54 / 59
【番外編】冬の花(1)
「ソール、祭りはどうするんだ」
崩れそうな紙の山を前に、突然アルベルトがいった。
「え? 冬祭りですか? 特に何も……村のおかみさんの手伝いはしますけど……」
クルトの恋人は手に持った紙束から顔を上げ、そう答えた。クルトは紐でくくった書籍を箱から取り出しながら会話に聞き耳を立てる。アルベルトから感じられるのは純粋な好奇心だった。珍しいことではない。いや、むしろこの老人から好奇心を感じない日の方が珍しい。
「海岸の都市には行かんのか。村では冬祭りもどうってことないが、町はすごいぞ。飾り立てた夜市も立つし、大陸の船もついたばかりのはずだ」
「そうですね――でもあまり人が多いのは、僕はちょっと……」
「何をいっとるんだ」
アルベルトはソールの逡巡をいつもの口調でたちまち蹴散らす。
「まだまだ若いくせに、こんな塔で毎日じじいのデータに埋もれてばっかりはけしからんぞ。あんたにはそこの魔術師もついているんだ。祭りの日くらい遊びなさい」
「アルベルト師、町に使いが必要なんですか?」
クルトは書籍を束ねる紐を解きながらたずねた。
「俺とソールについでに行ってくれ、というんじゃ…」
「おお、さすが精霊魔術師。察しがいいな」
魔術は関係ないだろう。クルトはそう思ったが顔には出さなかった。立っている者は親でも使えという主義のこの老人は、ひと使いの荒さで村の男衆に有名で、加えて町へ行きたがらないのもよく知られていた。自然の真っ只中になら、たとえ嵐で死にそうになっても飛び出していくのに、町へ行く用事は何かと理由をつけて周囲に頼むのだ。しかしそれはソールのように人混みが苦手という理由でもないらしい。
「たいした用事じゃない」アルベルトは悪びれた様子もなくいった。「ギルドに書類を届けるのと、版元に行って校正刷りを預かってもらいたいだけだ。なに、急ぎじゃない。ギルドの宿に泊まってのんびりしてきたらいい。ソールもクルトも町の祭りは行ったことないんだろう? 盛大なもんだ。それに運が良ければ『冬の花』も観察できる」
「冬の花?」
ソールが顔をあげた。
「あれですか、海に雪が降っているようにみえる、という…」
「雪?」クルトは眉をあげる。
「この土地に?」
「もちろん雪じゃない。正体は羽虫だ」
アルベルトはソールの注意を引くのに成功したせいか、してやったりというように頬をゆるめた。
「磯の植物にくっついた蛹が羽化し、海の上で飛びながら交尾する。終わると雄は力尽きて海に落ち、雌は飛び立ってふたたび磯に卵を産みに行く。年に一日か二日、このあたりでしか見られない光景だ。ギルドの高台から眺めると壮観だぞ。気温と海水温から考えると今年はちょうど冬祭りの当日に見られると踏んでおる」
ソールは熱心に語るアルベルトをしげしげとみつめた。
「ご自分で見なくてもいいんですか?」
「ああ、データは嫌になるくらい取った。だからこそ予測できるんだ」
「そうですか。たしかにそれは……」
「なあ、行きたくなっただろう」アルベルトはにやりと笑った。
「それにそこの魔術師だって、たまにはあんたらを知らない人の中に行きたいだろうが。そうそう、花火も上げると聞いてるぞ」
アルベルトは岬に住む老学者である。かつては魔術師だったとも噂されているが、今では魔力がほとんどないため、真偽のほどは疑わしい。海洋や気候、動植物について研究しているが、彼の来歴は誰も知らない。いつの間にかこの海辺の使われなくなった古い灯台に住み着き、自然に関する書物を何冊も出版し、付近の村人に時々知恵を貸しているおかげで偉い学者先生として扱われているが、出身はおろか、岬に来る前はどこにいたのかも謎の老人である。
情報通の貴族、レナード・ニールスですら、アルベルトについて知っていることは付近の村人と大差ないくらいだ。しかし故あって王国が保護する人物、ソール・カリーが岬に出入りするようになった以上、万が一この老人絡みで何かあった時に、何もわからないではすませられない。なのでソールの専属魔術師で恋人でもあるクルト・ハスケルは、できるだけアルベルトについて情報を集めるようレナードに依頼されていた。
ソールに近づく人間を警戒するのはクルトも同様だったから、休日にソールが岬へ出かけるといえば、クルトもついていくことにしていた。アルベルトはソールの能力を高く買っており、何かというと手間賃を払って研究の手伝いに駆り出す。老学者はクルトの意図を知ってか知らずか、岬に人が増えるのはまったく気にしない。むしろ今のように、ありがたいとばかりに雑用をさせるのだ。
しかし海岸の都市まで使いに行ってくれ、という要請ははじめてだった。
とはいえ、クルトにとって悪い提案ではなかった。全員が顔見知りの小さな村はソールを守るには都合のよい場所だが、たまには周囲に邪魔されない場所で恋人とのんびりしたい――というのは、若い男子の健康な思考といってもさしつかえあるまい。何しろ海辺の村の生活では、休日の朝、寝台でのんびり眠りをむさぼろうとしても(あるいはそれ以外のことをしようとしても)すぐに村人の呼び出しや子供たちに邪魔されるのが常なのだ。
というわけで、クルトはソールと並んで馬車の中にいる。
右手に明るく海が開け、下っていく道の先に都市が開けて待ち構えている。離れた高台には商業ギルドの大きな建物がそびえ、港へつながる道がみえる。空気は冷たいがそれほど寒くもなく、いい天気だ。今年の冬は天候に恵まれていた。
「例の『冬の花』明日の早朝か夕方に見えるかも」
ソールは嬉しそうだった。書物で得た知識を豊富に蓄えていても、実際に自分の眼で確認することが彼にとって一番の喜びなのは、クルトにもよくわかっている。
「まずはギルドに寄って書類を渡して、宿を確保してから街へ出ようか」とクルトは提案した。
「その、校正刷りを預かる版元というのは街のどこに?」
「以前行ったことがある小さな書店だ。単に預かるだけでなくて内容の確認も頼まれているから、少し時間がかかるかもしれない」
ソールの声が申し訳なさそうに小さくなる。
「きみは退屈じゃないか?」
「もし時間がかかるなら、俺はそのあいだ外すよ。行ってみたい場所もある」
これ幸いとばかりクルトはいった。内心、どこかでソールへの贈り物を探そうと目論んでいたのだった。冬の祭りは冬至の翌日からはじまる。ソールと海辺の村で暮らしはじめてから知った、この地方で若者のあいだに根強く伝わるいい伝え――冬至に恋人に贈り物を渡し、一晩身につけてもらえれば、贈った者と贈られた者のあいだは永遠につながれるというもの――をずっとクルトは気にかけていた。無害なまじないにすぎないが、無害だからこそやってみたかった。ソールに贈り物をしたいのはもちろんだし、こんないい伝えを逃す手はない。
ずっとそう思っていたのに、良い贈り物を探す機会がなかったのだ。
「そうか? それならいいんだが」
ソールはほっとしたようだった。
ギルドでふたりは丁重に迎えられた。ソールもクルトもレナードからギルド長に紹介されていたおかげだ。アルベルトに預かった書類を渡し、一泊の宿を求めると、ふたりに最上階の続き部屋を用意するという。
街へ下りて食事をとり、アルベルトの版元へソールとふたりで向かうときも、クルトの心はうきうきしていた。ひさしぶりにソールと水入らずの休暇だという気がする。誰にも見られていないし――正確にいえば、クルトは容姿のおかげで目立つため、道行く人にそれなりに見られてはいるのだが、知り合いがその辺をうろうろしていないという意味である――さりげなく腕を組んでもソールが嫌がらない。
これは王都ではおよそないことだし、村の生活でもめったにない。クルトはいまだに、自分とソールの仲を世間に見せびらかしたいとどこかで願っていたので、これまたもってこいの機会というわけだった。
ともだちにシェアしよう!