52 / 58

【番外編】僕らの骨のかたち

エピローグよりすこしまえの春の出来事。    *  ソール、お元気ですか。体の調子はいかがでしょうか。  俺は無事審問を通過しました。これで胸を張って精霊魔術師と名乗れるようになりました。ただし卒業の単位は足りないので、今は秋学期に休んだ課程をヴェイユ師の元で進めているところです。師はあいかわらず厳しい方ですが、俺の知らない学院や魔術の側面を学べるので、良い機会だと思っています。ヴェイユ師の後見があるおかげで、治療に関する専門講義もエルダー師から受けているところです。  俺が特別扱いされているというので、エルダー師はヴェイユ師より厳しい気もしますが、その分やりがいがあります。たぶん俺はかなりいい線いってるはずです。  体調は回復していますか? きっと海岸にいれば王都のような不調は起きないことでしょう。学院を卒業したら俺はかならずソールのところへ帰っていきます。きっと春には。  待っていてください。    *  クルトの文字は大きめで、のびやかだった。  僕は慎重に封筒からそっと手紙を引き出す。両手で注意深く隅を持ってひらき、一度読み、もう一度読み返して、そっと閉じる。  紙はクルトの持ち物らしい上質のパルプで、なめらかな手触りのクリーム色。上にハスケル家の透かしが入っている。折り目の通りにたたんで封筒に入れ、机に置いた。宛名の文字をもう一度みつめる。まるで文字そのものに僕をひきよせる力があるように、みつめずにはいられないのだ。  封筒の全面に大きく、バランスよく僕の名が書かれている。流麗と呼ぶような筆跡ではないが、読みやすく、書き手の自信が伝わってくる筆致だ。とてもクルトらしい。  みつめているうちにがまんできなくなって、僕はもう一度封筒を手に取る。 「ソル先生……」 「ん? ああ、ごめん」  生徒のアナが僕の前に立っていた。赤茶色のスカート、ブラウスには木の実のようなボタンがずらりとならぶ。赤みがかった長い髪をおさげにしている。とてもかわいい子だ。 「作文ができました。見てくださいますか」  そう礼儀正しくたずねる。ほかの子供たちは授業中でも僕にこんな話し方はしない。アナは村の助役の娘で、十二歳、ここへ来る子供たちのうちでは年長だ。家では先生にきちんと話すようしつけられているらしいが、それも授業のあいだだけで、村の他の場所で会えば、ほかの子と同じように喋りだす。どうやら彼女なりのルールがあるらしい。 「ありがとう」  僕はていねいにペンで書かれた文章を読む。アナは僕が教える前から読み書きができたので、他の子より一足早くインクを使ったペンの使い方を教えていた。先日の嵐についての作文で、助役の娘らしく、村の被害についての心配も綴られている。父親に話を聞いているのだろう。  綴りまちがいや表現をなおしてやり、すごくいいよ、と話すとアナの表情がぱっと明るくなる。彼女は他の子とくらべて格段に読み書きができるのだが、ひとりで物思いにふけることが多いような気がする。その様子は僕に、自分がアナくらいの年齢だったときを思い出させた。だからといって、僕が彼女に特別なことをするわけではないのだが。  他の子供たちの勉強もみて進むべきところは進めてやり、合間に僕は大人に頼まれた代書をした。年明けに戻ってきてからは面倒な頼まれものはない。昨年一時この村を離れる前は、何十年も会っていない友人を招待する手紙や、年内に支払うよう強く催促する督促状など、こみ入った内容の代書が続いたものだった。 「ソル先生、今日もありがとうございました!」 「…ございました!」  夕方になると子供たちはきちんと礼をいって帰っていく。アナが玄関口でちらっとふりかえって僕をみたが、何もいわずに帰った。  子供たちが帰って、僕はまた手紙を整理する。昼間読んでいた手紙ではなく、今日届いた手紙だ。僕がこの村へ戻ってからは数日おきに王都から手紙が届く。たいていはレナードからの知らせか、カリーの店からの問い合わせだ。王都を離れる前にカリーの店の権利を半分レナードへ譲ったから、事務手続きについてのぶあつい封書もある。クルトの筆跡はない。彼だって毎日手紙を出すわけにはいかないだろう。そんなことはよくわかっているのに、僕はがっかりする。  おかしなものだ。「待てる」となるとひとは欲がふかくなる。    *  クルト、手紙をありがとう。  審問に通ったとのこと、おめでとう。きみが通らないはずはないとわかっていましたが、それでも心から嬉しく思います。  僕は元気です。やはり海岸での生活は体に合うらしく、王都にいたときのようなめまいはなくなりました。あの時は本当に心配をかけて申し訳なかった。僕は大丈夫なので、安心してください。  こちらでの生活は変わりありませんが、アルベルトから手伝いに来てくれないかと頼まれ、朝から岬へ行った日が何回かありました。彼は春から秋のあいだに収集した研究用の資料を冬の間に整理するのが習慣らしい。僕は鳥の羽根の標本の整理に駆り出されています。きみに見せられないのが残念なくらい、美しい色や模様の羽根がありました。それにしても未だかくしゃくとしているとはいえ、アルベルトがどうやってこれらの標本を採集したのか、僕には謎です。以前書物でみた、高地の崖に巣を作る鳥の換毛も含まれていました。アルベルトがいうには羽根の次は骨だとのこと。でも何の骨かは教えてくれませんでした。  きみが無事学院を卒業するのを心待ちにしています。    *  つまらないことばかり長々と書いてしまうと思いながら、手紙が届いたその夜に僕は返事を書いた。翌朝読み返してまた書き直す。気が緩むとつい、いろいろと繰り言を付け足したくなる。早く春になって、きみがここへ戻ってくるのを願っています……  クルトに会うことは許されたが、この先どうなるかはまだわからない。むやみやたらな希望を抱きたくなくて、僕は最後の言葉を消した。  秋に僕を探しあてたクルトと年の終わりに王都へ戻ったとたん、僕はたちまち体調を崩してしまった。そのせいでついに僕は観念せざるを得なかったのだ。この都は僕には合わない。王都で暮らし続ければ僕はまた倒れてしまうだろう。  レナード・ニールスと学院や審判の塔のあいだで何度も話し合いがもたれ、僕はひとりで海岸の村へ戻った。まだ学生の身分のクルトは蚊帳の外で、ずいぶん憤慨していたが、仕方がなかった。これは彼を守るためでもある。  クルトの〈審問〉は僕が王都を発って数日後に行われたはずだ。これは王国がみとめる精霊魔術師となるための最後の関門で、あとは学院を卒業できれば、クルトのこの数年はとりあえず報われたことになる――入学当初の彼が予想していたような結果とはずいぶんちがったものにはなるが。  村での生活は平和だった。  隣国とはいえ言葉もほとんど変わらず、政局も安定しているので、僕は当面ここに落ち着けることになった。隣国ふうの「ソル先生」という呼び名になり、住まいの階下を使ってひらかれる教室もすっかり定着した。といっても、クルトが僕を探しあてる前の暮らしとほとんど変わりはない。そもそも海辺のこの村で、ひとびとの生活は何年もほとんど変わらずに過ぎていくのだ。  だが王都から戻ってきて、希望というものは物事の感じ方をずいぶん変えるのだと僕は認めざるをえなかった。春になったらまたクルトがここへ――来るかもしれないという希望……。  ひとの心はおかしなものだ。何かを待っていると――本当に待っていると、もしそれが裏切られたらどうしようかと不安になる。クルトを信じられないとか、そんなことではない。待っていることそれ自体が僕をやきもきさせ、そわそわさせる。  僕はこんなふうに誰かを待ったことはなかった。    *  ソール! 俺の卒業がきまりました。  終わりにはエルダー師も多少俺を認めてくれたようです。アダマール師がいうには、エルダー師は誰にでも辛辣だけど、俺はかなりマシなのだとか。またヴェイユ師は後見としてあちこちに口を聞いてくれ、最初の印象を思うとびっくりするくらい、今の俺は師に恩を感じています。  そして大事な知らせがあるんだ。レナードからも手紙が行くと思うけど、俺はもうすぐソールのところへ行くよ。隣村の施療院で人手が足りないとかで、俺を見習いとして受け入れてくれるそうです。  春にはという約束を守れて、俺は嬉しい。  もうすぐ行くから、待っていてください。    * 「ソル先生、どうしてそんなに……ふわふわしているの?」  子供たちのひとりがたずねた。まだ口もよく回らない小さな男の子で、教わるためというより両親の仕事中に面倒をみるため、少し年上の兄とやってくるのだ。 「ふわふわ?」と僕は聞き返す。 「それをいうなら『そわそわ』だよ」とアナが口を挟む。 「そうでしょ、そわそわしてるよね、先生」  教室の外のアナは他の子供と同じように話す。たしかに僕は何日も落ち着かなかった。クルトから手紙が届いてからずっとそうなのだ。  手紙は内ポケットにしまって、紙の隅がくたくたになってしまうくらい何度も読み返していた。朗報がもたらされると不安になるのは、僕が何年もそんなよき知らせに縁がなかったからにちがいない。真逆のことが起きるのではないかと心配になってしまうのだ。王都からここまで、まっすぐ来るのならそれほど時間はかからない。だが旅の途中で何かがあったらどうしよう……おまけにそんな不安を誰かに話したら最後、物事が悪い方へ進むのではないかという恐れで、誰にもいえずに悶々とする。  クルトからの知らせがついたその日に僕は返事を書いたが、まだ内ポケットに入れたままだった。郵便を運ぶ馬車が故障してしまい、修理に数日かかるということだった。 「もうすぐ友達が来るんだ。昨年の秋に来た人だよ。その人を待っているから『そわそわ』している」  迷った末に僕はいった。僕の身勝手な迷信はうっちゃっておくに限る。 「覚えてる! あのお兄さん!」 「あの人は魔法がつかえるんだよ」 「ちがうよ、まじゅつだよ。まほうじゃない」  アナが僕を見上げていう。 「楽しみだよね、先生」 「ああ、楽しみだ」と僕は答えた。    *  きみがここへ来るとのこと、ほんとうに嬉しい。  このあたりの砂浜にはつる性の草が生えていますが(塩分が強い土地なので他の草は生えないようです)冬の間は茶色だったつるから、この数日のうちに緑色の新芽がのびはじめました。  先日アルベルトのところへ手伝いに行ったら、彼の予告どおり、小さな骨の標本の整理をさせられました。といってもいまの生物ではなく、土に埋もれたまま残っていた、過去絶滅した生き物の化石です。  アルベルトの岬にはいろいろなものがあって驚かされます。僕は骨の見分け方を教えてもらいました。僕らの骨と似たようなものもありますが、かたちは似ていても、機能がまったく違うものも多いらしい。  さまざまな生き物の骨のかたちを比べるといろいろなことがわかるとアルベルトはいいます。僕らの骨のかたちもその比較対象になるわけです。  きみに会える日を待っています。    *  面白いことに、海辺の近くで暮らす人々は漁師でもないかぎりあまり海を見ていない。僕が毎日のように砂浜に立ち、海を眺めているのを不思議に思っている村人もいるようだ。あまりにも近くにある事物は当たり前になりすぎて、見えなくなってしまうのだろう。  離れているからこそみえることもこの世にはきっとある。  僕は浜にぼうっとたたずみ、なぜかクルトの肩甲骨を思い出している。なめらかな皮膚に覆われた骨のかたちなど、すぐそばに彼がいるときには考えることもない。  僕はもうすぐきみに会えるだろう。  きみは僕のすぐうしろに立ち、僕を呼ぶのだ。

ともだちにシェアしよう!