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【番外編】水よりもまえにある

「書物に水は厳禁、だったか」とクルトがいった。 「もちろん。当然、火もだ。光もあまりよくない。インクを劣化させてしまう。湿り気も少ない方がいいが、乾燥しすぎもダメ」 「すごく繊細だ」 「もちろん」 「ソールみたいだ」 「え?」  僕は眉をあげる。壁にあいた小さな窓の向こうでは激しい雨が降っている。出店したばかりの「カリーの店」二号店の調子はまずまずだった。レナードを通じて商人たちが王都の本店の評判を広めてくれたおかげで、前評判は悪くなかった。客層は王都の店とはちがい、小冊子に刷った物語を求めるご婦人方や、子供たちの教育用の読本を探す教師たち、それにクルトの勤務先の施療師や、港湾の大きな都市に住む回路魔術師たちなどさまざまだ。魔術師たちの大半は本店の目録を確認するのが目的で、高価な稀覯本の取り寄せを頼む者もいた。  いまのところ僕は週に二日だけ店を開けている。クルトが当直で留守にするときをのぞき、住んでいる海辺の村との往復は彼と一緒だ。だから店を閉めるころになると仕事が終わったクルトがあらわれて、僕が帳票を片づけているあいだ、机の前に腰かけて待っている。 「ここにいるとあまり雨の音が聞こえない」 「壁が厚いからな」  クルトの言葉は問いのようにもひとりごとのようにも聞こえたが、僕はほとんど反射的に答えた。そして急に、ひどくなつかしい気分をおぼえた。既視感。  こんな時間を前もクルトと過ごしたような気がする。きっと王都のカリーの店でそんなひと時があったのだろう。故国の王都はそろそろ雨季のはずだ。この国の気候はすこしちがって、雨雲を動かす海風がすぐ近くにあるから、王都のように長期に渡って雨は続かない。そのかわり時たま、激しい嵐がやってくる。 「ここは海が近いから、壁を厚く、火気や湿気への対策も万全にしてもらった。レナードにもきみにもずいぶん迷惑をかけた気がするよ」 「俺には迷惑なんてかかってないぜ?」  クルトは真顔で僕をみつめていった。はじめて出会ったころにくらべても、彼の美貌はこのごろ以前よりひきしまり、見慣れているはずの僕を時々ドキリとさせる。それに職務上の責任もあってか、最近のクルトはさらに頼もしくなったようだ。僕は彼が成長し変わるのを日々肌身で感じている。  一方僕の方はといえば、あいかわらずとしかいいようがない。魔力欠如――これからも一生つきあっていかなければならない、ある種の障害――に加え、王都を離れてこの国で暮らすことでクルトやレナード、王都の人々に助けられていることなど、僕はずっと周囲に迷惑をかけっぱなしだ。故国を離れてから僕がやっていたのは、王都の店に関する仕事を少し。あとは海辺の村で子供たちに教師のかわりをしたり、主として読み書きに関する村人の頼み事を聞いたり、岬の塔に住む学者の手伝い、その程度だった。そこへ今この二号店が加わったというわけだが、それだけだ。  十歳も若いクルトがこんな僕を受け入れてくれるのは、いまだに奇跡のような気がしてならない。本当はクルトは僕などおいていつでも飛び立てるのだ。それでも彼と出会えて、僕はほんとうに幸運だった。少なくともそれがわかる程度は、僕も変わりはしたと思う。 「水に濡れた書物はどうするんだ?」  雨の音を聞きながらクルトがいった。 「修復する方法はある。水に塩分が含まれているか、真水かで異なるが……」  僕は説明をはじめる。記憶力だけが僕のとりえなので、ずっと以前に読んだ修復方法も覚えているし、自分が多少試したり、実験した内容も説明できる。さらにいくつかの面白そうな小話のたぐいもだ。 「水に浮く都市の伝説がある」  ひと通りの説明をしたあとで、ふと思いついて――あるいは黙っているのが嫌で、僕は続けた。 「いい伝えによれば、回路魔術が発明されるずっと以前、選ばれた精霊魔術師の魔力だけでこの都市は水に浮いていた。大洋を漂う交易都市だったが、強力な精霊魔術師が集っていたため、この都市の図書館にはあらゆる秘伝が収集されていた、といわれる。しかしある時、記録破りの嵐と海底火山の噴火により、この都市は沈んだと、伝えられている」 「それから?」 「都市を支えていた精霊魔術師のひとりが、生き残って海水から書物をひろいあつめ、今説明したような形で保存した。それらの書物は――」  僕は言葉を切った。力の書。生きている本。道の本。様々な表現をされる、魔力の源たる書物、魔力をそれ自体が書物――その起源はこの都市の図書館だといわれている。 「書物は?」  クルトがまばたきしてたずねた。僕ははっとして、首をふった。 「さあ。散逸して、そのまま消えたかもしれないし、写本が作られたかもしれない。伝説だよ」 「そうか。しかし夢があるな。それに考えさせられる」 「何を?」 「その失われた海の都市に蓄えられていた知識が、この店の棚のどこかにあっても、おかしくはないわけだろう?」  僕は思わず小さく声をあげ、笑っていた。 「そうだな。だから僕は書店が好きなんだ」 「そんなソールが好きだよ」  クルトはさらりといった。不意打ちに僕はクルトの言葉を消化するのが遅れた。理解したとたんに赤面して、ますます恥ずかしくなった。この男はいまだに僕をびっくりさせる。 「雨の音がやんだ」とクルトはいった。 「いまのうちに帰ろう」 「ああ」僕は答えて、机の上の書類を片づけた。  新しい「カリーの店」に訪れる客はその後も途切れなかった。港湾都市まで行かなくても書物や冊子が手に入るからと、開店日は一日中さまざまな人が訪れる。魔術の専門書籍しか置いていない王都の店とはずいぶんな違いだ。僕はここに書店を出そうと話を持ちかけたレナードの才覚について、あらためて感心せざるをえなかった。  ところが何気なくクルトにそう話したら、彼はなぜかムッとした表情になる。僕はあわてて言葉を続ける。 「もちろんきみの出資がなかったらこれもあり得なかったんだが」  クルトは鼻を鳴らした。 「レナードはやり手さ。でも今にみてろよ」  正直どういう意味なのかと思ったが、それ以上聞くのはやめておいた。新店が順調なおかげで僕はようやくまともに眠れるようになっていた。開店前からつい最近まで、緊張のためにほとんど熟睡できなかったのだ。  店には意外な客も来た。  最初は、岬の塔に住むアルベルトだった。この老学者はひと気のない森や海ならひょいひょいどこにでも行こうとするくせに、町や都市はできるだけ避ける。本来避けられないはずの用事も使いに頼もうとする。そんな彼が普通に扉をあけて姿をあらわしたので、僕は途方もなくびっくりした。たぶん口をぽかんと開けていたのだろう。 「ソール、そんなに驚くな」  僕とは正反対に、アルベルトは平然としたものだった。 「アルベルト。あなたは町にはけっして足を踏み入れないと思っていましたよ」 「ああ。今回かぎりかもなあ」  老学者は店を見まわし「これはいい店だ」と相好を崩す。 「商売は順調かね?」 「思ったよりずっと。ところで、あなたの本も置いていますよ。都市の版元と直接取引していますから」  僕がそう答えると、アルベルトはどういうわけか顔をしかめた。 「そうか――とすると、うるさいのが来るかもしれんな。やはり今回かぎりか」 「うるさいのって?」 「そのうちわかる」  老人は愉快そうにニヤニヤした。老獪な猫に似た表情だ。 「このあたりの魔術師どもは一度はこの店に来るだろうからな。カリーの本店の目録が目当てだ」 「あなたもですか?」 「もちろん」  たしかに王都のカリーの店の|蔵書目録《カタログ》を目当てに来る客は多かった。ほとんどが魔術師で、稀に学生か魔術師見習いらしい、ローブ姿の若者もいる。  意外な客の二番目はアルベルトが到来した次の週に訪れた。その日はまた激しい雨が降っていた。クルトは当直だというので、僕は早めに店を閉めて帰ろうか、それとも雨がおさまるまで待つかと思案していた。店の扉がひらき、大きな音を立てて閉まった。  外は激しい雨で地面が叩かれていても、書店のぶ厚い壁の内側では、ブーツの足音も、水滴が床に落ちる音もよく聞こえる。僕はあわてて扉口へ駆け寄った。 「すまないが、濡れた外套はそこで脱いでくれ。フックがあるから――」 「よう」  長身が僕をみおろしている。暗色のフードの下からしわがれ声が発せられる。僕は立ち止まった。この声の記憶はまだ新しい。昨年の冬だ。 「サージュ?」 「ほう」  相手から返ってきたのは感嘆ともあきれたともとれる、あいまいな響きだった。  フードがはねのけられ、黒髪と浅黒い肌、吊り目のきつい顔立ちがあらわれる。去年の冬至にクルトと港湾都市へ訪れた時、アルベルトの校正刷りを受け取った相手だ。 「俺を覚えているのか」 「もちろん。ではひょっとして――アルベルトがいっていた『うるさいの』はあなたのことかな?」 「あの野郎、来たのか? 今は?」 「先週、一度だけだ。あなたが来るのなら、もう二度と来ないんじゃないか」  僕は相手が濡れた外套を入口のフックにかけるのを見守った。レナードを思わせる髪と肌色だが、眼つきも雰囲気も研いだ刃を連想させる身のこなしも、穏やかなレナードの印象とは正反対だ。しかしおなじくらいの年齢だろうか。サージュ。名前はこれで間違いないのだろう。  冬至に出会った時、彼は老学者の元弟子だと話していた。実際、校正刷りを前に彼と喧々諤々やりあったあとには、口調の粗暴さにも関わらず、言葉のはしばしに浮かぶ知性のきらめきに僕はかなり感心したのだ。 「こんな雨の中、わざわざどうも」  少し変な気分だった。自分でも理由がわからなかったが、サージュはふつうの客だという気がしなかった。友人ではもちろんない。なのにこの――既視感のような、覚えのある手触りはなんだろう? 「目録を見せてもらおうと思った。評判らしいな」  ひどくしわがれた声でサージュはいった。喉に異常があるのだろうと僕は推測する。事故か、あるいは病気か。 「ありがたいことにね」  僕は長身の男を書棚のあいだの閲覧机に案内する。サージュは無意識にか、すこし頭をかがめるような姿勢で前のめりに歩くと、小さな机の下に長い足を邪魔そうにおしこんでぶ厚い目録をめくった。  その様子を斜めうしろから眺めて、僕はふと確信した。乱暴な口調や物騒な雰囲気にも関わらず、この男は僕の同類だ。  書物狂――あるいは学者のなり損ない。つねに知識に飢えている存在。  港湾都市ではそこまで思わなかったが、きっとアルベルトの著作で僕の頭がいっぱいだったせいだろう。  しかし彼は僕とちがい、現役の魔術師か、少なくともかなり強い魔力の持ち主のようだ。僕は店の奥に戻り、魔力探知用の眼鏡をかけてサージュをそっと観察する。馴染みがあるような感じがするのはこのためだろうか。僕に魔力があったころの記憶――僕が何かを連想するものが、彼にあるのだろうか?  ガタっと椅子をひく音に、僕は我にかえった。 「ふん。興味深い」  サージュは腕を頭のうしろで組み、僕の方をじろりとみる。 「この目録の書物はあんただけで集めたのか」 「まさか。先代からのものだ。これを作ったのは僕だが」  サージュの浅黒い顔がゆがんで、なのに笑ったのだとなぜかわかった。髪の生え際にうっすらと、白く細い傷跡がみえた。 「ソールっていったか。あんた相当、いかれてるな」 「悪かったな」 「あのじいさんの相手ができるわけだ」  長身の男は立ち上がり、窮屈そうに体をひねった。 「また寄る」 「客なら歓迎だ」  雨の音はまだ激しかった。もう閉店にするべきだろう。扉口で外套を着ながら、サージュはふと僕の足元をみて、唐突にいった。 「その足環、魔力を補充したほうがいいかもな」 「え?」 「いや――大きなお世話か」  何の話かと聞き返そうとしたとき、すでに男は雨の中に消えていた。  意外な客の三番目はなんと故国の貴族だった。といってもまだ十代なかばの少年で、従者を連れて馬車で乗りつけてきたのだ。その日も雨が降っていたが、サージュの時のような土砂降りではなかった。明るい曇り空からぱらぱらと水滴が落ちてくる程度で、なのに従者は店に入るまで少年の上に雨用の外套をさしかけている。  ひと目見た時、その少年に対しても僕は妙になつかしいような、馴染みのある雰囲気を感じた。もちろん一度も会ったことはない。少年は明るい金髪に真っ白な肌、中性的な顔立ちは人形を思わせる美貌で、ちらりと僕を一瞥した眸の色は深い青だった。見るからに仕立てのいい服を着て、手をうしろに組んだまま一言もしゃべらず、貴族特有の、すこし背中をそらした姿勢で書棚のあいだを歩いている。  僕に話しかけたのは従者の青年の方だ。彼の主人は海岸沿いの別荘地にこれから夏のあいだ滞在し、秋から王都の学院へ入学することになっている、という。こんな田舎町に書店ができたと聞いて退屈しのぎに見物に来た、とのこと。なるほど。 「ずいぶんお若いですね」 「マンセル様は優秀なので、入学許可が特別に下されました」  なるほど、と僕はまた思う。優秀か。きっと魔力のことだろう。親や教師によって、|で《・》|き《・》|る《・》|だ《・》|け《・》|早《・》|い《・》|教《・》|育《・》|が《・》|必《・》|要《・》と判断されたということだ。  貴族の前だと何をいわれるかわからないため、僕は眼鏡をかけていなかった。だから想像するしかないのだが、従者が誇らしそうであってもおどおどした態度をとる原因について、多少の見当がついた。ここまで若くなかったが、この少年のような貴族の学生に僕もずっと昔、学院に入学したころに出会ったものだ。  当時の僕は彼のような人間に対して、羨みや怒りや軽蔑、さまざまな感情を持ったものだった。田舎から苦労して出てきた貧乏学生にはよくあることだ。 「ソール!」  そのとき急に扉がひらいて、よく知った声が響いた。「手紙が――」 「クルト?」  クルトは治療師のしるしである、薄い灰色のローブを着たままつかつかと大股に歩いてきた。客に気づいて足を止める。 「ああ、失礼しました。申し訳ない、店主に用事があったもので。ソール――」 「クルト兄さん!」  書棚のあいだから少し高めの声があがる。クルトの言葉が軽快な足音にさえぎられた。貴族の少年がクルトの前に立っていた。僕には口をきくどころか一瞥を向けただけだったのに、満面の笑みで彼を見上げたかと思うと、いきなりクルトの首に腕を回して抱きついた。 「ここで会えるなんて!」  クルトは一瞬とまどった表情をして、次に眼を見開いた。 「――マンセル? 育ちすぎだ。一瞬わからなかったぞ」 「クルト兄さん、僕、秋から学院に行きます」 「もう? おまえまだ――ああ、そうか」  僕が見ている前で、驚きから懸念そして納得と、クルトの表情がすばやく移りかわった。少年の腕をそっとはずして両肩に手を置き、すこしかがんで眼を合わせる。兄弟に対するような仕草だったが、もの慣れた様子で、僕は胸の底が奇妙な苛立ちでざわめくのを感じた。  この少年はハスケル家の縁戚か。クルトは王都でもよく知られた貴族の出身だった。 「最後に会ったのは三年前だったか? 領地で教師をいじめすぎて追い出されたのか」 「違います! 僕の力は学院でないと扱えないからって、特別許可が出たんです。早く精霊魔術師になって、兄さんに追いつきますから」 「そうか。そうだな。がんばれ」  クルトは気のない声でいった。少年から手を離す。黙ってみていた僕の方を向く。 「ソール、紹介するよ。母方の親戚のマンセルだ。マンセル、彼はソール。俺の大切な人だ」  クルトの親戚とこの店で会うなど、意外もいいところだ。僕は手を差し出した――が、少年は僕を無視した。かわりにクルトを見上げて唇を噛む。 「マンセル?」 「母から噂は聞いていましたけど……でもどうしてこんな――こんな人と」 「マンセル!」  従者とクルトが同時に彼の名を呼んだが、僕はもう手を引っこめていた。手だけでなく、体も店の奥へ向かっていた。醒めた気分だった。どこか遠くの方で、ひさしぶりだと感じている自分がいた。  魔力欠如者かつ、ただの平民に対する反応としては、貴族ならよくあることだ。僕は彼にとって完全に取るに足らない存在でしかないだろう。そもそも貴族のくせに僕を丁重に扱ってくれるクルトやレナードの方がおかしいのだ。  しかもこの少年がクルトの親戚で、学院に早期入学を許可されるほどの魔力の持ち主で、みるからにクルトを慕っているとくれば、なおさら。  叱りつけるようなクルトの声――ほとんど僕が聞いたことのない声音――が聞こえていたが、僕は無視して奥で書類をひっくり返した。いま、他の客が来なければいいが。僕の仕事は多いのだ。王都の店から転送された問い合わせにも答えなければならないし、売上を計算し、内容を分析して、この先どんな本を仕入れるかも考えなければならない。書物の手入れや整理も待っている。 「申し訳ありません」  かけられた声に顔をあげると、従者の青年が居心地悪そうに立っている。 「大変失礼致しました。マンセル様はお帰りになります」  僕はうなずき、今度は差し出された手を握った。魔力が多い者の従者をつとめるのは並大抵の苦労ではなさそうだ。 「あなたが穏やかなひとでよかった。ほんとうに申し訳ありません」 「慣れているだけですよ」 「私はセリムです。またどこかでお会いした時は、どうぞよろしく」  少年はついに僕には何もいわず、従者と連れ立って出て行った。クルトはひどく憤慨した様子だったが、扉が閉まったとたん奥へ入ってきて、背後から僕の肩に腕を回した。 「ソール、ごめん」  首筋に彼の息があたる。腕が胸におりて、背中から腰、尻まですっぽりと温かさに包まれる。 「きみが謝ることじゃないだろう」と僕はいう。 「俺の知り合いだから俺も同罪だ。まったく――」  僕はおもわず笑った。 「気にするな。よくあることだよ」 「馬鹿なこというな」  クルトは僕を抱きしめたまま、首のうしろに唇をあて、くぐもった声でいった。 「俺は気にする。ソールは――俺のソールは、すごいんだから」  僕はまた笑ってしまった。まったく、この男ときたら。 「それでクルト、どうしたんだ? 今日の仕事はもう上がり? 何かあった?」 「ああ」  クルトは思い出したように僕から腕を解いた。 「ソール、水に浮く都市の伝説についてこの前、話しただろう」 「それが?」 「もちろんその伝説とは関係ない――ないけど、南の沖の海底で、大きな遺跡がみつかったというんだ。レナードから手紙が来た。夏に船を出して調査をしたいのだと。それで……ソールの力を借りたいって」 「僕の?」 「夏の休暇をつぶす気があるか、という話だ。これが手紙」  僕はクルトがローブの内側から取り出した封書をみつめた。一通は開封済みでくしゃくしゃになっている。もう一通は僕の名前で、未開封。 「クルトと僕と、それぞれ手紙が来たのか」 「当たり前だ。ソールが行くなら俺も休暇をとらないと」 「え?」  クルトはにやっと唇をあげて笑った。 「忘れるなよ。俺はソールの専属魔術師なんだ」  耳の奥にわきたつ潮騒が聞こえたような気がした。  さっきの貴族の少年のときとはちがう種類の胸騒ぎで、うなじの皮膚がぞくぞくした。背中にまた温もりを感じた。クルトの手が僕のあごをとらえ、すぐ近くに彼の眸がみえる。僕の内側にはざわざわと立つ波のように、不安とも期待ともつかないものが揺らいで、おさまらないままでいる。でも波のあいだには明るい緑がきらめいている。クルトの快活な眸の色だ。  この色を見失わなければ、波にさらわれないですむ。ふとそんなことを僕は思う。 「そうだな。きみも一緒だ」  僕はつぶやき、クルトは小さく声を立てて笑った。温かい指がやさしく僕のあごから耳のうしろをなぞる。僕らはそっとキスをする。新しい店は紙と塗料と木材の匂いでいっぱいで、外気を満たす水の香りは厚い壁にへだてられている。 (きみがいなくなっても教室はそこにある 完) *夏の休暇以降の物語は『果ての塔から響く歌』へ続きます。

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