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【番外編】おなじ光のなかにいない

   *  ソール・カリー殿  たいへんご無沙汰しておりますが、お元気でしょうか。時折王都のカリーの店にも顔を出されていると聞いていますが、審判の塔でお見かけすることはなく、寂しく思っています。  昨日のことですが、書庫に調査へ訪れた騎士から、そちらで新しく店を出されるという話を伺いました。ソール殿のことですから、大変行き届いた店舗になることでしょう。王都のカリーの店も引き続き経営されるのでしょうか。お忙しいことと思いますが、何卒ご無理をなさいませんよう。  書庫へお立ち寄りになることがあれば、またソール殿がお好きだとおっしゃっていた焼き菓子をご用意いたしましょう。  地下書庫のアランより。    * 「手紙?」  僕が二度読み直しているあいだに、クルトが眼をあげてたずねた。 「王都の知り合いだ。審判の塔の」  そう答えたとたん、クルトは眉をあげてややきつい表情をした。暖炉の炎に照らされて、秀麗な顔立ちに濃い影がおちる。 「審判の塔? ソールを王都から出さないといって最後までがんばってた連中か?」  僕はあわててつけくわえた。 「いや、地下書庫の職員だ。臨時の仕事のついでによくお茶をごちそうになっていた。友達だよ」  上等の紙とはとてもいえない、ひっかかりの多い表面に流麗な文字でつづられた手紙だった。僕がどこに住んでいるのかは彼らには明かされていないから、これはまず王都のカリーの店に届き、それからこの海辺の村まで転送されてきたのだ。  審判の塔の地下書庫で働く人々は出世頭でもないし、生活に困ることはないとしても裕福とはいえない。王都にいたころ僕はよくあそこで臨時の仕事をもらっていた。なかなかの人気者だったと今でも思っている。それはひとつは僕の能力――几帳面すぎるこだわりや記憶力――のせいでもあったが、たぶんそれだけでもなかった。  少なくとも田舎のゆったりした時間の中で暮らしている今の僕は、そう思えるようになっていた。よく話をする職員には本当の友達といえる人も何人かいて、アランはそのひとりだった。地下書庫では古参のひとりで、まるで生まれた時から地下にこもっているかのような青白い手と顔をした男だが、僕は年齢をたずねたことがない。  審判の塔の上層部は〈本〉を内に抱えている僕を王都の外へ出すことに最後まで反対したと聞いているし、レナードや騎士団、それにレムニスケート家が主導権を握って僕の処遇を決めたことを、いまだに良く思っていないはずだ。しかし組織が動く論理は、そこで働くひとのこころと一致しているとは限らない。地下書庫で長く勤務する職員は僕と同様、例外なく文字と書物が好きで――そうでなければあそこの仕事は拷問にひとしい――個人的にカリーの店を使う者もまれにいた。とはいえ、僕がいま隣町に準備している新しい店の噂が地下書庫まで流れているのは意外だった。  もっとも、手紙をくれたアランはカリーの店に来たことはなかった。彼は僕の仕事が終わったあと、連れあいのメリッサと一緒に僕をお茶に誘い、そのたびに僕が好きだといった焼き菓子をおごってくれるのだった。そういえばあのお菓子は、他の場所でみたことがない。  ふと思い出してそういうと、クルトは眉をひそめて「焼き菓子くらい、どこでも似たようなものだろう」という。 「そうかもしれないが、好きだったな。木の葉の形をして、表面に木の実がまぶしてあるんだ。すごく薄くて軽くて、香ばしくて……」 「こっちでも手に入るだろう。今度聞いてみる」 「クルト、いいよ」  むきになったようにいいつのるクルトに僕は首をふる。 「それに、審判の塔にそんなに含むのはやめてくれ。彼らは立場がちがうんだ」 「ソールは優しいからな」  クルトはなんだか腹を立てているように不機嫌な声を出す。だから「そんなことはない」と僕はいった。 「ちがう光のもとでは物事はちがうように見えるからな。それだけだ」  その晩は地下書庫の話もお菓子の話もそれきりで、翌日になると僕の意識からは完全に抜け落ちていた。何しろ、隣町への出店準備で忙しい時期だったのだ。  隣町の店舗は目抜き通りから路地を一本入ったところで、頑丈な厚い壁と扉に守られている。町はさすがに海辺の村とちがって人も多く、賑やかだが、海岸沿いの都市ほどの規模はない。だからこの店は王都のカリーの店のように魔術の本だけを扱うわけではなかった。とはいえ、責任はもっと大きいかもしれない。なにしろ文字がついたものはなんでも雑貨屋の隅に置き、必要なら都市から取り寄せていた場所に、書物だけを商う店を作るのだ。  しかも今回は先代から継いだ王都の店とちがい、自分で好きなように内装をいちから設計できるとあって、僕はつい偏執的な癖を出してしまい、防火用の塗料を塗るところから書棚の設計まで、細かく口を出しがちだった。おまけに、王都でカリーの店の権利を半分持っているレナードと彼の家令のハミルトンは僕のわがままを鷹揚に認めてくれるし、新店へのクルトの出資は十分すぎるほどの金額ときていて――などと他人のせいにしてはいけないのだが――僕がむやみに細かいところへこだわるゆとりがありすぎた。  というわけで、僕が毎晩遅くまで図面や仕入れリストを前に考えこんでいると、クルトは心配そうな顔をする。だが今度は彼が勤める診療所も店の近くにあるわけだから、その点は安心しているようだったし、僕も心強かった。  それに新しい店は毎日あけるわけではなく、当面、週に二日だけの営業の予定だ。僕は村の子供相手に教師のまねごとをしていたし、字が書けない村人の代筆だの、役人への取次ぎだのといった面倒もみていたから、いまは毎日店に出るわけにもいかない。  隣町は数年前に発見された鉱山の中継点としてこのごろ急速に人口を増やしていて、最初に話をもちかけてきたレナードには十分勝算があるようだった。レナードに張り合うように出資したクルトはクルトで、回収をいそぐつもりはないからのんびりやれという。  クルトがそういったのは、開店がどんどん近づいてきて、不安のあまり僕が夜更けに目を覚まして呻いていたせいだ。海辺の村の夜はいつもと変わらず平和で、寝室には波の音が響いていた。 「ソールは大丈夫だ。俺は知ってる」 「クルト……きみはそういうが、僕はすぐに店をつぶしかねないよ。商売の才能がないんだ。父にもよくあきれられていた」 「だったらソールの親父さんにはひとを見る目がない」  クルトはあっさりそういって僕の肩に腕を回す。 「寝よう。ほら」  僕はまた横になり、暗い天井を眺めながら、もう十数年会っていない父のことを考える。最後に肉親と会ったのは十一年前、学院の事件のあとに施療院をたずねてきた母と面会したときで、勘当された息子である僕は、それから誰にも、手紙のひとつも送っていないのだった。だいいち王都の学院に入学するずっと前から、僕と家族の間柄は穏当とはとてもいえなかった。  実家にいたころの僕――魔力を失うまえの僕は、逆に多すぎる魔力のせいでつねに問題の種だったし、父の商売の邪魔になるとも思われていたし、じっさいに邪魔になったこともあっただろう。何しろ訓練を受けていない精霊魔術ときたら――いやそれも、もう今の僕には関係のないことなのだが。 「クルト、きみは……ご実家の父上とは……大丈夫なのか?」 「ん?」クルトの声は眠そうだった。 「問題ないよ。あの人も昔は、自分は絶対に誰にもつけこまれたりしないと自信満々だったのが、例の事件のおかげで少しへこんでちょうどよくなったくらいだ。それになんだかんだいっても、まだ元気だから」 「クルト、その――僕にいえた義理じゃないが……ご家族は大事にしないと」 「俺の家族はソールだ」  温かい手のひらが僕の背中を何度も撫でて、太腿から腰にまわる。 「眠れない?」 「いや。おやすみ」  というわけで、僕は忙しさにまぎれてアランの手紙に返事を書くのも先のばしにしていた。ところがクルトは手紙のこともお菓子のことも忘れていなかったらしい。その週末の休み、僕が寝台で朝寝を決めこんでいたときだ。  いつもの僕はクルトが起きた後もしばらくぼんやりしているのだが、この日は粉の焼けるいい匂いに誘われてめずらしくはっきり眼が覚めた。階下へ降りると、いつも家事を手伝ってくれるおかみさんとクルトが厨房で顔をつきあわせて、ああだこうだといいあっている最中だった。 「もっと薄く……洒落た感じにするんだって」 「でもねえ。卵白で軽くはなっても、木の実を入れるとどうしても重くなるからねえ」 「――何をやってるんだ?」  僕は靴をつっかけて戸口から厨房をのぞきこんだ。クルトの背中が驚いたように上下してふりむく。 「ソール! まだ寝ていていい。疲れているだろう?」 「でも、いい匂いがするし……」 「ソル先生、味見してくださいよ」  村人は僕の名前をこの地方の発音で呼ぶ。そして近頃、僕はそう呼ばれると反射的に自分が教師だと感じてしまう。習慣というのは奇妙なものだ。 「それは何ですか?」 「焼き菓子ですよ。クルト先生がこうやるんだっていうから」  おかみさんは何やら、可笑しくてたまらないといった表情をしている。 「隣国の都ではこんなお菓子を食べるんだね? 上品すぎてこれじゃお腹に溜まらないねえ」  網のうえには不揃いな木の葉型の焼き菓子が並んでいた。おかみさんは無造作にひとつとり、僕の手のひらにぽんと乗せる。クルトは妙にばつの悪そうな顔をして僕をみた。 「……ソールが話していたお菓子とはちがう――かもしれないけど……」  手のひらの焼き菓子はまだ温かく、木の実のいい香りがした。口にいれると軽くて柔らかく、舌のうえで甘みが溶けた。アランの焼き菓子とはもちろんちがうものだった。異なる空気と光のしたで作られた、優しい味だ。 「美味しいよ。クルト。ありがとう」 「そうか?」 「僕がいま食べたいのは、こんなお菓子だった」  ぱっとクルトの顔が明るくなり、おかみさんが彼の背中をどやしつけるように叩いて豪快に笑った。村人たちに僕らの関係を説明したことはないが、誰もクルトと僕がただの友人だとは思っていないだろう。レナードが配慮しているせいもあるのだろうが、僕はこの海辺の村で、周囲のひとびとに守られていると感じている。いつまでこの平穏のなかにいられるだろうか。  厨房は明るく、焼き菓子の香ばしい匂いに包まれている。僕は地下書庫のアランにあてて書く手紙のことを考えた。拝啓、アラン殿。つぎに僕が王都のカリーの店にいるとき、できれば一度立ち寄ってくれませんか。審判の塔ではいつもごちそうになっていたから、今度は僕が、手土産に焼き菓子を持っていければと思っています……。

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