答える。「急ぐ話じゃないんだろう?」 「ああ」クルトはうなずき、食べ終わった食器を下げはじめる。  僕はなんとなく落ちつかなかった。まだいうべきことがあるような気がした。 「クルト?」 「ん?」 「きみは途方もなく強い魔力があって、訓練された魔術師で、さらに財産もちだ」 「そうみたいだな」 「なのにただの本屋のためにそれを使うっていうのか?」 「もちろん」  クルトは僕の方を向いて真顔で答える。当たり前だろうという顔つきだ。テーブルをさっさと片付け、まだ飲もうというのか、ワインの瓶を取り出す。 「俺が出資したいのはカリーの店二号店だぜ? 一号店は王都では稀覯本で有名で、伝説的な博識の店主で知られる――」 「ただの本屋だ」  クルトは微笑んだ。僕はそれを正面からみてしまう。ほかのすべてのことがどうでもよくなるような微笑みだった。 「でもそこから、全部がはじまったんだ」  そう彼はいった。

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